知りたい宮島

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知りたい宮島 8 大願寺 大聖院他

2024年04月22日 12時00分40秒 | 貴方の知らない宮島
大願寺
正式名を「亀居山方向院大願寺」と言い、真言宗高野山派です。開基は不明で鎌倉時代の建仁年間(1201-1203年)総本山は「金剛峰寺」です
僧了海により再興されたと伝えられています。
大願とは、厳島神社を護る「大願」を意味する、ことで普請奉行として寺社の修理造営をしていました。
明治時代の神仏分離令では、厳島神社をはじめ九州の「筥崎宮(はこさきぐう)」や「宇佐八幡宮」など、多くの寺社の
修理造営を掌っていました。(本願職としては全国を托鉢する許可を受けていました
「戦国時代以来、厳島の寺社造営の任にあたり、江戸時代には、棚守・座守、と共に重要な役割を果たしていました」
大鳥居修復にあたって、大願寺には修復に関わった「古文書」があり
現在の住職 平山真明(しんめい)氏の説明によると、現在のクラウドファンディングにより再建した事が解る
嘆願書として「大鳥居が久しく断絶しているので建立したい」とある。
永禄4年(1561)毛利氏の時代には、大願寺が大鳥居再建時に、大名、小早川、吉川 堺商人 商人
などからお金を集めた、との古文書が現存している。

本堂には国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の「本尊薬師如来」は弘法大師の作と伝えられています。
また神仏分離で千畳閣から移された、行基作と伝えられる「釈迦如来座像」と「阿難尊者像」「摩詞迦葉尊者像」、さらには
五重塔から移した、「釈迦如来座像」「文殊菩薩」「普賢菩薩」の三尊像があります。

大願寺の「厳島弁財天」相模の国の江ノ島(江ノ島神社)、近江の国の竹生島(宝巌神社)と供に日本三大弁才天の一つです。
島弁才天大祭は毎年6月17日に開催されます。秘仏とされる弁才天は一年に一度のこの大祭の時にご開帳されます。

2006年(平成18年)4月には「護摩堂」が140年ぶりに再建されました、中には「1丈6尺(約4m)の総白檀(そうびゃくだん)
の本尊「不動明王半迦座像」があり、この像の開眼式が行われました。
「この仏像は仏師・松本明慶(まつもとみょうけい)、が先代住職・平山真明より依頼を受けて4年半年かけて製作したもの」
左足は乳児の足をイメージしたもので、台座はインドネシア産の「桂化木」です。
桂化木・・・・・木が化石化したものを言う

不動明王半迦坐像・・・・・・仏師、松本明慶の作品
1945年(昭和20年)生まれ、100年に1人と言われる天才
「慶派(けいは)」の流れを汲む。仏師・野崎宗慶に弟子入り
「慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派」、運慶・快慶 などの仏師
1980年(昭和55年)  京都仏像彫刻展で、京都市長賞を受賞する
1985(昭和60年) 京都仏像彫刻展で、京都府知事賞を受賞する。
1991年(平成3年)  大仏師の称号を受ける。
その工房は、松本工房という名称で、京都市西京区大原野の、善峰寺や十輪寺の近辺にある。
京都仏像彫刻家協会会長。

白檀(びゃくだん)
熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴、香木として利用される
紀元前5世紀頃にはすでに高貴な香木として使われていた。     白檀は仏の宿る木、香は煩悩を絶つ といわれる

雌雄異株で周りに植物がないと生育しないことから
栽培は大変困難で、年々入手が難しくなっており、
インド政府によって伐採制限・輸出規制が掛けられている。


戦国時代の天文7年(1538年)、尊海上人が、山口の大内義隆の援助にて「一切経(いさいきょう)」を求めて、当時の
李朝であった朝鮮国に渡りました。
この時の日記が大願寺所蔵の「瀟湘八景図」の裏面に記録されており、当時の朝鮮国の様子を記した貴重な資料で
尊海渡海日記(紙本墨書尊海渡海日記)」として国の重要文化財に指定されて居ます。
一切経・・・・・高麗版大蔵経。厳島の神を「観世音菩薩の化身」と記している。 観音は海難を救ってくれるとされている
尊海・・・・・・・天文年間1532年から1544年、芸州平良の庄(現在の廿日市市平良のあたり)の生まれである
        当時の李王朝の都、漢城(現在のソウル)に尊海は行く
        室町時代の160年間は、経済・文化の上で李朝と日本は密接な関係を維持していた。

