小野神社(武蔵国一之宮小野神社) / 東京都多摩市

多摩市

神社情報

小野神社(おのじんじゃ)
武蔵国一之宮小野神社(むさしのくにいちのみやおのじんしゃ)

御祭神:天ノ下春命・瀬織津姫命
社格等:武蔵国一之宮・延喜式内社(小社論社)・郷社
例大祭:9月第2日曜日
所在地:東京都多摩市一ノ宮1-18-8
最寄駅:聖蹟桜ヶ丘駅
公式サイト:http://onojinja.or.jp/

御由緒

 当社は安寧天皇一八年二月初末の日御鎮座と伝えられ武蔵国開拓の祖神である天下春命(あめのしたはるのみこと)を主神として御奉祀申し上げて居る由緒ある神社である。御社名は上代此地の呼び名であった小野の郷に由来するものであるが其の霊験の灼かなる神社としてやがて朝廷の上聞にも達せられ数々の奉幣にも預かり元慶八年七月には正五位上の神階を授けられた。又、廷喜式が撰せられた折には武蔵国八座の一社として登載された。且つ国府の近在なることに由いて国司や住民の崇敬も殊の他篤く総社六所宮創建の砌には東殿第一次の席を与えられて一之宮と称された。然して当社の社伝には永承六年源頼義陸奥守に任せられて下向の途次其子義家と共に参籠され太刀一振りと詠歌一首奉納の事績が繙かれ吾妻鏡にも養和元年四月一宮は吉富井蓮光寺と併記され更に建久四年八月の刻印ある経筒の銘に一宮別当松連寺が記録されている。稍時代も下り安居院の神道集並に深大寺の僧長弁の私案抄を尋ねると当社は中世以来文珠菩薩を本地となした信仰も行われていた。斯くなる所此の近在は鎌倉末より戦国時代にかけて度々の戦乱や多摩川の氾濫があり当社にも多大の被災が及び衰微したが徳川第二代将軍により造営再興された。其の棟札に曰く

一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠

神主 新田大炊介守忠
太田太郎左衛門久忠

 以下、慶安元年御朱印壱拾五石を給わる。文政となり新四国八十八ヶ所の四十八番札所となり巡拝者も多く有りて維新に至る。明治元年神仏分離令により文珠菩薩を眞明寺に御移する。
 同六年十二月郷社に列せられ同二十一年内務省より古社保存として一金百円也下附さる。同四十三年旧一之宮村有地弐拾町七反余当社資金に充つる為奉納さる。大正一五年三月三十日近隣の失火により御神体及び一部の神宝と鳥居を除き神殿等悉く類焼す。
 昭和二年御本殿、拝殿の再建成り社務所を附す。同三五年大国魂神社五月五日の大祭に就き当社神輿の渡御は古式の変更また道路事情等にて而今中止となる。同三九年旧氏子により社務所を新築奉納され随身像御修復の計画に始まって随身門の再建成り且つ御本殿、拝殿を後方期の風致林に御遷座して境内を拡大。同四九年春末社の再建成り更に秋の例大祭を期して随身を同門内に御安置申し上げ依って記念の大祭を執行。茲に是を記念して此の碑文を誌す。
 昭和四九年九月吉日

武蔵一之宮小野神社宮司
滝瀬孝(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2016/05/18

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※御朱印の他に都指定有形文化財の木造随身倚像が印刷されたポストカードを頂いた。

小野神社

御朱印帳

初穂料:各2,000円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
ちりめん刺繍されたもので赤、紺、黄、桃の4種類。
赤と紺は通常サイズ(11cm×16cm)で、黄と桃は大サイズ(12cm×18cm)。

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※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

