ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

古記録に見る本能寺

2018-02-11 19:40:54 | 日記
 あまりに寒いので開花が遅れていた梅もようやく咲き始めました。毎年この時期は梅の香に癒されますね。戦国時代は梅の花を愛でる余裕すらなかったでしょうに、平和というのは実に有難いものです。(
;∀;)

 さてその戦国時代、何といっても大事件といえば本能寺事変ですけれど、最近では諸説飛び交い、信長生存説まで出てくる始末。本当のところはどうだったのか興味の尽きないところですが、一応常套手段として古記録をひも解いていこうと思います。

 古記録はいうまでもなく天皇をはじめ皇族、公卿、武家、僧侶、学者、文人などが記した日記です。その数は平安から織豊時代までで五百点以上にのぼるといわれ、膨大なものになりますが、その中核をなすものはほぼお公家さんの日記。宮廷行事は先例に習うことが多かったので、後に資するため、彼等は正確に事実を記しました。例えば即位の礼や大嘗会がどのように行われたかなどを記録することによって次に備え、またそれを子孫に伝えていくという意味もありました。

 今でも先例に習うことは多くありますし、歴史を知る上でその史料的価値は高いとされています。
 本能寺事変について記したものもありますが、何しろ彼等は現場にいたわけではなく、人から聞いた話を記しているのでその辺は考える必要がありますけれど、当時どのように伝わっていたかを知ることはできます。

 例えば吉田兼見(よしだかねみ)が記した「兼見卿記」には「天正十年六月二日条」に、「早天、丹州より惟任日向守、信長の御屋敷本応(能)寺へ取り懸け、即時信長生害…本応寺・二条御殿等放火、洛中・洛外驚騒しおわんぬ。悉く討ち果たし、未の刻大津通下向…」(別本とする)とあって、「即時信長生害」という言葉から信長は自害したのだということが読み取れます。この後兼見は粟田口まで出掛けていき、光秀と対面、所領安堵について頼んだことが記されています。ちゃっかりしてますよね。

 兼見(かねみ)卿記 言国(ときくに)卿記

 面白いのはこの後です。この日記は光秀が殺される前日をもって終わっているんですね。つまり日記は天正十年正月から書き直されているんです(新本とする)。
 新本の詳細は長くなるので省略しますけれど、それまで光秀と親交の深かった兼見は、光秀が討たれたことにより己の身を案じたのでしょう。新本には粟田口まで出掛けていって対面したことは一切記載されていませんし、光秀の行動を謀叛と決めつけています。

 にも拘らず、織田信孝に光秀との関係を疑われ詰問されているくらいですから、この時光秀と親交のあったお公家さんたちは多かれ少なかれ固唾を飲んだことでしょう。以前「本能寺事変の黒幕と目された男」でも書きましたが、近衛前久などは信孝に成敗されるとの風聞があって京を出奔しています。その前久との関係を疑われないようにと、兼見は前久からの預かり物を悉くその子信伊(のぶただ)に返却しているんですね。幸い事なきを得たようですが…。

 いやー、誰しも生き残りたいものです。まだまだ本能寺、いろいろありそうですね。

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