(写真は、戊辰戦争のときの官軍の砲弾が当たった跡が残る「砲弾打込杉」)
早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、JR宇都宮駅へ
向かいます。
JR宇都宮駅で、JR日光線に乗り換えて、上の写真のJR今市
駅で下車します。
前回のゴールだったJR今市駅の近くの「追分地蔵」へ向かい
ます。
「今市宿」は、1868年の「戊辰戦争」の兵火により町並みの
ほとんどが焼失してしまい、江戸時代の宿場町の雰囲気は何も
残っていません・・・
「日光街道」は、「追分地蔵」のあるここ「追分」で、
「例幣使(れいへいし)街道」と合流します。
「例幣使街道」は、朝廷の勅使が日光社参するための街道で、
中山道の倉賀野宿が起点で、この追分が終点です。
(追分地蔵は赤丸印、日光街道は赤色線、例幣使街道は水色線、
国道119号は黄色線、日光街道の杉並木は上の2本の茶色線)
一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫) | |
アーネスト サトウ | |
岩波書店 |
幕末の英国外交官だったアーネスト・サトウは、著書
「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:上下各840円)
の中で、「例幣使(れいへいし)」について以下の様に
書いています。
例幣使の家来達は、僅かな権威を笠に、自分達に敬意を
払わなかったという口実で、金銭を強要するのが常だった。
例えば、品川宿で、敬意の表し方が足りぬと、18人の人々を
捕らえて罰金を科した。
例幣使は地位が高く、大名すら駕籠からおりて土下座しな
ければならず、庶民はもちろん、下級武士ですら例幣使の
通る道筋を避けていた。
その様な状況下、アーネスト・サトウに、警護の侍が、
「この先で、”野蛮人ども(例幣使一行のこと)”に遭遇
するかも知れません」と警告します。
すると、その夜、宿場の宿屋に、例幣使の家来が、”毛唐を
出せ!”と叫んで乱入し、アーネスト・サトウを切ろうと
しますが、警護の侍に撃退されます。
この撃退劇を聞いた宿場町の人々は、手を叩いて喜びました。
例幣使が如何に人々に嫌われていたか、よく分かります。
その後、この英国外交官の殺人未遂事件について、幕府は、
英国大使からの強硬なクレームに対処せざるを得なくなり、
この例幣使の家来を死刑に処する決定をします。
サトウは、処刑に立会って確認するかと幕府から聞かれます
が、その必要はない、幕府を信用している、と処刑の立会い
を断ります。
この殺人未遂事件については、後日談があります。
このとき、サトウを守った警護の侍は、会津藩士・野口富蔵
でしたが、サトウは命の恩人として、野口を4年間ロンドン
大学に私費で留学させました。
この事件後、間もなく明治維新を迎えたため、サトウが遭遇
した例幣使一行は、歴史上、最後の例幣使となりました。
例幣使街道との追分には、上の写真の「追分地蔵」が祀られて
います。
追分地蔵は高さが2メートルもあり、石のお地蔵様では関東一
の大きさです。
この地蔵は、元々は東照宮の付近に祀られていたのですが、
大洪水で、今市まで流されて、半分埋もれていました。
石工が、地蔵の肩を叩いたところ血を流したので、彫り出して
今市の如来寺に祀りました。
しかし、毎晩夜泣きしたため、故郷を見渡せる現在の場所に
移したところ泣き止んだそうです。
この追分の少し先で、街道を右折して、細い道に入り、「二宮
尊徳」を祀る「報徳二宮神社」を参拝しました。
徳次郎宿で説明しました様に、二宮尊徳は、小田原藩で財政
再建に手腕を振るいました。
更に、その後、諸国の農村を再興させたことにより、老中・
水野忠邦に認められて幕臣となり、1852年に日光神領で
あったこの地に赴任しています。
そして、日光での農村復興のため力を尽くしましたが、
1856年、ここ今市宿で70歳でその生涯を閉じました。
尊徳は、”墓石は建てるな”との遺言を残しましたが、
尊徳を慕う人達によって、境内に前頁の写真の「二宮尊徳
の墓石」が建てられました。
報徳二宮神社に隣接して、日光社参時に将軍が休息した下の
写真の「如来寺」があります。
また、如来寺は、先程説明しました様に、日光から洪水で
流されて来た追分地蔵が最初に祀られた寺でもあります。
上の写真は、街道沿いの「今市宿市縁ひろば」です。
この広場には、食堂や、日光市観光協会の観光案内所などが