授与品・頒布品

交通安全ステッカー
初穂料:500円
社務所にて。

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歴史考察

武蔵国一之宮の小野神社

東京都多摩市一ノ宮にある神社。
武蔵国の一之宮で、古代の社格では延喜式内社の小社論社、旧社格は郷社となっている。
現在は規模の小さな神社であるが、武蔵国の一之宮とされており、武蔵国の総社である「大國魂神社」では、当社を一之宮としてお祀りしている。
多摩川を挟んで府中市にも「小野神社(小野宮)」があるため、当社は多摩の小野神社とも呼ばれる。
江戸時代には「一宮大明神社」とも呼ばれた。

武蔵国開拓の祖神を祀る古社

社伝によると、創建は安寧天皇十八年(前531)、武蔵国開拓の祖神である天下春命(あめのしたはるのみこと)をお祀りした事に始まるとされている。
小野郷と呼ばれた旧地名より「小野神社」となったとされる。

天下春命は、知々夫国造の先祖とされる神。
知々夫国とは現在の秩父地方であり、武蔵国の西部にあたる。
无邪志と呼ばれた区域と胸刺と呼ばれた区域、そして知知夫が合わさり武蔵国が成立したとされている。

よって当社は、知知夫国造の祖神をお祀りし、開拓の神として祀られたものと推測できる。
知知夫国は後に武蔵国になったため、武蔵国の開拓の祖神を祀るという事ができるだろう。

もう一柱の主祭神である瀬織津姫命は水の女神として知られる。
多摩川の氾濫によって度々被災をした当社が、水神をお祀りするようになったのは自然な事だろう。
史料では瀬織津姫命のみ祀られていた記述もあり、こちらが本来の御祭神の可能性も高く、そうであるのならば、多摩川の氾濫を鎮めるための神をお祀りしたと見る事ができるだろう。

このように開拓神と水神をお祀りしているという事になる。
しかしながら、当社は大変謎の多い神社で、この御祭神にも変遷があったという説もあり、定かではない。
一説では小野氏の祖先・天押帯日子命をお祀りしていたともされる。

武蔵国総社である「六所宮(現・大國魂神社)」では、当社を一之宮として祀っており、古くから一之宮として崇敬を集めた。

大國魂神社 / 東京都府中市
武蔵国総社の六所宮。武蔵国そのものを神格化・大國魂大神。武蔵国府が設置・武蔵国総社。一之宮から六之宮を祀る。鎌倉幕府や江戸幕府からの庇護。GWに開催・関東三大奇祭・くらやみ祭り。すもも祭。馬場大門のケヤキ並木。御朱印。全国総社会御朱印帳。

史料に記載された当社

宝亀三年(772)の『太政官符』には、「多磨郡□野社」の記述があり、これがおそらく多摩の小野神社の事で、史料としては初見であろう。
正史である『日本三代実録』には、元慶八年(884)に従五位上から正五位上に昇格との記載がある。

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「武蔵国多磨郡小野神社」と記載されており、これが当社とされている。

但し、当社の他に府中市にある「小野神社(小野宮)」も比定社(論社)となっている。
両社の関係は、かつては同じ神社であり、多摩川の氾濫に伴う水害によって遷座が行われた結果二社に分けられたとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるとも云われている。
個人的には、創建時は府中市の「小野神社(小野宮)」にあったものの、水害の影響もあり後に当地に遷座してきたものと推測している。

小野神社(小野宮) / 東京都府中市
小野宮と呼ばれた当地。延喜式内論社。多摩市にある武蔵一之宮「小野神社」との関係。住宅街にひっそりと鎮座。江戸時代に描かれた当社。御朱印。

いずれにせよ両社とも関係が大変深かったのは間違いなく、「小野神社」の名が古くから朝廷にも知れ渡った古社だった事が分かるだろう。

時代の権力者による崇敬と衰退

永承六年(1051)には、源頼義が奥州に向かう途中に、息子である義家(八幡太郎)と共に参籠し、太刀一振りと詠歌一首奉納したと伝わる。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』では、治承五年(1181)に「是以武藏國多西郡内吉富并一宮蓮光寺等」とあり「蓮光寺」と共に「一宮」の名が記述されている。
当時は神仏習合の時代で、当社は中世以来、文珠菩薩を本地仏とした信仰も行われていたとされる。

