ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

パクリとパロディの文学

2015-09-16 18:39:27 | 日記
 東京オリンピックのエンブレム、とうとう白紙撤回になりました。パクったのパクらないのという問題はいろいろありますけれど、国立競技場に次いで白紙撤回というのは国家の信用にも関わることですから、うまく処理していただきたいですね。

 芸術というのは類似したものも多いですし、偽物も多くあるので、どこまでがパクリなのかは難しい問題です。
 和歌には古来「本歌取り」という手法があって、古歌の一部を意識的に自作に取り入れることがありました。『新古今集』の時代に最も多く使われた表現技巧です。藤原定家が三代集や『伊勢物語』、『三十六人家集』から採ること、採用する句は二句未満などと定義していますけれど、これもパクリといってしまえばパクリかもしれません。

 例えば有名なところで、定家の「駒とめて 袖うち払ふ 影もなし 佐野のわたりの 雪の夕暮」(新古今集)というのがありますが、これは「苦しくも 降りくる雨か 三輪が崎 佐野のわたりに 家もあらなくに」(万葉集)を本歌としています。語句だけでなく趣向なども取り入れて新しい歌を作るんですね。

 江戸時代になると平安時代の文学をもじったパロディが生まれてきます。『枕草子』の「物は尽し」の部分をもじった『犬枕』、『源氏物語』のパロディといわれる『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』や西鶴の『好色一代男』等々。何といっても面白いのが『仁勢(にせ)物語』です。これは勿論『伊勢物語』のパロディですが、「昔男ありけり」で始まる伊勢に対して、仁勢の方は「をかし男ありけり」で始まります。そして『伊勢物語』の一段一段を追って、その文章を滑稽化しています。

 仁勢物語

 比較してみるとわかるのですが、これは『伊勢物語』を知っていなければその卑俗な笑いや諧謔を理解することができません。単に低俗なものと決めつけてしまえるシロモノではないんですね。古典文学の解読熱がこのような現象を引き起こしたのかもしれませんが、原作を知らなければパロディはパロディたりえないのです。この『仁勢物語』は版本の挿絵まで『伊勢物語』(寛永六年整版本)によっているものがあって、徹底したパロディになっています。

 近年、芥川龍之介という作家が『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に取材した小説をたくさん書きました。例えば「羅生門」、「鼻」、「芋粥」、「藪の中」、「地獄変」等々、数え上げればきりがないほど。中には筋書きが全く同じものもあるので、パクリだという人もいます。が、それはそれで芸術として認められているのですから、どこか違うのでしょうね。芸術って本当に難しい!

 その芥川さんは今や権威ある文学賞として有名ですが、芥川賞作家がすべて大作家になれるとは限りません。著名にならなかった人もたくさんいます。あれほど欲しがっていた太宰さんは受賞できませんでしたけれど、太宰さん以上になった芥川賞作家ってどれくらいいるんでしょうね。

 話が逸れてしまいましたが、人から聞いたことや教わったことを、あたかも自分の知識であるかのように他人に話している人がいます。「おいおい、それは今俺が言ったことだろ」、「パクるなよ」って思うこともある筈です。
 エンブレムのパクリ疑惑で天国から地獄へ突き落された方はお気の毒ですが、出る杭は打たれるのたとえ。売れなくても平凡な方が幸せなのかもしれません。
 といってしまうと、「それは負け惜しみじゃないの」とおっしゃられる方もいるでしょう。確かに…。もうちょっと売れて欲しいのが本音。『薬子伝』よろしくお願いします! 因みにこの作品はパクリ0(ゼロ)です。

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