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寺院伏0338 宝塔寺  日蓮宗 画像追加

2017年02月21日 06時45分43秒 | 寺院

 

 

 

周辺案内図

 

四脚門

 

駒札

 

深草山と号する日蓮宗の寺院である。

寺伝によれば、藤原基経が発願し、昌泰2年(899)に藤原時平が大成した極楽寺に始まるといわれる。当初は真言宗であったが、徳治2年(1307)に住持の良桂が日蓮の法孫・日像に帰依して、日蓮宗に改めた。

 また、日像が京都に通じる7つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の1つが、当寺の日像廟所に奉祀されたことにちなみ、寺名を宝塔寺と改称したとされる。本堂(重要文化財)は、江戸初期の1608年の創建で、本尊の十界曼荼羅、釈迦如来立像、その左右の日蓮・日像の像が祀られている。行基葺の多宝塔は永享10年(1438)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(総門)とともに重要文化財に指定されている。境内には、肺病治療の名医で、肺病平癒の信仰を集める宗有とその妻妙正の墓があり、夫婦塚と呼ばれている。また、本堂背後の七面山には、寛文6年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神を祀る七面宮があり、そこからの眺めは素晴らしい。 京都市

 

総門・四脚門

 

縁起は藤原氏の極楽寺にさかのぼる。徳治2年(1307)日蓮の法孫は日像は、京都布教中に洛外へ追放された。その時、真言寺(向日市)で、時の極楽寺住持良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂は屈服した。極楽寺を法華道場に改め、日像を開山に仰ぎ、自らは二世になった。日像は京都妙顕寺で没するが康永元年(1342)遺言により、ここで荼毘(火葬)に付された。今、参道に碑が立っている。また、日蓮、日朗の遺骨も納められたので、西身延、巽の霊山とも呼ばれている。天正18年(1590)妙顕寺日尭が本堂の再興を志し、弟子日銀がその志しを受け八世を継ぎ、荒廃した諸堂の再建に着手。本堂(重文)は、京都大仏殿建立の余材が寄進され、慶長13年(1608)落成した。この時、寺名は鶴林院常寂寺、深草山宝塔寺に改められた。

四脚門

 

門を入って 振り返ったところ

 

 

平成8年から始まった本堂の解体復元工事に関連して、宝永2年(1705)に起工された仁王門の彩色修復調査を行った際、28㎝四方の正方形に区切られた天井板1枚1枚にボタンが描かれているのが判明、復元された約250枚の色鮮やかに描かれたボタンが再現している。

本堂(重文) 本尊 十界曼茶羅、立像釈像(釈迦像)。

大仏殿の余材寄進により、桧、欅、栂など多種の木材が使われている

 

 

秋山自雲(岡田孫右衛門)の墓。

孫右衛門(1699~1744)は、摂津の酒造家に生れ、長じて江戸霊厳島の酒問屋を継いだ。38歳の時、持病にかかり全治しなかった。頭をまるめて浅草山谷本寺の題目堂に篭って、法華信仰による平癒祈願に努めるが、その効なく、7年間持病に苦しみ、45歳で没した。秋山自雲は戒名で、死に臨んで「願わくば、後世、持病痛苦の者の来って、題目を信仰せば、我これを援護し、利益を垂れん」と、一大誓願を発して世を去ったという。以来、痔疾平癒祈願の参拝者は多く、浅草から各地の日蓮宗寺院に分骨された。京都でも宝塔寺以外に8ケ所の分祀があるといわれる。病気が病気だけに、石塔に裏側からも拝めるようになっている。

 

宝塔寺

 

 

秋山自雲(岡田孫右衛門)の墓。

 

孫右衛門(1699~1744)は、摂津の酒造家に生れ、長じて江戸霊厳島の酒問屋を継いだ。38歳の時、持病にかかり全治しなかった。頭をまるめて浅草山谷本寺の題目堂に篭って、法華信仰による平癒祈願に努めるが、その効なく、7年間持病に苦しみ、45歳で没した。秋山自雲は戒名で、死に臨んで「願わくば、後世、持病痛苦の者の来って、題目を信仰せば、我これを援護し、利益を垂れん」と、一大誓願を発して世を去ったという。以来、痔疾平癒祈願の参拝者は多く、浅草から各地の日蓮宗寺院に分骨された。京都でも宝塔寺以外に8ケ所の分祀があるといわれる。病気が病気だけに、石塔に裏側からも拝めるようになっている。

 

 

 

宗有、妙正の墓。2人は内科医夫婦である。2人の詳細は不明であるが、この墓前で朴木の塔婆を上げて読経してもらい、その灰をのめば、胸の病が治るといわれてきた。朴木は、古来、胸の病に効くといわれ、胸の病で亡くなった桃園天皇の皇后は、死後、自分の墓のそばに朴木を植え、この病気で困っている人に、この木の葉を煎じて飲むようにと遺言されたという。今も、泉涌寺の墓のそばに朴木が茂っている。また、歌舞伎の「大経師昔暦」の登場する、おさん、茂兵衛の比翼塚との伝えもある。そのためか、俳優さんの参拝もある。

 

 

 

伊良子一族の墓。伊良子道牛(1671~1734)は16歳から10年間、長崎で河口良庵からカスパル流外科を学び、元禄9年(1696)江戸への途中、伏見で草鞋を脱いだ。銀座2丁目で開業し、患者は列をなしたと伝えられている。享保12年(1727)に入門した大和見水は岸和田で開業するが、その養子となった大和見立の弟子に華岡青洲(1760~1852)がいる。

 

伏見は、伊良子流外科の発祥の地であり、宝塔寺の南、真宗院墓地には、山脇東洋の墓があって、深草は、近代医学の先駆者たちの眠る場所なのであるが、道牛の墓石は紛失している。(伊良子氏は、今も、滋賀県近江八幡で外科医を継承されている)

 

 

 

その他、江戸時代の儒者、山本亡洋や三宅寄斎の墓があり、京都大丸の下村家の広大な墓地もあるが、その中で、大丸従業員の供養塔が目につき、そこには出身地と名が刻まれている。

 

 

鐘楼

 

 

仁王門

 

寺号標

大正7年  大坂 川端半兵衛

 

極楽寺開創1100年記念

 

右  七面・  ・・・・熊鷹・・ 之

 

小西巻三郎

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ことわざ

砂長じて巌となる(いさごちょうじていわおとなる)

小さな砂つぶが大きな岩石に成長いるという言い伝えから、永く栄えることを祝っていうことば、また小さなもの、とるにたらないものでも、たくさん集まれば、大きなもの、価値あるものになるということ。

類・塵も積もれば山となる

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