その後も、太田道灌(江戸城築城で有名)が当社の社殿などを造営したと伝えられている。
しかしながら、次第に当社は衰退していく。

これは戦国時代にかけての幾度もの戦乱の他に、多摩川の氾濫の影響が強くあったとされている。
度重なる戦火と多摩川の氾濫で、その度に多大なる被災をしたため、必然的に衰退していったようだ。
また比較的近くに武蔵国総社の「大國魂神社」があり、そちらが非常に崇敬を集めていたため、当社は衰退していったと見る事もできるであろう。
江戸時代まではかなり荒廃した状況だった事が窺える。

この頃には「武蔵一宮氷川神社(大宮氷川神社)」が武蔵国一之宮とされる事も多くなっていたため、これが当社の力が衰退した証拠とも云えるかもしれない。

二代将軍・秀忠による再興

江戸時代に入り、徳川第二代将軍・秀忠により再興。
慶安元年(1648)には十五石の朱印を賜っている。
以後、歴代の徳川将軍家より8回の朱印を賜っているように、江戸時代になってから再興された事が分かる。

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

一宮大明神国立国会図書館デジタルコレクションより)

「一宮大明神社」と描かれた当社。
規模としては大変小さく現在とそう変わらないのだが、茅葺きの神門や社殿があった事が分かる。
古い史料にもある「小野神社」ではなく、「一宮大明神」と呼ばれたのは、当社が一之宮として崇敬された過去から、徳川将軍家に再興された事にちなんで、一之宮の文字を前に出したとも見る事ができる。
現在の住所も多摩市一ノ宮であり、これは当社がある事によるもの。

神仏分離と昭和の再建

明治になり神仏分離。
上述したように、神仏習合時代の当社では文珠菩薩を本地仏とした信仰も行われていたのだが、神仏分離によって本地仏の文珠菩薩を近くの「真明寺」に遷している。
明治六年(1873)、郷社に列している。

大正十五年(1926)、近隣の失火により社殿などを類焼。
御祭神と一部の神宝、鳥居のみ焼失を免れ、他は悉く焼失してしまったようだ。
昭和二年(1927)、本殿・拝殿を再建している。

戦後になり、昭和三十九年(1964)に社務所を新築、随神門が再建され、社殿をやや後方に遷している。
昭和四十九年(1974)に、随身を随神門内に安置して再建となった。
これらは氏子による尽力があったとされ、まだ小さいながらも、近年になり一之宮としての格式と姿を取り戻しつつあると云えるのではないか。

武蔵国一之宮の変遷の謎

上述したように当社は武蔵国の一之宮と伝わる。
鎌倉時代の『吾妻鏡』には、「是以武藏國多西郡内吉富并一宮蓮光寺等」とあり「一宮」の名が記述されているように、かつては当社が一之宮とされていた。

武蔵国総社である「大國魂神社」では、南北朝時代に編纂された「神道集」にある「武州六大明神」を基にして、「一宮:小野神社、二宮:二宮神社、三宮:氷川神社、四宮:秩父神社、五宮:金鑽神社、六宮:杉山神社」を公式としている。
総社に一之宮として祀られている事からも、当社が一之宮だったのは間違いない。

しかしながら、現在は武蔵国一之宮というと、埼玉県さいたま市大宮区にある氷川信仰の総本社「武蔵一宮氷川神社(大宮氷川神社)」の知名度が高い。
これには時代の推移と共に、力関係の変遷があったものと思われる。

上述のように総社の「大國魂神社」では「氷川神社」を三之宮としている。
そのためかつては「小野神社」が一之宮であり、「氷川神社」が三之宮であったのは事実であろう。

その一方で、延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、「小野神社」が小社だったのに対して、「氷川神社」は名神大社になっており、この頃には「氷川神社」のほうが規模が大きかったとも推測できる。

