元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

松戸 deep --その光と影

2016-12-18 23:26:13 | ウォーキング

探訪日:2016-12-15
天気;晴れ
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー10名
カメラ;ニコンCoolpix s6600

徒歩コース;*トイレ
  駅(9:10)→池田弁財天→平潟遊郭跡→(投込寺)来迎寺→平潟神社→*平潟公園→
 江戸川堤→渡し場跡→(旧水戸街道)→松戸本陣跡→春雨橋→古民家→(14:00)松戸駅{駅ビル内ガストで昼食・打合せ}

 


goo地図その1--平潟地区


goo地図その2--旧水戸街道

池田弁財天--この神社の西北約200mに吉祥寺があり、池田弁財天は寺の管轄になっているから、その広い敷地内にあったのだろう。昔は人里離れた小根本の森に女が一人で夜中の暗闇の山道を百回も通うなど考えられないことだ。勿論、狸・狐・猪・大蛇に出会うことはあるかも知れない。

  

 江戸時代以前に既に、この地域には山城・根本城があったと言われ、その敷地内に吉祥寺や金山神社があったのだろう。現在の松戸市役所・税務署・保健所、京葉ガスの二つのビルなども、その広い敷地に建てたと考えられる。
 徳川時代には松戸は江戸へ入る要所だから、宿も遊郭も大いに賑わったようだ。ひらかた(平潟)は低地の湿地帯と読める。大阪に枚方(ひらかた)があるが、同様の場所と考えられる。
 ところで、京葉ガス第1ビルの裏通りの鳥居前に着くのに迷った。高いビルに囲まれた底地なので、分かるはずがない。京葉ガス第2ビルの南隣にある交番で教えてもらった。


鳥居がぎっしりと並んでいる。どうやら、お礼参りで寄進したらしい。よく見ると、平成26年の
鳥居もある。奥の小さなヤシロの上部に、名前と金額が書かれた札がびっしりと掲げられて
いるではないか。この平成の時代でも、この弁天様にお願いに来る人が跡を絶たないという
ことだ。この小さな聖域は、周囲をビルに囲まれても、守られ続けている。

 


お百度参りが通じたか、遊女「おつる」は白い大蛇に化身した天女・弁天様に救われた。
いろいろな悩みを抱える平成の現代人も、当所に祈願しにくるのだ。

参考→松戸弁財天霊験記『遊女の祈願』


こうした小さな祠にも白蛇が飾られている。


ここは里人の鎮守である小根本新明神社。小高い一等地に祭られている。
「おつる」は真夜中にこっそりと遊里を抜け出し、この鎮守の森の裏手の坂道を登って通ったのだろう。

平潟遊郭の痕跡--嘗ての建物は全く無い。赤線廃止法以後、幾つかの学生寮や大学研究施設に転用されたりしたが、その流れを汲む施設が日大歯学部や(どういう訳か)「東葛同胞生活相談総合センター」の建物だ。

 地図その1で、坂川に架かる松の木橋を渡ると左手にホテル SENDAN-YAが見えてくる。
ここは、嘗ては千壇家という純和風旅館で、玄関の前には古びた石の道標があった(はず)。今や、ローマ字に替え、立て直したか、何処が正面玄関か分からないようにしてある。
二人連れか外国人バックパッカー用のビジネスホテルに変身したようだ。

 この裏手の道を進み左にカーブする辺りに東大門があったらしい。樋古根川と並行に左に進むのが遊郭のメインストリート。だが、嘗ての木造楼は何処にもない。今や、道路の右も左も、訳の分からぬ現代風建物やマンション群だ。見事な変身ぶりだ。 


証拠その1--メインストリートの中央部にある一本の柳の木。この木が昭和20年代末までの遊郭の姿を見てきた証拠だ。樹木の下には、幼稚園児送迎用か、錆びたバスが置いてあった。


証拠その2--水神宮=平潟神社。女郎たちの生き血を吸って儲けた九十九楼の妓楼主が寄贈した天水桶(対の右側)。
 この低地の樋古根川はよく氾濫して、住民は苦しめられたので、水神宮が建てられた。
なお、この川は元の江戸川で、江戸時代に川の流れを真っすぐにする改修工事がされたと
いう。


来迎寺は遊女の投げ込み寺であった。だが、南千住の投げ込み寺には新吉原総霊塔という合葬墓があるが、来迎寺では彼女たちは人間扱いされなかったようだ。


来迎寺は近代的な設計の木造の寺で、新しい寺の姿として何かの賞を受けたとのことだ。


証拠その3・4--この公園では平潟の名が残っていた。右手の向こうにあるのは、当時の街灯ポール。平潟神社の横にもあったが、レトロ調で街灯して現役だ。
 地名としては、松の木橋の南隣の橋・一平橋だが、昔の一丁目と平潟遊郭を結ぶ意味で、
頭文字に由来する橋名である。

旧水戸街道の史跡--旧水戸街道も、昔の建物は、ほとんど残っていない。敷地跡に現在の建物が建っているからだ。


地図その2で、江戸川土手道から降りるとすぐ、この写真の案内杭がある。
松戸宿は幕府の直轄地だったのだ。それほど、重要な場所だったのだろう。 


現在の松戸郵便局は、脇本陣と本陣があった場所に建てたのだ。
なお、この周辺は旅館が多くあった場所のようだ。

 
道路を挟んで京葉銀行の向かいの建物の脇から奥へ進んだ場所にあった。
個人の住宅の柵の一部を借りているような感じだ。これでは、観光客に来られては
住人に迷惑であろう。

 

春雨橋のこちら側と向こう側には、古い建物が幾つか残っていた。


見事な風格の建物であるが、看板も無く閉め切っていたので不明。

↓ 宝光院という寺の入口にあった案内板。あの北辰一刀流の千葉周作が修行した
 浅利道場があった場所だ。


奥の宝光院。境内のすぐ裏は、川沿いの遊歩道になっていた。

古民家スタジオ 原田米店 | MAD City:松戸よりDIYと暮らし、物件 ...


高層ビルに囲まれた奥の庭に案内された。ここは若き芸術家たちの作業場。

 

松戸市では「二十一世紀の森と広場」をコスプレ撮影に解放しているという。
旧原田米店は新しい波である光の発信地の一つだが、MAD CITY構想などは松戸の光
の一面と言ってもいい。

※このブログを昨日書き上げ、最後に投稿しようとしたら、一瞬で文面が消えてしまった。
 Windows 10 、Internet Explorer、goo blog 投稿システムのいずれかが原因だろう。
 この不具合のため、きょうも一日かけて、最初からやり直した。一応、投稿してみるが、
 後日に再度加筆するかも知れない。 

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