2015年04月23日

ただする

先日、禅アカデミーにアップされた向さんの動画メッセージは、「ただする」というタイトルでした。

ちなみに数日おきに、僕と向さんが順番で配信しています。


「ただする」というのは、行為をあれこれ考えながらするのではなく、ただするのです。


ただお茶を飲む。

ただ洗い物をする。

ただ歩く。


何をするかではなく、どんな状態でするかを大切にします。


同アカデミーの沖縄サットサンで、ある女性が

「料理をしているとき、それをしている自分がいなくなって、ただ行為だけがありました」

と分かち合ってくれました。

向さんも、まさにそれこそが自他一如の「ただする」ということだと喜んでいました。


このところ何度も伝えているノンデュアリティ(非二元)も、まさに同じことです。

行為はありますが、行為者がいません。

ただことが起きているのです。


このような状態は、日常の中でふいに訪れます。

僕だけでなく、誰の身にも起きていることです。

しかしあまりにも当たり前すぎて、そこに価値を感じないので、見過ごしてしまう人が多いのです。

当たり前のものには価値を感じないのですが、「ここ」にあらゆる人が求めているすべてがあるのです。


「ただする」


この禅的アプローチを生きれば、ストレスが溜まることはありません。

ちょっとこの感覚を日常の中で試してみてください。




最近クリックしなくなったかもしれませんが、たまにはいかがですか?


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・・・・・・・・・・・


ワンネス・非二元・アドバイタ・全体意識・ノンデュアリティ・さとり・目覚め・・・・・・

様々な言葉で語られてきた、ただひとつの真理があります。

いま欧米では大きな関心が集まりブームになっているそうです。


しかしおひざ元の日本では、はるか昔から「禅」という伝灯の中で、粛々と継承されてきました。

そして神がかりな特別なこととしてではなく、日常の世界に取り入れてきたのです。


禅の知恵を学ぶというのは、本当の自分を学ぶことであり、本当の自分を学ぶというのは、自己の不在を見抜くことです。

そのとき「いまここ」が出現します。


この一点を伝えるために、僕たちは20年間にわたり活動を共にしてきました。

今回は初めて東北の地にお邪魔します。

仙台講演会のお申し込みを開始します。


向老師&阿部敏郎 講演会

2015年5月9日

16:30~19:00


最初に向老師が、次に阿部敏郎が、そして最後は2人の対談になります。


会場等の詳細はコチラから。



Posted by Toshiro Abe at 09:56│Comments(37)
この記事へのコメント
こんにちは


    禅☆


禅☆  禅   禅☆


    禅☆


日常生活


ただ☆する

ただ☆起きている


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2015年04月23日 10:29
神様って70億もの人を全員プログラムしてこの世に送り出してるって、凄い!としか言いようがありません。
オタクのゲーマーでも、ゲームの中で70億ものキャラクターを作る事はしない、いや出来ないのではないでしょうか。
しかも地球の人口は増える一方。って事は、神はまだ分離している?昔はこんなに人口はいなかったはずですよね?
神様はこれから先ももっと分離して、もっと色々な経験をしたいのでしょうか?
もしそうなら満足しない神様って欲張りだな〜(苦笑)
まあ人間も、もっともっと欲しい、的な自我を持ってますけどね。
やはり私たちは神の子だ〜(笑)
Posted by みかれっくす at 2015年04月23日 10:38
さまざまな事が重なり、専業主婦のまま離婚した者ですが、子供が2人いて、なかなか就職が決まりません。

引き寄せの法則で人生を変えたいと切に願っていた矢先この阿部さんのコメントをみました。

では、高次元に存在する、エイブラハムのようなつながってスピリチュアルメッセージを送られる方も、本当は、他次元にもそんな存在は無く、全てヒーラーさんの思考の中の産物になるって事ですか。

両親も他界しており、もうすべてにおいて限界にきてます。
ロボットなのだから、人生を好転させる術はなく、このまま終焉を迎えるのが定めなのでしょうか…
Posted by そら at 2015年04月23日 10:39
「これがわたし」「これがわたしのもの」