いずれにせよ、早ければ平安時代中期、遅くとも室町時代以降には「氷川神社」が一之宮とされる事が多くなり現在に至っている。
当社が衰退した時期とも重なっており、時代の推移と共に一之宮の移り変わりを知る事ができる。

武蔵一宮氷川神社 / 埼玉県さいたま市
武蔵国一之宮。氷川神社総本社。氷川の由来・大宮の地名由来。埼玉や東京に点在する氷川信仰。見沼の水神を祀る太古の信仰。出雲族の移住と出雲の神。明治天皇が関東の神社で最初に行幸。約2kmの氷川参道。国費で改築・楼門や社殿。限定御朱印。御朱印帳。

かつての武蔵国は三国であった説

こうした一之宮に関する議論は古くからされており、個人的に特に注目したいのは、文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』に記された当社の項目である。

(一之宮村)
一之宮明神社
社地、五十間四方許、社領十五石の内なり、村の内にあり、村内にて十五石の社領を御朱印附せらる、本社は三間に二間の宮造にして、四邊に瑞籬を構へ、其前少しへ立て拝殿を建つ、二間に五間半、共に西向なり、又拝殿をさること八旧間許、西に随身門あり、二間に三間半、随身の像は佛師運慶が作なりと云、前に木の鳥居たてり、郡中に一宮・二宮ありて、村名にさへ唱ふれば、此社の古きことは論をまたず、今に其社地をみるに、もと玉川の河原にして、四五百年来の開闢に過ぎざるべく見ゆれば、是へ移し祀りしは後世のこととこそおもはる、近郷百草村は山にそひたる地にして、かしこなる寺院松連寺に蔵する、建久四年の銘を刻せし経筒を見に、一宮別当松連寺としるせり、さればその時代には松連寺当社の別当職たりしこと分明なり、よりておもふに、そのかみの社地は今の地よりは西へよりて、岡山の上などにたちしなるべし、社傳に云、当社は安寧天王の御宇鎮座にして、祭神は当国の国造惠多毛比命の祖、天下春命なり、配祀五座伊弉册尊・大己貴尊・素盞嗚尊・瓊瓊杵尊・彦火々出見尊なりと、今按に是社傳疑はしく覚ゆ、其をいかにと云に、今の神職と云者後世ここに移りしものにて、古松連寺の別当職たりしことだに、いひもつたへざるほどなれば、中ころ衰廃して、社傳以下皆亡しは勿論なり、されば此祭神も後に推考して、妄に定しことはしらる、今試に論ぜんに、古は当国の地、三国のごとくにわかれて、旡邪志といひ、胸刺といひ、知々夫といひしなり、今より想像するに、山川野原等をさかひとせしさま、おのづから昔のことしゆべからざるに似たり、さて旡邪志には兄多毛比命を国造と定められ、胸刺へは伊狭知直ををかれ、知々夫へは知々夫彦命ををかれたり、このは知々夫彦命は天穂日命の子孫なれば、もとより同族にあらず、これ国造本紀・古事記等の古書によりて云所なり、今社傳に惠多毛比命の祖下春命と云こと、昔三国なりしことを考へずして、今三をあはせて、一国とせし後より、かかる両端をかねし説をなせしにて、その牽強付会しるべし、又按に諸国とも一宮・二宮・三宮など号して、国の鎮守たることは常なり、中にも東海・東山の諸国に祀れるもの多く、大巳貴・少彦名の二神なり、その故はこの二神は草昧の世、早く中国より東邊までを治め玉ひし神なればなり、その委きことは神代巻等に載たれば是には瓣ぜず、これによれば、配祀せる大巳貴神、これもとの祭神なりしならん、或云、当社は神名帳当国四十四座の内にのせざればさせる古社ともおもはれずと、これもまた考の疎なるより、神名帳は延喜年中にえらばれしものなれば、今よりは上古のことにても、其比衰たるは元よりのせざれば、式外の神社を国史等にものせて、古社は何ほどもあるべきなり。古此国三国にわかれしとき、荒川より南にては、当社一宮にして、北は足立郡氷川社知々夫にては大宮、これ皆国の一宮なるべし、然るに大寶年中初て国守を置れ、今の府中を定められしとき、当社はおとろへたるなるべけれど、もとより国魂の社なるにより、府に近ければこれを一宮と号し、その余の二社は大宮と号して、唱をわかたれしなるべし、今府中惣社六所の祭にも、当社の神輿を出すこと、かたがたゆへあるべきことなり、後世傳を失ひて或式内小野神社ば、則当社なりなと云妄説をなすに至れり、かく古實を失ふこと惜むべし、また一宮の名ふるくものにみえしは、東鑑を始めとすべきか、治承五年四月廿四日の條に、武蔵国多磨郡の内吉冨并一宮蓮光寺等を以て、小山田三郎重成が、所領の内に住加云々すとあり、
神主新田主水。新田大炊助義重が後裔なりといへり、されど舊記家系は、皆丙丁の災にかかりて烏有すと云り、その詳なることは考へず。
本地堂。随身門を入て左の方にあり、二間に九尺、文殊菩薩の獅子にまたがりたる長六寸許なる木像を安置す、この本地佛あるにても昔別当寺も有し事明らけし。
末社小社二宇。本地堂の並にあり。

