【スピリチュアルを学ぶ意味】
具体例というか、これにまつわるエピソードを書いてしまうとその人への攻撃になってしまうと思うので、それは略して書かせてもらいます。
「具体的に何があったのか書いてくれないとわからないし、面白くないじゃん!」
と昔の私(10代の頃くらい?)だったら思うのでしょうが、私もほら、加齢と共にちょっとは色々成長したので。
Dさんシリーズの例はあんまりにもひどかった&似たような目にあった人が本当に多かったので書いてしまいましたけどね
んでは今回のお話を。
「スピリチュアルを学ぶ意味ってなんなんだろう…。
スピリチュアルをやっているはずなのに、どんどん真心から遠くなるならそんなの意味なくない?」
こんな風に思った時代がありました。
スピリチュアルの根幹って真心とか優しさとか、天と地の間で生かされていることに感謝することだなって私は考えている。
でも、スピリチュアル知識を使って他人にスピリチュアル・マウンティングしてすごい人を貶めたり嘲笑したり…。
それはスピリチュアルじゃないって他人の考え方を全否定した上で自分の考える正義に矯正させようとしたり…。
こういうことにもスピリチュアル・不思議は使われがちだと気付いた時、私はとても悲しくつらかった。
女子小学生のいじめのようなトラブルなど…
より幸せに、楽に生きるための知恵や教えがヒトをどんどん幼稚化させ、攻撃的にさせてしまうこともあるのか?って。
【マーラは誰の心にも住まうのですよ(『聖☆おにいさん』風に)】
で、色々考え経験した結果、私はこう思っています。
自分も他人も不幸にしてしまったり、誰かだけを犠牲にして楽をするのは、やっぱりほんとうのスピリチュアルではないよ。
自我の言い訳にスピリチュアルを使っているだけだよ。
…と!(この言い方なんか古文の授業みたいだな)
たとえばスピリチュアル用語や法則を他人に伝えようとする。
「あなたの今の状況は、スピリチュアルだとこういう言葉で、それはこういう意味なんだよ」
という風に。
これを、きちんと真心から伝えているなら良いでしょう。
(そもそもの前提として相手がスピリチュアルの説明を聞きたいと思っているか聞いておくのは大事ですよ)
言われた相手も傷つかないはずなの。
びっくりして取り乱したり泣くことはちょいちょいあるけど、けしてネガティブな反応としてのそれではないのです。
時間差はあれどしっくり落ち着いてくるはずだから。
しかしですよ。
どんなにスピリチュアルや不思議(古代の叡智とよばれるもの)知識を駆使していようとですね、真心がないものはしょせんは低次元の自我。
そんなものは相手にきちんと伝わりません。
傷ついて泣いている人に追い打ちをかけるように
「お前が悪い!間違ってる!!」
だのと上から目線でジャッジ&アドバイスしたり、人格否定するかのような嘲笑とともに言葉を発するとかニヤニヤ無視するとか、そんなもん真心であるわけがないんですよ。
スピリチュアルも不思議も自分が“他人の魂を踏みにじって”気持ちよくなるために使ってはいけないのだ…
「誰の心にもマーラは住まうのですよ」
と『聖☆おにいさん』のぶっだは語っていたと思うけど…。
くだらないこともバカなところも人間なんだから心の中に持ってていいけど、暴れさせちゃいけない場面でマーラの好き勝手にさせんなってことです。
【価値観が違うことは、そりゃああるけど】
年取るごとに、生きていくには共存の心が大切なのだと私は実感しています。
みんなが色んな形で協力しあって生きていくんだと。
それは人間同士だけではなく、自然も無機物も全て同じだと思う。
今回書きたいことは人間同士の共存の心について。
人はそれぞれ違う存在だから、考え方・価値観も違うのが当たり前。
最近のスピリチュアルは自分を大切にしようって教えが特に注目されていますよね。
それはもちろんその通りだと思うけど、人は協力しあって生きていくもの。
自分を大切にするのと、相手と共存してお互いに幸せになっていくことはバランスとって実践していきたいことだと思う。
