幸福の科学は、全国全世界に信者がいます。
幸福の科学の信者さんの声を伝えるネット機関に、VOICEE(ヴォイシー)というサイトがあります。
今回ご紹介する沖縄在住のHさんは、なんとかつて沖縄日本復帰運動を、ご夫婦でなさっていた方でした。
先の大戦の遺族であり、日本復帰の際、重要な役割を演じたHさん。
マスコミでは語られることのない、真実の沖縄の声でもあります。
「憎しみを捨て、愛を取れ!」
この全人類共通の神仏からの宿題に、この時代を生きる方々が、見事優秀な成績を修めることができますように。
7月7日には幸福の科学では、「人類史の大転換」という法話が、さいたまアリーナで説かれ、もよりの幸福の科学支部・精舎・拠点で衛星中継されます。
また7月12日には、幸福実現党党首 釈量子(しゃく りょうこ)と共に、ジャーナリストで評論家の、惠隆之介先生が来高し、「沖縄で起こっている大変なこと」という御講話を賜ります。
今日本人がなさねばならないのは、真の意味での歴史の見直しです。
それはイデオロギーに寄らず、政治的な配慮や思惑に寄らず、広く世界的見地のもと、ただただ真実を追究することなのです。
今を生きる大人たちが、未来を生きる子や孫たちに、この国の本当の姿を伝える必要があります。
政治もマスコミも、自己保身やこれまでの慣習に流されず、「真に正しいことは何か」を追求し、それを推し進めていただきたいと、一日本国民として心より願います。
ありもしない従軍慰安婦強制連行や、南京大虐殺をこれ以上引き継いで伝え広めることは許されません!
政治よ、正しさを取り戻せ!
ただ自己の保身や、支持率やマスコミ受けというような、低次元の大人の事情だけで、未来の子孫に毒杯を飲ませることなかれ!!
(ばく)
☆釈量子党首&惠隆之介先生 高知合同講演会☆
日時 7月12日 13時~16時予定
会場 RKCホール(高知新聞放送会館)
費用 無料(カンパ大歓迎)
沖縄戦という悲しみの記憶を乗り越えて
http://voicee.jp/2015041110952
Hさん
終戦を迎えても夢でうなされる母
大東亜戦争末期の日本は、本土防衛の最後の拠点を沖縄としました。
そのころ、アメリカ軍が沖縄に迫っていたのです。
父は、島民たちに島の北部へ逃げるよう指示。母は、当時まだ赤ちゃんだった私を背負って、避難生活を続けました。終戦後、弟が生まれましたが、熱病で亡くなりました。
終戦を迎えて我が家に戻ったのは、10月になってからだったようです。
しかし、母は戦争の夢によって夜な夜なうなされる日々を送っていました。
軍服を着たままの夫が、家を背にして立ったまま、消えていく――。
そんな悲しい夢を見ていたといいます。
それでも「お父さんはどこかで捕虜になって生き延びている」と私に言い続けていました。
しかし、私が小学6年生の頃、父が戦死したことが判明します。
島民を守るために戦い抜き、愛する島で散ったのです。
沖縄を捨てて“外国”の東京へ
終戦後、母と祖母と3人で父の遺骨を探しに行きました。
サトウキビの葉っぱが、さやさやさやさやと音を立てている様子、そこを歩いた記憶は今でも鮮明に覚えています。
「父はこんな所で死んだのか」と、ものすごく寂しい気持ちでした。
結局、遺骨は見つかりませんでした。
また、当時の沖縄は、アメリカの占領下。
今までの宗教や教育が全否定された、つらい少女時代でした。
当時は、アメリカ兵に対して、どうにもならない憎しみが出ました。
「沖縄」というところが、ものすごく暗く重苦しい感じがして、私は「沖縄を捨てよう」と思ったのです。
パスポートを持って当時は外国だった東京へと旅立ちました。
沖縄のお役に立ちたいと思い帰省
しかし、大都会の喧噪の中で、日本の誇りが忘れられ始めたことに気づきました。
戦後、日本をないがしろにする意見が、どんどん出てきたのです。