という想念が消え去るとき

想念を超えてずっと存在している永遠の静寂の意識が現れてきます。


複雑怪奇で雑多な想念が消え去るとき

単一で純粋なわたしが現れてきます。


禅の示す真実は

単一で純粋です。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2015年04月23日 10:58
てのなかに握っているものなど、何もないなんて。
小さい頃、空気になりたいと思っていたのはそのとうりのことだった。
あるままに。ありがとうございます。
Posted by AYAKO at 2015年04月23日 10:59
阿部さんこんにちは。
突然、ブログと関係のない質問をしてすいません。
今日、youtubeで「頭がない男」ダグラス・ハーディングさん を見つけました。
いつものようにボンヤリとしか理解していませんが、阿部さんがおっしゃっている事と近いですか?なんか気になりました。
Posted by 555 at 2015年04月23日 11:02
先日、僭越ながらも、同じような趣旨のコメントを書かせて頂きました。
夢も見ていない深い睡眠時は、実は、真我一体の状態である、と。
あまりに当たり前すぎて、そして誰でも毎日経験していることであるので、
そんな馬鹿な、それは違うでしょ?と思われても仕方がないとは感じています。
(自称)覚者の方々が、自分達のストーリーの中で起きた体験を、あまりにも誇張?して伝えるので(お気を悪くされたらスミマセン)、
そういう体験を望む人達が、また多くの幻想、夢を生み出してしまい、
その中で夢を追いかけてしまうという新たな我執に囚われてしまうのです。
このトラップに陥ると、なかなか抜け出すことが困難になってしまいます。
本末転倒というのは、このことだと感じています。
それもすべて起こっていることなので、受け入れるしかありませんが。
禅は、その点、一切の幻想、夢を排除し、いまここに在ることのみを、人間の意識が"それ"を認識できる唯一の拠り所としているので、
不必要な迷妄に迷い混むことなく、真理に至ることができる数少ないメソッドだと感じています。

しかし、すべては流れなので、お任せするしかありませんから、
回り道もまた由、と思えば、どんなことも受け入れられますね♪
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月23日 11:34
阿部さんこんにちは。
ただする
で、阿部さんに聞いてみたいことがあります。
ただする
私は、
無心でする。という感じに受け取ったのですが、
無心でする。だと、例えば歩く時、
道端の花を見て「可愛い」と思ったり、空気の匂いを嗅いで「いい匂い」と思ったり、「あっち行ってみよう。こっち行こうかな。」なんてのも、全てなく、
空っぽ
な感じがするのですが、
それだとなんかつまらないから、私の(受け取った)
ただする
と、阿部さんがおっしゃる
ただする
は、なんか違うだろうな、と思って、
ただする
を腑に落としたくて、質問させていただきました。もし、よろしかったら教えていただけると嬉しいです。
Posted by はる桜 at 2015年04月23日 11:38
いま起き抜けに、今日のテーマは、ただする、と思いつきましたところです◯


ただするよ。
Posted by 朝顔 at 2015年04月23日 11:45
今日も久々の青空で
庭の小鳥の声だけが唯一の物音?
全て世はこともなし
何も考えていない(今の不安とか未来の心配とか)
そんな時間が増えますように。
Posted by さつき姫 at 2015年04月23日 12:08
仕事をしていると、たまにしている自分を全く自覚せずに

仕事をしていることがあります。

仕事のことに関しては、あれこれ考えているとは思いますが・・・

今日の「ただする」とはこの状態のことでしょうか??
Posted by らんたろう at 2015年04月23日 12:36
いつもありがとうございます。

「ただする」

気が付いたら、
クリックしていました(笑)

今日も良き一日になりますように
Posted by ほったん at 2015年04月23日 12:52
らんたろうさん

文字通り仕事に没頭しているんですよね?
ただしている状態だと思います。

美しい光景を我を忘れて見たり、美しい音楽に没頭しているのも
ただしている状態です。

その時、自分が居ないことに気が付くか付かないかだけの簡単なことです。
自分なんてもともと存在しないから、現れたり消えたりするんです。
Posted by 模察 at 2015年04月23日 12:55
ただ、... スルー。
Posted by 日和る at 2015年04月23日 12:58
阿部さん、こんにちは。

ブログは勿論ですが、このコメント欄からも
気付きがいっぱいです。
凄いな〜、リーラー。

数日前の記事のコメント欄でwiさんが

>「真実は、あなたがすでに持っている豊かさに気付き、
それを楽しみだしたなら、それがさらに多くのものをもたらし、
ますます豊かになっていきます。」
というのは、大和田さんのいう「すべて愛」ということなのだ
と思いました。

