犯人には早く捕まって欲しい… | 無精庵徒然草

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無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

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→ 北陸自動車道の小矢部インター付近にある「自由の庭」に立つ「自由の像」 「彫刻の里づくり事業(1980年より宮島峡にヴィーナス像を設置)の一環として、昭和59年に造られ」たとか。 (情報や画像は、「☆自由の庭☆ ☆ブログでおやべの情報をお届けします☆」より) 女神像じゃない? 男像? こっそり裾を捲って確かめたい。

 

 ある人のSNSでの呟きの中で「初戀という字を見て、万葉の昔 「恋」を「孤悲」と書いていたことを思い出した。

「いつも感じる違和感。インタビューに対し、「犯人には、早く捕まって欲しい……」と答える人が多い。「捕まえて欲しい」と答える人が少ないのは何故だろう」。そう、呟いたら、いろいろ意見を頂いた:


◎皆が感じていることは,ともかく犯人が野放しになっている不安な状態を解消してほしいということ.その方法は,警察が犯人を捕まえる,犯人が自首してきて捕まる,犯人が事故を起こして警察に身柄を確保されるete・・・.それらをひっくるめて「捕まって欲しい」.「捕まえてる」と限定しない・・・.という説はどうでしょう???
◎「捕まって」という言い回しは、「何が、どのようにして」犯罪者(容疑者)を捕まえるのかという具体的なイメージが希薄なように思えます。目に見えない「正義の力」が天から降ってきて悪人に裁きを下すわけでもあるまいし。個人的にはどこか無責任な印象を受けてしまいます。

 

 私が誰のコメントに対してということはなく、「何処か、他人事、お上意識、政はお上の仕事って発想があるのでしょうか。日本に民主主義が馴染まないのと無縁じゃないのかな」と、再度呟くと:
◎私は「捕まった」という結果だけを期待した発言なのかなと感じました。「捕まえる」経緯はどうでもいいような。あるいは、たいして意味はないのかも。ら抜き言葉みたいな、「1000円からでよろしいですか?」みたいな。「え抜き言葉」とか(笑)。

 

 改めて、「無意識(無自覚)な言動にこそ、国民性が如実に現れてくるような気がします(← 大袈裟)。多少とも客観的に評価するには、他国では、一般人は、こうした際にどのように答えるのか、統計を取らないと、安易には判断を下せないかもしれないですね。海外ではどうなのでしょう?」などと呟くと、これまた意見をもらった。
 それに対し、私は、「言動について、その主体を曖昧にするのが日本人の習い性なのでしょうか。安易に一般化しちゃいけないのでしょうが」と書き込んだ。

 

 思うことは、「犯人には、早く捕まって欲しい……」という言動には、事件などというものは、人間が起こしたものであっても、何処かしら自然災害に遭遇したような姿勢を取りがちだということだ。


 とにかく、何事もない平穏無事が大方の日本人には何より大事ってことなのだろうか。

 

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← ジャレド・ダイアモンド【著】『銃・病原菌・鉄〈下〉―一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(倉骨 彰【訳】 草思社文庫) 「歴史の勝者と敗者を分けた要因とは、銃器や金属器技術の有無、農耕収穫物や家畜の種類、運搬・移動手段の差異、情報を伝達し保持する文字の存在など多岐にわたっている。だが、地域によるその差を生み出した真の要因とは何だったのか?」。

 

 ジャレド・ダイアモンド著の『銃・病原菌・鉄〈下〉―一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』を読了した。
 昨日の仕事があまりに暇で、待機中に(せっせと読んだわけではないのに)140頁以上も読み進んでしまった。

 一万三〇〇〇年にわたる人類史と副題にあるが、なにゆえ一万三〇〇〇年なのか。日本で云えば縄文時代の開始期に近いだけに気になる。


 それは、一万三〇〇〇年前というのは、最終氷河期が終わった時点を指すからである。その時点では、人類は南太平洋や中南米を含め、世界各地に人類が広がっており、似たり寄ったりの狩猟採集生活をしていた。それがそれぞれに異なった経路をたどっていく、しかも、その経路は実に多彩。


 こういった問題をこれだけ視野広く捉えて叙述した歴史書はあるのかどうか、小生は知らない。とにかく面白かったとしか感想を言えない自分が情けない。
 ただ、日本の古代史についても視野を広げて見直すべきだとは感じた。


 魏志倭人伝に、「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。 また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、 あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり」という有名なくだりがある。


 このまま文字通り読むと、九州のはるか沖合になってしまい、荒唐無稽。なので、なんとか九州あるいは、方角を読みかえて近畿のほうへ導こうと苦心惨憺する解説書が見受けられる。
 けれど、日本にとっては有史以前であっても、世界では、かのインドネシアやフィリピン辺りでも、はるか昔、インドを越えてアフリカへ船で渡り交流していた形跡が見られるという。


 だとしたら、伝説以上に記憶や風聞で、東南海の沖合にいろんな国々があると叙述しても必ずしも不自然ではないのではなかろうか。
 本書を読んで、魏志倭人伝をもっと視野を広げて理解すべきと考える。古代以前の交流網のスケールは想像以上かもしれないのだ。

 

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→ Alfred Kubin(1877-1959) オーストリアの表現主義の画家 (画像は、「アルフレート・クービン Alfred Kubin|SAD VACATION」より) 形にすらならなかった血肉が醜い形を晒している。闇から闇へ。涙腺も歪な肉のうねりに阻まれて、涙は体の方々から膿となって垂れるだけ。やがて膿は瘤となり、今にも破裂しそうだ。ああ、輾転反側も侭ならなぬ。 ああ、今はただ、アルフレート・クービンの悪夢を貪るのみ。 (拙稿「アルフレート・クービンの悪夢へ」参照。)