大変興味深い事が記されており、武蔵国はかつて三国であったが一国に統合されて武蔵国となったという事が記載されている。
かつての三国とは、无邪志国・胸刺国・知々夫国の三国とある。

知知夫国は現在の秩父地方なのは上述した通り。
无邪志国は知々夫国の東にあり、おそらく現在の東京都東部から埼玉県南部にかけての地域で後の足立郡の事であろう。
胸刺国はどこにあったのか不明であるが(そもそも実在したかも不明で、无邪志国の属国だったと推測している)、もし実在していたのなら、知知夫国と无邪志国以外の地域となる訳で、そうなると多摩地域と思われる。
多摩川流域・現在の東京都大田区あたりには古代の古墳や遺跡などが多いため、この周辺だったのではなかろうか。

こうした三国が存在していたのだが、後に无邪志国が中心となり、国から郡に降格した知々夫と胸刺をあわせ武蔵国になったとしている。

三国が統一されるまで、国が別れていたため「小野神社」は荒川より南の一之宮、「氷川神社」は荒川より北の一之宮であった。
その後、武蔵国が成立し、国府が府中に置かれた。
府中には総社の「大國魂神社(六所宮)」が出来、そちらが崇敬を集めたため、近くにあった「小野神社」は衰退、その結果、一国に統合された際に「氷川神社」が一之宮となった。
あくまで『新編武蔵風土記稿』での推定された話であるが、興味深い説である。

いずれにせよ、当社がかつては一之宮とされていたのは間違いなく、こうした変遷はとても興味深い歴史に感じる。
こうした謎多き「小野神社」は色々推測できる素材であり、なんともロマンに溢れていると思う。

なお、当社は「全国一の宮会」に加盟していない。
こうした事も武蔵国一之宮として知名度が劣る理由の一つでもあろう。

朱色の社殿・再建された随神門

多摩市一ノ宮に鎮座しており、一ノ宮の地名由来は当然当社があった事による。
最寄駅は聖蹟桜ヶ丘駅で、そこから住宅街に入ると当社が鎮座している。
江戸時代の徳川秀忠による再興、そして戦後の再建と、少しは往年の姿が戻ってきてはいるが、それでも一之宮というよりは地域の鎮守といった色合いが強い。

image西側が表参道になっており、社号碑には「武蔵一之宮」の文字。

鳥居の先には立派な随神門が建っている。
image昭和四十九年(1974)に、随身を随神門内に安置して再建となった。
大変細かい彫刻がされており見事。
氏子による一之宮としての再興の願いが込められているように思う。