と言うコメントを読んで、ハッとしました。
そして今日の料理をしてる時、料理をする人はいなくなって
行為だけが残った…というのも、アッと思いました。

なんか何言ってるんだか、よくわからないけど
ノンデュアリティも引き寄せの法則も、
起こることが起こってるだけ?
Posted by nabona at 2015年04月23日 13:44
「それ」を体験してない自分が、知ったかぶってここにコメントすることの愚かさを自覚しつつ、阿部さんの懐の深さに甘えて戯論を書き込んでます。

学の無い、浅はかな知識しか持たない自分ですが、「ただする」は哲学者西田幾多郎も指摘していたと思います。
最近流行りのゾーンに入るですよね。

Ai人工知能がどんどん発達して意識を持つかもしれない時代、逆に生身の人間の心身が、その平安を求めるが故に、ある意味全体のロボットであることに気付こうとしている。
自分には今の世界の景色がこんな風に見えてます。

それもこれも全体の見ている夢の世界なんでしょうが、SF好きな自分にとっては非常にエキサイティングな時代に生まれたもんだと思っています。

夢を見るということは、眠っていることですが、寝る子は育つっていいますから、全体の成長には欠かせない夢見かもしれませんね。
Posted by an at 2015年04月23日 14:15
阿部さん、こんにちは(^^)
今日は仕事が早く終わってしまったので、もうリラってます(笑)
今日の記事の「ただする」についてですが、たまに私事に起こることがあります。
お恥ずかしながら私は、普段の生活や家事をするにあたって、仕事で疲れていると、めんどくさい!かったるい!と思いながらやっていることが多々あります。
ですが、たとえば朝、本当に時間に切羽詰まっているときそこに感情が入る余地が無いときにそれは訪れます。そこには身体のだるさも一切無く、無駄な動きが一つも無い。
私ってこんなに完璧な動きが出来たんだ!って冷静に見ている自分もいる。あまりもの時間の無さに目の前の事にただ集中する意外なかったのです。
時間に追われたあげくの果てというのがちょっと情けないですが、仕事でもそういうことってありませんか?
こんなに出来きたんだーって。普段の私はいったい何だったのかと(笑)
何かをするときに感情は要らないのですね。それが入るとしんどくなる。
心を込めるというのは行為になりきるということですよね。また、「禅」を忘れかけていました。私にとって一番大事なことです。
私には「禅」しかないんだったわ。
阿部さん、ありがとうございます。
Posted by saeei at 2015年04月23日 14:38
こんにちは(^^)

今日、歩道に立ち、家に向かってカメラを向けている男性がいました。

自分の庭の花でも撮るのかな?と思いながら、カメラの向いている先に目をやると、

赤紫色の大きな花と一緒に、女性が立っていました。

ご主人が、奥さまと花を、撮影しようとしている様子でした。

通りすぎる私に、女性はうれしそうな笑顔を向けてくれました。


とても、とても、うつくしい笑顔でした。


超感動してしまい、なぜかまた、涙がたくさんでるのでした
~(^^)

すてきな場面を、ありがとうございます。


「ただする」

報告したいことを、「ただコメントする」ことにいたしました(^^)
Posted by ようこ at 2015年04月23日 15:00
模察さん、昨日はアドバイスありがとうございました。この場をお借りして。
ご指摘の通り、まだまだ分離してまして、リラックスしながら、ぼちぼちやっていきますね。

そして阿部さん、今日のお話。
「行為者はいない」
よくわかりました。体験している自分は、幻想ですものね、ありがとうございます。
Posted by まき at 2015年04月23日 15:11
模察さん
レスありがとうございます!
この状態がそうなのですね。

であれば、きっと誰でも日常で経験があるものですよね。

そこに気付くか、気付かないか。
なるほど・・・

ありがとうございます(^^)
Posted by らんたろう at 2015年04月23日 15:44
まきさん

まきさんは、何を指し示されてるか十分理解されてると思います。
これから先は、理解(言葉)を横に置いて、ご自分を観つけてください。
自分探しを続けてみてください。
その時の問いはこれだけで十分のはずです。

ご自分はいますか?
何か観つかりましたか?
それは消えずにずーっと在り続けてますか?
観つけた(掴まえた)それが自分だと間違いないという証拠は見つかりますか?