当時は「五重塔」「千畳閣」「多宝塔」をはじめ、境内にあった、さまざまな堂宇(建物)を含めて「厳島伽藍」と称し、その中心を
大願寺」が占めていました
ちょっと珍しい、五重塔の修復工事の写真です

厳島合戦後から10年後の永禄7年(1565年)、大願寺の裏手にあった「大湯屋の再興」がありました。
大願寺の裏手には「千石門」といって、満潮時には「千石船」が着船で切る入り江があり、そこに舟を着け大願寺に参詣後
清めの「風呂」に入り、真新しい白足袋や履物に取り替えて「西廻廊」入り口から入っていました。
右手には手水鉢(文化10年1800年)があり身を清め、すがすがしい気持ちで参詣していたと言われています。

大願寺の書院では江戸時代の末期、慶応2年(1866年)9月2日第二次長州戦争の際、幕府方の勝海舟と長州藩
広沢真臣・伊藤馨・木戸孝允(桂小五郎)らが和平会談を行ないました。書院には「伊藤博文」の扁額があります。
「8月21日軍艦奉行・勝海舟が来広し、9月2日には広島藩の辻将曹・植田乙次郎の仲介にて、大願寺書院にて、長州藩の
広沢兵助(1865年に広沢真臣に改名)・春木強四郎(井上馨)らと会見した}

書院の軒の下には「錦帯橋の模型が飾ってあります」、これは明治29年(1896年)に「岩田三郎左衛門より寄進されたもので
19世紀末にパリ万国博覧会に出品した1/25の模型です。(この時・徳川一行が行く団長は徳川昭武

徳川昭武(1853年9月24日生)、11代水戸藩主。慶喜の異母兄弟
慶応3 (1867) 年パリ万国博覧会の日本代表として15代将軍慶喜の名代に派遣され,
外国奉行・竹本隼人正,渋沢栄一 ら幕臣を連れて渡仏(ナポレオン3世に会う),14歳(一行は28名)
渋沢栄一、・・・日本資本主義の父、理化学研究所の創設
昭和25年(1950年)のキジア台風により錦帯橋が流されてしまいますが、この時再建するにあたりこの模型を参考にしたとも
言われています。(橋脚は残ったが橋は流されてしまった)
「錦帯橋は延宝元年(1673年)岩国第三代領主・吉川広嘉の時に完成。石の橋脚は吉川公が「穴太衆」の所に配下の者を
2年間研修に行かせ、石組みの勉強をさせ、現在に見られる石の橋脚を組んだといわれています」
*残念なお知らせですが、以下に述べる「松」は松くい虫により枯れ、切り倒されてしまい、現在は9本の根っこが残っているのみです。

境内には、変わった「松」が生えています、根っこが一つで上には木が九本生えています、高さは18mあります。
これは初代内閣総理大臣・伊藤博文がお手植えしたものです。
旧宮島町の天然記念物に指定されています)
広島の原爆ドームの高さが25メートルなので、7メートル程低い(原爆ドーム 旧宮島ホテル(現在の国民宿舎杜の宿)がチェコの
ヤン・レツルが設計した建物です)


伊藤博文は弥山山頂にある、三鬼大権現を深く信仰していた為、何度もここを訪れています。
弥山登山道の一つ「大聖院登山コース」は彼が整備したものです、
当時のお金で7000円、現在(2021年)のお金では2億円くらいと言われています

三鬼大権現  ① 時眉鬼神(大日如来の化身) ②追帳鬼神(虚空蔵菩薩の化身) ③摩羅鬼神(不動明王の化身)
          と言われており、山頂の三鬼堂には、伊藤博文の「扁額」が掲げられています。