あり、土産物も販売しています。
お昼過ぎだったので、ここで「日光ゆば蕎麦」(1,250円)
を食べました。
上の写真は、街道沿いに設置されている「いまいちの水」
で、”ご自由にお飲みください”とあります。
”今市の水は美味しい”と言われ、この様に数カ所に水が
飲める場所があります。
いまいちの水の先の左手に、大きな杉の玉を下げた1842年
創業の前頁の写真の「渡邊佐平商店」がありました。
上の写真は、街道沿いの名物”日光みそのたまり漬け”を売る
「上澤梅太郎商店」です。
私はこの店で、お土産に写真のたまり漬けの詰め合わせを買い
ました。
上の写真は脇本陣跡で、玄関の前に、フクロウの上に猫が
乗っている石像が2体立っています。
更に街道を歩いて行くと、宿場町の外れに、前頁の写真の
今市宿の総鎮守の「瀧尾神社」があり、江戸時代には、
ここに今市宿の出口の木戸がありました。
瀧尾神社は風車を祀る神社でもあり、写真の様に、奉納された
風車が並べられています。
瀧尾神社の辺りから、日光街道の最後の宿場町である「鉢石
(はついし)宿」へ向けて、再び、長~い杉並木が始まります。
上の写真は、今市宿の外れの杉並木の入口で、左端は杉並木と
並行して走る国道119号です。
ここから、杉並木と東武日光線の間に挟まれた「杉並木公園」
が、1キロにわたって続きます。
「杉並木公園」の道の横に沿って、とても綺麗な小川が流れて
います。
公園の入口近くには、上の写真の「朝鮮通信使 今市客館跡」
の碑がありました。
朝鮮通信使の日光社参の際に接待するために、ここに館を
設けたのだそうです。
更にその奥には、「大水車」や、そば粉を挽くための「水車
小屋」もありました。
そして、公園の更に奥には、前頁の写真の名主の家
(旧江連家)が復元されていました。
「杉並木公園」の左側には、写真の杉並木が続きます。
杉並木公園が終わると、瀬川村に入ります。
瀬川の集落を抜けると、左手に、下の写真の「瀬川の大日堂」
があり、その前に石仏群が並んでいました。
ここでは、信仰の厚い村人によって、念仏供養や庚申が盛んに
行われたそうです。
日光街道は、行けども行けども巨木の杉並木で、荘厳さに圧倒
されます!
更に、杉並木を歩いて行くと、右手に「砲弾打込杉」の案内板
がありました。
戊辰戦争のときに、日光へ退却する大鳥圭介率いる幕府軍と、
この地まで追撃して来た谷干城率いる官軍とが、この地で
熾烈な戦闘を展開しました。
この激戦の際に、官軍の砲弾が当たった跡が杉に残って
います。
更に、美しい杉並木が続きます。
所々に、車の通行ができる区間もありますが、ほとんどが
歩行者専用で安心して歩くことができます。
やがて、右手に、写真の「野口の薬師堂」がありました。
ここは、竜蔵寺跡の薬師堂で、上の写真の大きな石の釣鐘が
地面に置いてありますが、これは、奉納されたときに龍頭が
壊れてしまったために、現在まで放置されたままになって
いるそうです。
上の写真は、ここ七里村の総鎮守の「生岡(いくおか)神社」
と生岡大日如来の道標で、生岡神社はここから奥に入った
ところにあります。
やがて、日光街道は、国道119号線に合流すると、車の量が
多くなる上に、歩道は狭くて歩きにくくなります。
間もなく、右手に、杉並木の中で、一番大きくて姿が美しい、
と言われる「並木太郎」がありました。
胴囲5メートル余り、高さ38メートルの巨杉ですが、
これまでに見て来た他の杉も巨木なので、飛び抜けて
大きい、という印象は受けません。
並木太郎から杉並木を暫く歩くと、上の写真の「明治天皇
七里御小休所跡碑」がありました。
明治9年の東北巡幸の帰途の小休所だそうです。
更に、国道119号線を進んで行くと、上の写真の様に、
日光連山と東武鉄道の線路が見えてきます。
JR日光線のガードをくぐり、再び杉並木の歩道に入ると、
間もなく、下の写真のJR日光駅に到着しました。
JR日光駅の先には、東武日光駅があります。
上の写真の東武日光駅の前に広場があり、この広場の辺り
に、次の「鉢石(はついし)宿」の「木戸」がありました。
今晩は、JR日光駅の前の下の写真の「日光ステーション
ホテルクラシック 」に宿泊します。
(1泊2食付き:16,500円)
この日光街道踏破を通して唯一の宿泊です。
このホテルで、今晩、日光街道踏破の前祝いを
してから、明日、最後の宿場の「鉢石宿」と「日光東照宮」
を見物する予定です。
今市宿から鉢石宿までは、約8キロです。