決して答えを言葉で得ようとしないでください。問うだけですよ。
Posted by 模察 at 2015年04月23日 16:42
湧いてきたことは
永遠のリーラさんと同じことでした
(^-^)
Posted by nanashi at 2015年04月23日 18:46
nanashi さん

ありがとうごさまいます♪
偶然ですね。
誰もが、本来はnanashiであるのですが、
私が知っているある人も、自分をnanashiだと言っています(笑)
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月23日 19:46
甲賀忍者さん

今日の記事を読んで、私にも同じようなことが思い浮かびました。

ただする☆

ただ起きている☆

そしてもひとつ、

ただ在る☆
Posted by 雪光 at 2015年04月23日 20:53
ただする。
この一点において入り口が常に開かれている点は、
夢のスイッチを持たない身としては本当に助かります(⌒▽⌒)
Posted by 内村周真 at 2015年04月23日 21:14
雪光さん


自我の自分はノン・デュアリティを知り得ない
しかし
自分の所有物がゼロになれば自我の自分は消え去る

ですから

自分のものと思っている思考や感情が
実は
この肉体にただ☆起こっているだけなんだ
と気づいている状態が

自我の自分が消えている状態でありノン・デュアリティの状態

ということでしょうかね


おやすみなさいませ


ただ☆寝ます

(-.-)Zzz・・・・
Posted by 甲賀忍者 at 2015年04月23日 22:03
>ただお茶を飲む。

>ただ洗い物をする。

>ただ歩く。

他者が行為者、その行為の主体である場合は、
そういう現象が目の前を通り過ぎて行く、とだけ感じることは容易でしょう。
映画のシーン、リアル感のない画像を観ているような感覚です。

それが、自分がこれらの行為の主体、行為者となったとたんに、
肉体にある諸感覚器官が働き始めますから、「ただ~」という感覚は消失し、
行為に対する自動反応が起きてしまい、リアルな感覚に脳は占領されます。

それはつまり、思考だけでなく、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚によって得られた情報が、
脳というコンピュータの司令塔のような役割を果たしている自我意識「わたし」に認識され、
それらの情報が多ければ多いほど、「わたし」という意識が強まってしまうという身体に内蔵されたプログラムが働くからです。
よほどその行為に意識を集中していないと、すぐに五感から得られた情報を処理しようと、
「わたし」という意識が働き始めてしまい、「ただ~」という感覚からは遠のいてしまいます。

しかし、人間の意識は、その性質上、分散することが出来ません。
意識は、一点にしか向かうことが出来ません。
何かに集中いている時は、その他のことが目に入らない、耳に入らない、というのは、それが理由です。

何かに集中している時は、その行為に全意識を注ぐことになるので、
それ以外のものに対する五感の反応を大脳が処理しても「わたし」という意識は、それを認知する余裕がなくなり、
「わたし」は諸感覚器官からの情報には意識がいかず、結果として、そこには、行為者たる「わたし」はいない、ということが起こります。
行為の目的と手段を一致させた時、行為そのものになりきった時に、
行為者たる「わたし」が消えるとは、そういうことだと言えます。

私達は、意図的に禅をしようと思わなくても、日常生活で、このような訓練(?)を行うことは出来ます。

アドヴァイタ(非二元)・ヴェーダンタの世界では、これを「カルマ・ヨーガ」と呼んでいます。
変化の多い日常生活に於いて、この「無私」の状態を作り出すことは、
特別な苦行をすることなく、誰もがその気になれば、行ずることができる究極の真理に至る修行の道なのです。

こうして、「わたし」の不在性を見抜くことが出来れば、
あとは、全自動で、起こる事が起き、どんな時でも、「わたし」は何もしていない、という無執着の感覚に安住していくことでしょう。
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月23日 22:34
昨年、ハートマントラの伝授を受けました。やりたいと思うものの、がんを患っており、ながく椅子にすわっていられません。横になればすぐねむってしまいます。どうしたらいいのでしょうか。諦めるしかありませんか?
Posted by はな at 2015年04月23日 23:41
>「ただする」というのは、行為をあれこれ考えながらするのではなく、ただするのです。