入り口には「楼門」があります
「楼門」が建てられるのは大変格式の高い寺社のみで、江戸時代には広島藩で許された寺社は4社のみである
 ① 大願寺 ② 大聖院 ③ 福王寺(広島市可部) ④ 西国寺(尾道市)
門の横には「仁王像」がおりますが、これはもともとは、桟橋前の小高い丘の上に、「仁王門」がありその横にあった「像」ですが
仁王像(金剛力士像)とは 共に仏を守護する、「夜叉神」である
金剛は那羅延金剛(ならえん)の事、力士は密迹(みっしゃく)力士の事
金剛杵(しょ)を持って仏法を守護する神。大力をもって悪魔を降伏(ごうぶく)する。寺門の左右に置かれる。
門の向かって左が那羅延(ならえん)金剛、右が密迹(みっしゃく)金剛。仁王。金剛手。金剛神。
阿形の開口は「私達の心の眼を開け」と教え、吽形の閉口は「口の門を閉じ、煩悩による一切の悪魔を遮断しなさい」
と教えている。と言われている

明治のはじめに仁王門が取り壊しになろ、「仁王像」のみがこの楼門の横に取り付けられたものです、したがってよく見ると
楼門の内側の柱と外側の柱の時代差を感じると思います、よく見てください。
向って左が「那羅延金剛」、右が「密釈迹力士}像で、金剛杵を持って仏法を守護する神、大力をもって悪魔を降伏する為
なお、広島不動院に桃山時代の楼門があるが、正しくは二重門(屋根が二重の門)で、楼門ではありません。

江戸時代の「厳島図会」を見ると、楼門の向きが変わっています。元は宝物館の方角に、入り口がありました。 その後前面の道路拡幅工事に伴い、現在のような入り口に変わったようです。

山門と三門の違いは?
浄土宗の総本山「知恩院」は、三門。「山門」は中国でお寺を「○○山」と山号(さんごう)で呼んだことに由来する。
知恩院の三門には「華頂山」の額がある。
「三門」は?、 「三解脱門(さんげだつもん)」の略である>。「空(くう)」、「無相(むそう)」、「無願(むがん)」を表すと言う
悟りに通じる三つの解脱の境地を門という形で表している
「空(くう)」・・・・・・・愚かさ、物事にこだわらない
無相(むそう)」・・・怒り 、差別しない
無願(むがん)・・・欲望 欲望を求めない
この三つの迷いから抜け出すことを「三解脱」して、心すっきりしてお参りをする。
東福寺の三門、 禅宗の東福寺三門は「大仏様(だいぶつよう)などが混じっている」
知恩院の三門、 禅宗様式の典型的な門
この二つの門の違いは、①大仏様は白塗りの組物が柱に差し込まれ手前にせり出している
     ②禅宗様式の門は手前にせり出していない、普通の門形式である

そもそも「三門」は中国から禅宗と共に伝わり、特に本山級の寺院、五山で大型の門が建てられる様になった
共通するのは「五間三戸二階二重門(ごけんさんこ)」である事で、
「柱で5つの間に仕切りされた中に3つの扉があり、2階建てで屋根が2つある門」 のことを言う
門は何気なく通るが、本来「三門」をくぐるのは、それなりの重みがある

余談ですが、お寺の門柱等に貼ってあるお札について感じたこと

山門に張り付けてある「お札」について、「千社札」と言います。
千社札(せんじゃふだ)とは、神社や仏閣に参拝を行った記念として貼る物で
自分の名前や住所を書き込んだ札のことである

神社仏閣に納札する為の単色刷りで、屋号や土地名、模様と名前をスミ刷にした貼札
(はりふだ)と呼ばれる題名札と、色を何色も使い、デザインにも凝った色札(いろふだ)
と呼ばれる交換納札が有る。

「題名を記した札(題名札)が貼られている間は、参籠(さんろう:宿泊参拝)と同じ功徳がある」
と言う民間信仰での風習から、日帰り参拝者が参籠の代わりに自分の札を貼った事から始まり、
神社仏閣の許可をもらって御朱印を頂いた上で千社札を張るのが本来の慣わしである。

