「漱石日記」身につまされる思いで再読 | 無精庵徒然草

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無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

Soseki

← 夏目 漱石【著】『漱石日記』(平岡 敏夫【編】 岩波文庫)

 

漱石日記』を読了した。再読である。ただし、全集の中の日記通読も併せると、三度目以上かもしれない。


 漱石のかなりの量の日記類から、「ロンドン留学日記 『それから』日記 満韓紀行日記 修善寺大患日記 明治の終焉日記 大正三年家庭日記 大正五年最終日記」に絞って編集。今月初め、『漱石書簡集』(三好行雄 編  岩波文庫)を読んだのに引き続いての、この日記。

 

 漱石の文学(住まいや行動先の)地図(主に明治時代の東京)は持っている。本書を読んで、留学時代のロンドン地図があればいいなと感じた。修善寺大患日記は、何度読んでも痛ましい。親のことを思い出したり、いずれは自分もこうなるのかなどと、身につまされる思いで読んだ。ここが初めて読んだ頃との感じ方の違いかもしれない。

 

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→ せっかく昨日(土曜日)、畑などをメンテしたのに、昨夕からの風雨で、庭や畑の方々が傷んだ。築65年ほどの我が家は、強風が吹き荒れるたびに、家が揺れるし、家の中を風が吹き抜けていく。カーテンがフワ~ッと捲れ上がる。外では、何かが倒れたか壊れたような、不穏な音が。今夜半過ぎ、帰宅してからが心配だ。いつぞやみたいに、杉の木が折れて、隣家に倒れかかっていたりして。 → あちこち傷んだ場所はあったけど、木々が折れるということはなかった。ただし、車で走っていて、街路樹(ハナミズキかな?)が幹でぽっきり折れているのは見かけた。今日(月曜日)、庭などのメンテのため、ホームセンターへ。肥料共々、あれこれ買ってきた。

 

 父(と母)が亡くなって8年。以来、吾輩は父の財布や小銭入れを使ってきた。それまで使っていた自分の財布に比べ、どれも立派。父は田んぼを売り払ったりしてお金ができると、父母で旅行し、お洒落な父は(母にも)素晴らしい仕立てのスーツを誂える。幾つもあった財布を父母亡き後、ずっと使ってきた。使いきってボロボロになると、また次の財布と。財布も小銭入れも、そろそろ底をつきそう。いよいよ自分で財布や小銭入れをゲットするしかない。中に入れるおカネはなくても、財布はいるよね。まだ、現金社会の日本だもの。

 

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← たぶん、アルミの深鍋。両手鍋。しっかり打ち出されている。台所の収納庫に沢山の鍋やフライパンなどと一緒に納められていた。亡くなった母が動けた頃、これらの台所用品を使っていた……はずだけど、この深鍋を使っていた様子は観た記憶はない。ずっしり重たい。今の時代の女性じゃ、買い求めたりしないかな。本格的な料理人になったような気分を味わえます。使いこなせないけど、使うのが供養ですよね。

 

(念のために書いておくが、これは今朝(月曜朝)の夢の話):
 会館らしき平屋の建物での集まり。何かヤバい連中の葬儀か儀式の場。私は仲間か友達と一緒に参列している。なぜかポケットに線香を持っているのを幸い、彼にも渡して線香を供し、参る。重鎮らしき人が目の前にいる。その場を立ち去りたかったが、まわりの雰囲気の厳粛さに勝手もできず、しぶしぶ集会の場に残った。何か右翼団体の重要人物の弔いか記念式典なのかもしれない。私はそんな集団など毛嫌いしているが、怖くて正直な思いなど言えるはずもない。連中は彼らが、彼らの中心人物は立派な方だと思い込んでいて、異論など差しはさむ余地がない。
 あちこちに彼ら仲間の集団が散在している。彼らの間を抜けて出たいのだが、お前は何者だという咎めるような奴らの厳しい視線が突き刺すようで、ますます身動きが取れない。(あとは忘れた)

 

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→ 緑濃くなった庭。この庭の奥に日だまりがあって、野良猫が居眠りしている。羨ましいな。

 

 冬の間はミカンを好んで食べていた。でも、ミカンの季節は終わった。今は、オレンジに。でも、店頭で見ると、アメリカ産のものばかり。中国もだけど、アメリカの野菜など穀物は信用できない。でっかい農場で生育させるには、何か薬剤を使っている。安全は誰が担保してくれるのかな。


(この呟きに対し、アメリカの農薬散布量(率)は、日本よりはるかに少ない。日本は、農薬使用量はトップクラス。関連法はザル法だといったコメントを頂いた):コメント、ありがとうございます。なるほど、密かに(?)懸念してましたけど、日本のほうがずっとひどいんですね。なんだって、そんなにザルなんでしょう。調べてみないと。

 

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← ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳 西成彦 編 島田雅彦 巻末エッセイ  平凡社ライブラリー) 「異端の亡命作家にして現代の最も前衛的な作家ゴンブローヴィッチの主著。成熟と若さという相反するものへの人間の希求を、グロテスクともいえる破格の文体で描く20世紀の奇書」とか。全く未知の作家。書店で見かけて。ポーランドの作家ってのも初めてか…な? なんて過日、書いたけど、こんな大物の存在を亡失していた。スタニスワフ・レムである。彼の本は何冊か読んでいる

 

  ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著の『フェルディドゥルケ』を読んでいる最中である。
 かなり、ぶっ飛んでる。好悪がはっきりしそう。我輩は、かなり苦しく感じつつ、休み休み読んでいる。気に入った人は、絶賛。若い頃に読んでおきたかった。自分の感性の狭隘さ、堅苦しさが炙り出されるようだ。古典的な悲劇でもなく喜劇でもない。煮え切らない、ズルズル後退する半端な、独り善がりなヒロイズム。