相手と自分の考えが違っていても、
「自分はこうだから、お前とは違う!!」
という風にはねつけるんじゃなくて
「自分はこう考えてる、こうしたい」
「こっちはこう考えていて、こうしてほしい」
「じゃあ、折衷案は?」
と歩み寄ってかたちにしていくことが、バランス。
これは世話焼き上手さんがよくやっちまうことだと思うのですが、ついつい相手の幸せ・快適のためにはりきりすぎて頑張りすぎる。
そして疲れて、感謝してくれないと
「こんなにやってあげてるのに!!」
と恩着せがましくなってうんざりする。
相手に爆発してうんざりさせる。
「やってあげたのにって思うくらいなら何もしない方がマシ」
というけどそれもバランスで(もっと若い頃の私だったら上の言葉で終わってたけどさぁ)、爆発するときは恩着せになっちゃってるけど出発点は純粋な真心だったりもするのだからもったいない。
やっぱりその真心は受け取って
「ありがとう、その気持ちは嬉しいよ。
でも、自分はこうだから、あなたと違う感じ方をするんだよ」
って話し合いたいですね。
世話焼きさんからも話し合う。
「自分はこういう考え方だから、こうすればあなたが喜んでくれるだろうということで、こうしている」
お互いに本音で伝えあう。
歩み寄る心がないで、スピリチュアル言い訳にして(しなくてもいいけど)
「自分はこうだからぜったい変わらない!
お前が間違ってる!!」
と言うのは伝え合ってなんかいない。
自我をぶつけているだけ。
「それはスピリチュアルでいうと○○で~だからお前の考え方が非スピリチュアルである!」
などマウンティングするのも自我をぶつけて怪我させてしまうよ…
真心がないスピリチュアルは…スピリチュアルでいられないよね。
自分も、大切な人も、幸せになれる使い方をしてこそのスピリチュアルだと私は思うのでした。
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具体例というか、これにまつわるエピソードを書いてしまうとその人への攻撃になってしまうと思うので、それは略して書かせてもらいます。
「具体的に何があったのか書いてくれないとわからないし、面白くないじゃん!」
と昔の私(10代の頃くらい?)だったら思うのでしょうが、私もほら、加齢と共にちょっとは色々成長したので。
Dさんシリーズの例はあんまりにもひどかった&似たような目にあった人が本当に多かったので書いてしまいましたけどね
んでは今回のお話を。
「スピリチュアルを学ぶ意味ってなんなんだろう…。
スピリチュアルをやっているはずなのに、どんどん真心から遠くなるならそんなの意味なくない?」
こんな風に思った時代がありました。
スピリチュアルの根幹って真心とか優しさとか、天と地の間で生かされていることに感謝することだなって私は考えている。
でも、スピリチュアル知識を使って他人にスピリチュアル・マウンティングしてすごい人を貶めたり嘲笑したり…。
それはスピリチュアルじゃないって他人の考え方を全否定した上で自分の考える正義に矯正させようとしたり…。
こういうことにもスピリチュアル・不思議は使われがちだと気付いた時、私はとても悲しくつらかった。
女子小学生のいじめのようなトラブルなど…
より幸せに、楽に生きるための知恵や教えがヒトをどんどん幼稚化させ、攻撃的にさせてしまうこともあるのか?って。
【マーラは誰の心にも住まうのですよ(『聖☆おにいさん』風に)】
で、色々考え経験した結果、私はこう思っています。
自分も他人も不幸にしてしまったり、誰かだけを犠牲にして楽をするのは、やっぱりほんとうのスピリチュアルではないよ。
自我の言い訳にスピリチュアルを使っているだけだよ。
…と!(この言い方なんか古文の授業みたいだな)
たとえばスピリチュアル用語や法則を他人に伝えようとする。
「あなたの今の状況は、スピリチュアルだとこういう言葉で、それはこういう意味なんだよ」