書体
千社札に使われる文字の書体は、江戸文字の「籠文字」が用いられる。小さく入れる場合は、
「寄席文字(よせもじ)」も使われる。錦絵と同じ江戸木版画によって印刷される。
   江戸文字(えどもじ)とは、江戸時代に盛んに使用された図案文字の総称である。
   寄席文字(よせもじ)は、寄席で使用される文字の字体。江戸時代の「ビラ字」に端を発し、
   芝居文字・相撲字などとともに江戸文字に属する。通称は橘流(たちばなりゅう)。
概要
寄席文字は、寄席の看板や高座のめくりに用いられる、独特の太い筆致の文字として知られる。
これは、従来「ビラ字」と呼ばれていたものが、もと噺家の「橘右近」によって改良されたものである。
寄席文字は、番付やビラ、千社札にも使用されている

笑点の番組タイトルは、2011年(平成23年)6月5日までは「橘右近」によって書かれたものが使用されていた
同年6月12日以降は橘左近によるものを使用している。

寸法
千社札(一丁札)の紙寸法は、幅一寸六分(4.8㎝)、高さ四寸八分(14.4㎝)


伊能忠敬が1806年(和平会談の行われる60年前)の3月に来島し、大願寺を本陣として島の測量を行う。

伊能忠敬、
56歳から72歳までの16年間、日本国の海岸線を歩く。(二歩で一間の歩幅)
当時は楽隠居してもおかしくない56歳の時、蝦夷地測量のたびに出る。
35000キロ(8900里)(4000万歩)に及ぶ。
忠敬の師匠が、後に述べる、堀田仁助である

堀田仁助(1799年)蝦夷地の測量にあたり地図を完成
廿日市佐方八幡に仁助の寄進した(1808年)、碑文入り石灯籠あり
1747年(延享4年)津和野藩御船屋敷に生まれる、15歳で城下町津和野に移り、勘定書見習として勤める。
江戸幕府天文方となる、仁助の蝦夷航路測量により、「伊能忠敬」の蝦夷地測量が実現した
仁助の弟子が「伊能忠敬」と言われている

山門」と「三門」の違いは
山門は中国ではお寺を「○○山」と山号(さんごう)で呼んだ事に由来する
三門は、「三解脱門」の略で、「空(くう)」、「無相(むそう)」、「無作(むさ)」と言1いるい悟りに通じる三つの解説の境地を門と云う形で表している。
「空」・・・・・・・物事にこだわらない
無相」・・・・・見かけで差別しない
「無作」・・・・・欲望のまま求めない

門は何気なく通っているが、本来「三門」をくぐるのは、それなりの重みがあると思います。
知恩院の三門、東福寺の三門等大型の門がありますが、共通するのは「五間三戸二階二重門」で
柱で5つの間に仕切りされた中に3つの扉があり、2階建てで屋根が2つある門」と云う意味

大聖院
正式名を多喜山水精寺大聖院(たきざんすいしょうじだいしょういん)と言い、真言宗御室派の大本山です。総本山は仁和寺です
大同元年(806年)に弘法大師が唐からの帰途、弥山において求聞持の百日修法を修め開創されたと伝えられています。
明治維新までは十二坊の末寺を有刺、厳島神社の法会祭事を司る「別当職」でした。
別当職」・・・・・寺務を統括する長官にあたる僧職の事

観音堂・魔尼殿・勅願堂・・遍照窟・大師堂・霊宝館などがあり
① 観音堂は元は厳島神社の本地仏で十一面観音菩薩像が安置されている他、チベット密教の僧によって製作された
  曼荼羅、弥山開山1200年の記念事業の一環として平成18年秋に建立された「金色の弥勒菩薩」公開されています。
  また、明治18年7月31日には「明治天皇の行在所」として使用され、その事が左の柱のあたりに掲げてあります。
  したがって、屋根瓦を見ると、「金色色の菊の紋」が入っています。「十六葉八重表菊紋」
宮島は瀬戸内で一番多くの「水晶」が獲れました、ここには、透明に近い巨大な水晶が展示してあります。参考までに