阿部さん、正に金言です。
ほんに今日もありがうございます。
いつも分かったつもりで、無自覚と成っております。
まだ他にも色々有りそうです(汗)
そして、また無自覚化するのかも知れません(苦汗)
(思うのですが、まさに窮地に陥った時、無我夢中となって「窮鼠猫を咬む」が現われますね。
まぁでも「ただある」を演技していれば、そのうち作業興奮によって、そのような状態へと我々は導かれそうです。)

そしてまた、このようにたまたま思い起こしては直ぐにまた忘れ行くのと、
恋焦がれる程に思い浮べていながら、何かの拍子にフッと気が抜けて忘れるのとでは、
その効果もまったく違って来るわけでしょう。
潜在意識へと下りた観念(ある意味、自我ともいえる)は、
一種の公案となり、無意識下でバックラウンドとして働いてくれるのかもです。

だから我々は、観念(潜在意識の自我)を信頼して身を預け、
安心して、「ただする」にサレンダーすればいいのだと思うわけです。
でも、我々はどうしても「ただする」にこだわってしまい、
これが、無意識的な緊張感(こわばり、縮み、個我、私)を産むのかもです。
けど、安心感に充ち足りて居ればこわばりなどは生じず、「ただする」歓びに浸れるのかも知れません。

ささ、寝る前に夢なるひと時を、存分にお味わい下さい(^^♪
(*´∇`)_旦~~ε=ε=ε= アラ ! (ノ_ _)ノ ⌒◇~ バシャ !
Posted by 茶舗リーラ at 2015年04月24日 00:04
ただ食いする。
Posted by rakuninaritai at 2015年04月24日 01:36
博士「ついに完成したぞ。究極の覚醒食品!」
助手「もうやめた方がいいと思います」
博士「こんどこそ、完璧だ。このフォルム、色つや、美しい」
助手「どこから見ても『ちくわ』です」
博士「正面から覗いてごらん」
助手「ちくわの正面ってここだったの?」 
博士「そうだ。 で、どうだ?」
助手「どうだって言われても。博士の目が見えるだけです」
博士「私も君の目が見える」
助手「だから?」
博士「今何が起こっている?」
助手「おっさん2人がちくわを目に当てて見つめ合っています」
博士「君は見ているのか?見られているのか?」
助手「両方です」
博士「はっきりと言えるのは?」
助手「見えている・ことです」
博士「そうだ、君は世界を見ることはできない」
助手「はあ?見えてますけど」
博士「その通り。 見てるんじゃない、見えているだけなんだ」
助手「よくわかりませんが、なんでちくわなんですか?」
博士「中空の竹輪。なんつって」
Posted by おでん具 at 2015年04月24日 01:49
あべさん、みなさん、こんにちわ!
(投稿時間はむしろおはようございますですが!笑)

↑も〜!おでん具さんの書かれた助手のツッコミがいちいち面白くてわらっちゃいました!
2行目で既に最高でした(笑)
前作も面白かったですが、次回作も是非お願いシマス!(^^)


さて私はよくこちらのリーラと、2ちゃんねるのまとめサイトという
両極端な世界のブログを両方見てるんですが、この2ちゃんねるへ書き込んでる人が立てたスレッドで
時々、おぉ!と思うものがあります。
今日も見つけました。

その人は、仕事を辞めニートになった後ヒマだったのもあり
毎日生野菜と果物を食べて1日8時間くらい瞑想する生活をしてたら
ある日何かに守られてる感が湧いてきて、
・人生に対する不安とか失敗への恐怖心みたいなのが一切無くなった
・開眼?した時に宇宙の隅々まで自分の意識が広がっていく感じがした
・その時「あぁ、そうか。何をしてもいいんだ」というのが頭に浮かんだ
・この世界を作った存在が俺に何かを伝えようとしてる。やるべき事があるなら運命の方からやってくると思う

…ということに気付いたそうです。
(書き込まれた文章を一部そのまま載せました)
私は気づきを体験してはいないですが、この人は、"あ、なんか見たな"と感じました。

ちなみにそれに対する人々のコメントは、2ちゃんねるという場所が場所だけに
病院行った方がいい、栄養失調なだけなんじゃ?、ニートなんだからいいから働け…等々
まーそりゃそう思うだろうなぁ〜って内容がほとんどでした。
でもこういった発言に対する一般的な認識・反応って、昔よりはかなりいいかもしれないですけど
きっとまだこんな感じですよね。