南側にも鳥居と神門がある。
imageこちらの南門がかつての神門で、こちらのほうがやや古い。
現在の随神門が造営された際に移築された。
いずれの鳥居も神門にも、菊花紋章(十六菊紋章)が取り付けられている。

表参道の先に朱色に塗られた社殿が見えてくる。
imageこの日は周囲を工事中であったが、朱色が特徴的な社殿。
image大正十五年(1926)、近隣の失火により社殿などを類焼し、昭和二年(1927)に本殿・拝殿を再建しており、それが修復しながら現存しているようだ。
なお、公式サイトに明治十年代の旧社殿の絵が載っていたが、その当時から朱色の社殿だった事が分かる。

この日は工事中であったが、社殿左手奥には十二柱を祀った末社殿が存在。
image伊勢神宮内宮・伊勢神宮外宮・鹿島神社・三嶋神社・巌嶋神社・安津神社・子安神社・方便神社・日代神社・愛宕神社・八坂神社・堰宮神社の十二社で、さらにその隣に秋葉神社がある。
また社務所の左手には別途、稲荷神社が鎮座している。
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御朱印は社務所にて。
imageネットでは当社に神職が常駐しておらず、要電話との記載がされている事が多いのだが、現在は基本的に常駐しているとの事なので、時間内であれば問題なく拝受できるであろう。(遠方からの方は念のため要確認との事)
初穂料は500円で、都指定有形文化財の木造随身倚像が印刷されたポストカードがついてくる。
オリジナルの御朱印帳も用意されていた。

「全国一の宮会」には非加盟だが、筆者は「全国一の宮御朱印帳」に御朱印を拝受した。

所感

武蔵国一之宮とされる当社。
一之宮の変遷や御祭神など、謎多き当社の歴史は、調べる程に面白い発見があり興味深い。
現在は比較的小さな規模で、一之宮というよりも地域の鎮守といった雰囲気が強い。
この日も近くの保育園の子どもたちが遊んでおり、微笑ましい鎮守の光景が広がっていた。
そうした要素を持ちつつも、氏子や神職を中心に一之宮としての格式を取り戻すべく、戦後になって整備が進められた事も伝わり、そうした努力は素晴らしいように思う。
親しみやすく地域に馴染んだ一之宮というのも、素敵で良いものだと感じる事ができた良社である。

神社画像

[ 大鳥居・社号碑 ]
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[ 随神門 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 南側鳥居 ]
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[ 南門 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 稲荷神社 ]
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[ 案内板 ]
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[ 宝物殿・神輿庫 ]
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[ 宝物殿 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 社務所 ]
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[ ハート型石 ]
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Google Maps

コメント

  1. 奈良原由行 より:

    昨日参拝しましたが、社務所にも誰もおられず、武蔵一ノ宮とは名ばかりなのではと感じました。残念です。安房の洲崎神社のように不在でも書置きなどで対応されたら良いのにと感じました。

  2. 神社メモ 神社メモ より:

    現在は基本的に常駐しているとおっしゃっていたのですが、留守にされていたのですね。
    それでも数年前までは常駐もなく、事前に電話をした上で、都合のよい時に向かうような形でしたので、その頃に比べると比較的拝受しやすくはなったのかなと思います。

    「全国一の宮会」にも加盟していませんので、一之宮御朱印帳には名前も載っていませんし、今はどちらかと言うと地域の鎮守社様といった雰囲気が強いです。
    遅くとも室町時代からは武蔵国一之宮は大宮の「氷川神社」に変わっており、こちらはその後荒廃していったものとは思われますが、それでもこうして維持されているのは嬉しい事です。

    確かに一之宮として見ると、物足りない部分もあるでしょうが、地域に馴染んだ鎮守社ですので、また機会がありましたら参詣してみて下さい。
    一応、公式サイトに連絡先が載っていますので、再度参詣されるようでしたら、事前に連絡してみるのがよいかと思います。

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