もともと獲れていた水晶は「茶褐色」の水晶で、約30㎝位ある大きな物でした

  戒壇めぐり・・・・・母親の胎内の様な暗闇の中に入って、今一度本質に立ち返り生まれ変わって出てくるという。

② 魔尼殿は弥山の守護神・三鬼大権現の本坊御祈祷書。弥山の三鬼堂に同じく、時眉鬼神・追帳鬼神・摩羅鬼神の三鬼神
   をお祀りしている。
   三鬼大権現は大小の天狗を従え、強大な神通力で衆生を救うとされる全国唯一の鬼神で、初代内閣総理大臣の
   伊藤博文も篤く信仰したといわれています。
   「魔尼」は、福寿とも訳し幸せな日々の暮らしと健康・長寿などを願う参拝者が絶えません。

③ 勅願堂は鳥羽天皇勅願道場として創建されたと伝えられるもので大聖院の本堂。
   豊臣秀吉が朝鮮出兵の文禄の役(1592年-1596年)の折に、海上安全を祈る為に祈願した念寺仏で、天下統一後
   に奉納された「波切不動明王」を本尊としてお祀りしています。堂内では毎日、家内安全・心願成就等の護摩祈願が行われて   います。

④ 遍照窟は大師堂の地下にあり、四国八十八箇所の本尊が安置されています
   「遍照窟」とは、世の中を平和にする為、幸せの火を「あまねく(遍)てらす(照)道場(窟)」の意味です。
   本尊の前には四国八十八箇所霊場の砂が埋めてあり、お砂踏みをすると四国霊場巡りと同じご利益があると言われている

⑤ 大師堂は本房最古の建物で、大同元年(806年)弥山を開基されたと伝わる弘法大師(空海)を祀った大師堂   その周りには、西国三十三観音・一願大師・稚児大師等が祀られた小さなお堂が取り囲むように建って居ます。
   本坊境内や瀬戸内海を見下ろす高台にあり絶景ポイントでもあります。

⑥ 霊宝館は弥山開創1200年の記念事業のいっかんとして平成18年に秋に完成した建物
  仁王門をくぐり、御成門へとつながる階段脇にあり、かつては弥山大日堂に祀られていた。
  重要文化財の不動明王や平成16年の台風で倒壊した弥山仁王門の仁王像などをここに一時収蔵していました
  現在、弥山仁王門は再建されています。




塔の岡と龍髭の松(りゅうぜん)
五重塔・千畳閣のあるこの塔の岡は、亀居山とも宮崎(平安時代)とも言われ、この尾根は社殿を風や波から守る
重要な山です。厳島合戦の折には、勝山城から移った、陶軍の本陣が敷かれた所です。
(廿日市の西行寺には蓮華松「樹齢300年」、草津の浄教寺の「臥龍山の松、左右20m、原のえんこう松)
3 「龍髯の松」、2本の黒松からなる
空に向かった幹が 2段(多宝塔)、5段(五重塔)に剪定されている。
江戸時代後期の、寛政12年(1800年)に 松岡文右衛門が植えたものである。
又此の地には料亭「遠翠楼(えんすいろう)」がありその主でもあった。


  来迎壁に書かれている
五重塔   (重要文化財)
1407年(応永14)7月の造立です(芸藩通志第15巻)。 4代将軍「足利義持」の時代に建立。
高さ約27.6m、檜皮葺、和洋と唐様を融合した見事な建造です。
内部は非公開ですが、天井や周囲の板壁には彩色されて蓮池図と白衣観音図、瀟湘八景図、真言八祖図、
が描かれています。神仏分離令までは大願寺厳島伽藍の塔で、本尊は釈迦如来像で脇士は普賢菩薩像
と文殊菩薩像でしたが現在は大願寺に移されています。内部は彩色がしてあり豪華絢爛。内陣の天井には龍が、
外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれています。その他壁板には迦陵頻伽や鳳凰が極彩色で描かれている
迦陵頻伽・・・・極楽にいて、美しい声で鳴くと言う想像上の鳥。
内陣天井には「龍」、 外陣天井には「葡萄唐草」、 来迎壁の、表には「蓮池」、裏には「白衣観音像」
さらに、周囲 八面の壁には「真言八祖図」「瀟湘八景図」 が極彩色で描かれている。