食事スタイルや瞑想ぶっ続け8時間は…結果的にこの人が至った方法のひとつであるだけですのでさておいて
こうやって気付きを体験している人が、実は世界のアチコチにいるんだろうなと思うと
なんだかとても嬉しくなります。

もっともっと、ずわわわぁ〜っと広がっていくといいですね!(^▽^)
Posted by ちっち at 2015年04月24日 05:06
真理は 「何も無いんだよ。」


って書いてみた。
Posted by 日和る at 2015年04月24日 07:47
ただ、する・・・とは


ただ、かぐ

ただ、なめる

ただ、すう

ただ、いれる

ただ、こする

ただ、だす


なんと、味気ないものか・・・
Posted by ダットサン at 2015年04月24日 08:57
阿部さん、初めまして。
いつも楽しく読ませて頂いています。
質問しても 宜しいでしょうか?

「ツインソウル信仰」 というものがブームになっています。
ブログ村(ソウルメイト・ツインソウル人気ランキング)にも、たくさんツインソウルブログがあります。

じゅえるん さんのブログ* ↓ (コピーさせて頂きます)

転生途中では、魂(光)は二分割も三分割、時に四分割も起こりえます。
その一つは同姓である場合や、身内である場合もあり、
木々や動物と言うこともありえます。

この間は、出逢うこともあれば、出逢わないこともあるでしょう。

転生途中で、身体を失った後の魂は、分割したものがくっ付きあって
統合しながら、やがて魂の貯蔵庫にたどり着き、次の転生を待ちます。
転生が最後になると、原初の分離の一対の男女として、再会を果たします。

この時のツインレイは、原初の分離の記憶、内なる物の記憶が具現化し、突然に姿を現します。

身体を失った相手は、光の姿をしています。

これは、男性、女性が分かれている星にしか起こりえません。
星によっては両性具有のままの星もあります。

時に地球には、マスターと呼ばれる人が居ます。
その方々は、原初の分離の時の両性具有のまま、
(伴侶と統合したまま)の魂が宿って居ると見ます。

ツンレイに出逢うのは、統合するため、両性具有に戻るため。
初期に恋愛感情を持ったとしても、それは長くは続きません。

互いが相手を鏡とし、内なる男性性と女性性の統合を起こしながら、
根源のエネルギー(愛)を思い出し、愛の姿に返るため。

ツインレイ物語は、分離の最初で最後の幻想で、
それが幻想と気づいたときに、統合は終わります。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


このような 「ツインソウル・ツインレイ信仰」 をどう思われますか?
ツインブログを読まれている方は、リーラーが多いようなので
阿部さんのご意見を聞かせて頂くと、救いになると思います。

ツインソウル迷子は、スピリチュアル迷子と言われています…。

どうか宜しくお願いいたします。
              
Posted by ゆり at 2015年04月24日 09:46
そらさん

>ロボットなのだから、人生を好転させる術はなく、このまま終焉を迎えるのが定めなのでしょうか…

そんな事はありません。ロボットってそういう意味じゃないんです。
運命論じゃないんです。
好転するかしないかなんて誰にも分かりません。
ですが、「好転すると信じて動く事」は出来ます。
そらさんが出来る事は、好転するためにいま出来る行動を取るだけです。

・市役所に行って現状を伝えて助けを乞う
・元夫や頼れる方に助けを乞う
・仕事を探し続ける

申し訳ないのですがこういうありきたりな対応しか思いつきません。
もうした上でのコメントかもしれません。

大切なのはそらさん御自身がそらさんの可能性を信じる事です。
不安が頭を擡げるかもしれませんが負けちゃ駄目です。
絶対大丈夫!っと言い聞かせて生きましょう。
Posted by マイペース at 2015年04月24日 16:51
はなさん


阿部さんにメールをして

直接お聞きになるのはいかがでしょうか


はなさんの心が平安でありますように


おやすみなさいませ
Posted by 甲賀忍者 at 2015年04月24日 21:09
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
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書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。