という風に。
これを、きちんと真心から伝えているなら良いでしょう。
(そもそもの前提として相手がスピリチュアルの説明を聞きたいと思っているか聞いておくのは大事ですよ)
言われた相手も傷つかないはずなの。
びっくりして取り乱したり泣くことはちょいちょいあるけど、けしてネガティブな反応としてのそれではないのです。
時間差はあれどしっくり落ち着いてくるはずだから。
しかしですよ。
どんなにスピリチュアルや不思議(古代の叡智とよばれるもの)知識を駆使していようとですね、真心がないものはしょせんは低次元の自我。
そんなものは相手にきちんと伝わりません。
傷ついて泣いている人に追い打ちをかけるように
「お前が悪い!間違ってる!!」
だのと上から目線でジャッジ&アドバイスしたり、人格否定するかのような嘲笑とともに言葉を発するとかニヤニヤ無視するとか、そんなもん真心であるわけがないんですよ。
スピリチュアルも不思議も自分が“他人の魂を踏みにじって”気持ちよくなるために使ってはいけないのだ…
「誰の心にもマーラは住まうのですよ」
と『聖☆おにいさん』のぶっだは語っていたと思うけど…。
くだらないこともバカなところも人間なんだから心の中に持ってていいけど、暴れさせちゃいけない場面でマーラの好き勝手にさせんなってことです。
【価値観が違うことは、そりゃああるけど】
年取るごとに、生きていくには共存の心が大切なのだと私は実感しています。
みんなが色んな形で協力しあって生きていくんだと。
それは人間同士だけではなく、自然も無機物も全て同じだと思う。
今回書きたいことは人間同士の共存の心について。
人はそれぞれ違う存在だから、考え方・価値観も違うのが当たり前。
最近のスピリチュアルは自分を大切にしようって教えが特に注目されていますよね。
それはもちろんその通りだと思うけど、人は協力しあって生きていくもの。
自分を大切にするのと、相手と共存してお互いに幸せになっていくことはバランスとって実践していきたいことだと思う。
相手と自分の考えが違っていても、
「自分はこうだから、お前とは違う!!」
という風にはねつけるんじゃなくて
「自分はこう考えてる、こうしたい」
「こっちはこう考えていて、こうしてほしい」
「じゃあ、折衷案は?」
と歩み寄ってかたちにしていくことが、バランス。
これは世話焼き上手さんがよくやっちまうことだと思うのですが、ついつい相手の幸せ・快適のためにはりきりすぎて頑張りすぎる。
そして疲れて、感謝してくれないと
「こんなにやってあげてるのに!!」
と恩着せがましくなってうんざりする。
相手に爆発してうんざりさせる。
「やってあげたのにって思うくらいなら何もしない方がマシ」
というけどそれもバランスで(もっと若い頃の私だったら上の言葉で終わってたけどさぁ)、爆発するときは恩着せになっちゃってるけど出発点は純粋な真心だったりもするのだからもったいない。
やっぱりその真心は受け取って
「ありがとう、その気持ちは嬉しいよ。
でも、自分はこうだから、あなたと違う感じ方をするんだよ」
って話し合いたいですね。
世話焼きさんからも話し合う。
「自分はこういう考え方だから、こうすればあなたが喜んでくれるだろうということで、こうしている」
お互いに本音で伝えあう。
歩み寄る心がないで、スピリチュアル言い訳にして(しなくてもいいけど)
「自分はこうだからぜったい変わらない!
お前が間違ってる!!」
と言うのは伝え合ってなんかいない。
自我をぶつけているだけ。
「それはスピリチュアルでいうと○○で~だからお前の考え方が非スピリチュアルである!」
などマウンティングするのも自我をぶつけて怪我させてしまうよ…
真心がないスピリチュアルは…スピリチュアルでいられないよね。
自分も、大切な人も、幸せになれる使い方をしてこそのスピリチュアルだと私は思うのでした。
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