一層の柱は16本あり、1本ごとに寄進者の名前が書かれている(14本は女性で2本は大願寺・大聖院の僧)
擬宝珠には文正2年(1819年)の紀年名あり、2層・5層は蓮の花を逆さにした「逆蓮」で、3層・4層は蓮の花が
開いている「開花蓮」になっている、又斗束も蓮の形をしているので「握蓮(にぎりばす)」と言われる
組物から突き出る尾垂木(おだるぎ)。 これ程までに濃厚な唐様の塔は
① 尾道の天寧寺(てんねいじ)の五重塔(今は三重塔)  ②向上寺(こうじょうじ)の三重塔しかない 
他県では 長野県上田市の安楽寺(あんらくじ)の八角三重塔 しかない
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、五重塔は600年前の建物なので柱
が「貫」と交差する部分をよく見ると2センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。
心柱が2層目で止まっていて、下まで達していないのが珍しく、2層目で止まっていることで、
振り子のように横揺れに強く、台風の風にも耐えられる構造になっています、
ここで言う「心柱」を「擦(さつ)」と言う全国で5例のみ。
①明王院(福山) ②最勝院(弘前) ③羽黒山(山縣) ④海住山寺(京都) ⑤宮島五重塔
柱上部には金欄巻(きんらんまき)と言う装飾絵あり、下を朱漆柱として1本づつ寄付者の名がある



地・・大地・地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質。
水・・流動的な性質、変化に対して適応する性質。
火・・力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表す。
風・・成長、拡大、自由を表す。
空・・虚空とも訳される。仏教の思想
五大を表している、
五大・・・宇宙(あらゆる世界)を構成しているとする
      五つの要素の事
日本三大名塔
①法隆寺五重塔 ②醍醐寺五重塔 ③瑠璃光寺五重塔


日本に現存する「国宝」「重要文化財」の五重塔(屋外建立)は総数で22塔ある。   巻末資料参照
国宝 9塔・・・・・屋内にある小塔を含めると11塔
重要文化財 13塔・・・屋内にある小塔を含めると14塔
小塔を含めた数では、総数25塔ある


室町時代の創建と言われる五重塔は、戦国時代に大規模な修理が行われた。初重(しょじゅう、1階部分)には釈迦如来像が安置され
周囲の板壁には空海(弘法大師)など真言宗において重要な8人の僧侶の画像が取り付けられ、また16本の柱には朱色の色彩が施され、
釈迦三尊像と朱柱の寄進者の名前が黒色文字で記されている。

初重柱銘については以下の通り
① 応永14年(1407年)7月創建、 文政8男(1825年)成立の「芸藩通史」、巻十五に記載
➁ 天文2年(1533年)3月九輪(くりん 相輪そうりん の事)の再興そして、檜皮による屋根
   の葺き替え藤原興藤(大永3年4月・1523年~藤原広就(天文10年4月・1541年)の時代

五十の塔初重の16本の、朱柱に黒い文字。
 釈迦三尊像の寄進者名。慶応4年(1868年 明治元年)神仏分離により大願寺に移される。

四枚の板扉の両脇の壁に2枚づつ計8枚の真言八祖図(シンゴンハッソズ、空海を含む)
 8人の僧侶の背景には瀟湘八景図(ショウソウハッケズ、禅宗絵画の定番)
 釈迦三尊像の本尊奥の壁壁面には白衣観音図(ビャクエカンノンズ)が描かれている。

柱の寄進者は16名の者で14名は女性・女人往生(ニョニンオウジョウ)の強い願望のもと
 女性信仰の高まりの表れ。女性は、社家(シャケ)、厳島島内の有力町民(町衆)
 廿日市の町衆(商人・職人)、社領衆(神主家の一族や家臣)