とても悔しい思いがありました。
自分の心に問うた結果、「そうだ、自分は沖縄や日本を守る為に戦って死んだ父の遺志を継ぐんだ!」と新たな戦いを始めることを決意。私にとっての戦い、それは、祖国復帰運動でした。
当時、沖縄では祖国復帰運動が盛り上がっていました。
しかし、反日・反米思想が入ってきて、世論が二つに分かれていったのです。
そこで、「復帰の批准貫徹を国会に要請しよう」と、大会が開催されることになりました。
大会の7名の代表として私と現在の夫が選ばれました。
その後、沖縄返還に向かって時代は動き、1972年5月15日、沖縄が日本に復帰。
27年の占領が終わったのです。
家族で幸福の科学の信仰をもって
1990年、時を経て、日本が経済大国になってゆく中、大川隆法総裁先生による初の沖縄での特別講演会を機に、家族で幸福の科学の信仰を持ちました。
その教えの内容に家族みんなが感銘を受けたのです。
そして、2005年4月17日には、地元の沖縄の地に、沖縄正心館が落慶。
大川隆法総裁先生より沖縄正心館限定の法話をいただきました。
幸福の科学沖縄正心館
沖縄正心館限定法話「沖縄正心館に寄せて」より
「沖縄では数十万の方が亡くなられて非常に気の毒であるし、大変だっただろうなと思いますけれども、まったく無意味な死であったとは思えません。」
「それは新しい時代が拓けていくために捧げられた尊い犠牲だった。」
「決して無駄な命ではなかった。」
「それは新しい時代を創るための礎であった。」
法話を初めて聴いたときは、30分ぐらい泣き続けて立てませんでした。
「これが真実か。自分が求めていたのはこれだったんだ」と本当に救われる思いでした。
2008年には、父と弟の「位牌」を幸福の科学の霊園である来世幸福園に納骨供養。
「お父さん、よかったね。本当によかったね。苦しかったことは、もう終わりです」と語りかけました。
夢の中で言われた言葉「ずっと一緒だよ」
さらに納骨後、母の夢に笑顔の父が現れたのです。「ずっと一緒だよ。もうどこにも行かないよ」と、そう夢の中で言われたのだそうです。
母も幸福の科学に出会ってから、精舎への参拝を重ねています。この信仰をもって、とても救われました。
「父も天国で幸福の科学の勉強をしていると思う」と語る母は、とても幸せそうです。
さらに私たち家族の供養の気持ち、慰霊の気持ちは、沖縄正心館の祈願「戦争と平和のための祈り」の祈願文の内容を受けて、向かうべき方向が少しずつ変わっていきます。
憎しみを捨て愛を取らなければいけない。
一個人の供養から「公の心」になって、沖縄で戦死したアメリカ兵の霊をも救わないといけない。
そう思うようになりました。
沖縄平和祈念堂で慰霊祭を毎年開催
2009年から毎年、幸福の科学の会員を中心に、摩文仁の沖縄平和祈念堂で「英霊に捧げる供養と感謝の祈り」を開催するようになりました。
その祈りには元米兵の方も参加し、子供たちや地域の方々とともに、真の平和を考える慰霊の機会になっています。
沖縄平和祈念堂
戦後70年たった現在、国際情勢が大きく変わりました。
沖縄に中国による「沖縄侵略」という新たな危機が迫っていることを感じています。
戦後70年生きただけでもありがたい思いでいっぱいです。
私達は幸福の科学に救われました。
本当に幸福になりました。
幸福の科学の教えこそ、世界の人々を救い、宗教争い等をなくし、平和に導く教えだと確信しています。
また、必ずや、日本の国に正しい歴史観と信仰心を取り戻し、今日の日本の繁栄の礎となられた英霊への感謝と供養、名誉回復を成し遂げたいと思います。
また、主エル・カンターレの悲願である人類救済にむけて活動して行くことが、「私のお返しの人生」と考えております。
☆当ブログの読者には、ご高齢の方も多く、読みやすいよう、編集させていただきました。(ばく)
【字幕あり】中国が尖閣・沖縄を侵略する日