大変珍しい、五重塔を修復している写真です。私も初めて見ました



3月17日 桜尾城  3月18日厳島神社参詣、19日岩国
豊国神社(通称 千畳閣)  (重要文化財) 明治5年から千畳閣、以前は大経堂と言い、この辺りは「宮崎」と呼ばれていた
「豊国神社」は秀吉の神号(神としての名前)の豊国大明神からきている。     ようほえけい
桁行41m、梁間22m、単層本瓦葺入り母屋 木造の大径堂  安国寺恵瓊=瑶甫恵瓊が正式名
1587年(天正15)、豊臣秀吉が島津攻めの途中、厳島に参詣し将兵の戦没者供養の為、
月に一度、千部教の転読供養(読誦)をする為に大径堂を建てる様、発願し、毛利輝元の使僧
安国寺恵瓊(えけい、此の時は造営奉行)に命じ、その費用1万石を与え(今の10億円に相当する)
建てさせるが、11年後1598年8月18日、秀吉公の死(伏見城にて死去)により未完成のまま現在に至る。
(1592年文禄の役 1597年慶長の役 秀吉朝鮮出兵).
入り母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことが出来、完成していれば、金箔瓦に見られるように
豪華な桃山文化を取り入れた大径堂になっていたと思われる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)
明治8年に大鳥居が再建された時に使われた、尺杖(しゃくつえ)があり、長さ16mあり「華表尺度」
と書かれている。この「華表」は大鳥居を表している。16mは大鳥居と同じ高さである。工事の際に、
おやつ代わりに餅をつき、きな粉をまぶしたものを「太閤の力餅」といって宮島の名物でもありました。
明治維新の神仏分離までは、ご本尊が釈迦如来像で脇士に阿難尊者と摩詞迦葉尊者が祀られていましたが、
大願寺に遷されています、現在は秀吉と加藤清正が祀られ、豊国神社となっています。
(明治5年4月に秀吉を祀り豊国神社に改める、厳島神社の末社となる)、内部には絵馬が掲げられています、
絵馬は明治33年の台風災害に遭うまでは祓殿や廻廊に掲げてありましたが、流失(33枚の扁額)や損壊の
被害を受けた為、翌年(明治34年)、千畳閣に移されました。流出は8月19日の事
厳島神社、春日大社、成田山新勝寺(千葉県)と並んで日本三大絵馬場所とされているが、   119本の柱がある
正しくは質・量・共に日本一です(170個の絵馬がある)   当初柱94本、その内
廻り縁の床は上下2段に縁板があり「二重廻縁」になっており、全国でも珍しいものである   大正6年18本根継柱
安国寺恵瓊は、毛利元就によって攻め滅ぼされた安芸国守護武田信重の遺児で、   楠24本 杉31本
毛利家・豊臣家の外交僧として活躍した。秀吉からは、九州征伐後に伊予6万石の大名に   栂(つが)39本
抜擢された人です。 安芸安国寺(不動院)の安国寺から取っている   大正年間交換柱22本
  材は檜木
国内の仏堂では唯一床下通路がある
中の神社の祭殿の横にある、2本の大きな柱は他の柱に比べ「キズ」が多く付いている、これは昔、戦争に行く人達が
「戦勝祈願」のため杓子に願い事を書き、柱に打ち付けたために付いた傷で、昔の「写真」にも残っている。
手前の大きな二本の柱には「天保15年」と読み取れる、落書きがある(現在では落書きは不許)
ここが本来なら入り口になるであろうという場所の近くの柱を見ると判るが、色は塗っていない為、
年輪と年輪の間が腐食(風化)している、これは100年で3ミリ腐食(風化)していくといわれている。床板を見ると、
「埋め木」が数多く見られる、これはこの場所が広い為昔からいろいろなことに使用されたことを物語っている。
廻縁の床は上下2段に縁板が敷いてある「二重廻縁」で、全国でも珍しいものである
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、千畳閣は400年前の建物なので柱下をよく見ると
1センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。明治の神仏分離令により、仏を取り払い「神」を取り入れた。
     こぶしばな 38
祭壇の横を見ると、横木は「ぞうの形」に成形してある、(木鼻・掛鼻・拳鼻)、
横木は頭貫(かしらぬき)とも虹梁(こうりょう)とも言う明治5年以降、堂内の仏像は大願寺
へ移され又、木鼻2個が切り取られたことが、(右側の2つの木鼻のうち、1つの木鼻が基の位置に戻された)、
明治24年1月24日(1892)銘の墨書板に書かれている。
三つの船の舳先があるが、これは「居管絃際(いかんげんさい)」のときに使用する
昭和5・16・35・54・62年に居管絃祭が行われている(旧暦の6月には2回の閏月がある)
屋根瓦(軒丸瓦のきまるかわら)の「丸王」の金箔が張ってあるものである。 桃山時代の建物である
伏見の桃山城や聚楽第(じゅらくてい)は軒瓦に金箔を押して飾ったと伝えられる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)。
豊国神社の軒丸瓦の模様のある所には金箔を押した痕跡があった。これに基づいて昭和60年(1985年30年前)
からの、修理工事では「金箔押しの軒瓦」が復元された。「王」の字が配せられているが、「国」の字の図案化
したものと聞いている。平瓦には桐葉の紋章あり、丸瓦を貫ける鉄釘の長さ1尺5寸(約45cm)あり。
鬼瓦には、天正17年(1589)の刻銘が読み取れる。(2年後の1591年に屋根が載っている)
424年前 1587年から4年後にあたる
昭和60年(1985年)からの修理工事で金箔押しの軒瓦が復元、平成元年(1988年)屋根修理工事が竣工し、軒丸瓦
が金箔瓦となる(3年後)
大径堂」「千畳敷
」と呼ばれる
③ 明治5年4月から「千畳閣」と称す
④ 明治43年特別保護建築物に指定され「豊国神社本殿」と称す


秀吉の造った経済都市
秀吉の行った最大の事業は、貨幣経済(又は流通経済)について徹底的な合理化を行った事
国内の重要な商品(米・木材)の市を「大阪」に置いた。あらゆる重要商品の取引は大阪で行わなければならなかった。
大阪せ「相場」が立ち、それが全国の値段になった。 日本最南端の米も、最北端の米も「大阪」に運ばれ相場が立ち
再び全国に配られた。その為「海運業」が発展した。
この様に、秀吉は全国経済の唯一つの「核」を大阪に沖事によって日本中を支配した。

例として、九州「島津」をあげると、
九州全州を支配していた「島津」を秀吉は全力を挙げて討つ。
やり方は相手の息の根を止めるのではなく、あくまで「戦争」を外交の手段として使い、相手に致命傷をおわせる事無く
戦争終結させる「名人」であった。
島津を元の領地(鹿児島)に閉じ込めてしまうが、島津は秀吉を恨まなかった。なぜか
島津は実は経済的に困っていた、大きく膨張した家臣団たちを、鹿児島一つで、養うのは無理であった為。
秀吉の、奉行の一人「石田三成」が島津に対する事務的な終戦処理をおこなった。
内容は「財政思想を転換すれば、小さな領土でもやっていけます」と言って、大きな方法と、小さな方法を教える。
大きな方法
   米等の重要な商品は、領内での消費分を除くすべてを、大阪の市場に運んで現金化する

小さな方法

   帳簿の作り方。近代的な簿記の様に精密なものではなかったが、その祖形とも言うべき帳簿思想を島津に教える

吉の城造りにおいて、完成後にはそこには、城下町が出来ていた。
作事人には、当時としては珍しい、「銭」によって労働の対価を支払った。すると、そこには店が出来、店が出来ると
更に人が集まり、商人が集まり、町が出来上がっていた。

城の構造の基礎は「石垣」であり、石垣をさまざまにめぐらす事で外郭を作り出す。
この外郭は当時(1600年代秀吉の時代)の建築用語で「惣構(そうがまえ)」と呼ばれた
当時は、土木の事を「普請(ふしん)」と言い、建築の事を「作事(さくじ)」と言った。
土木技術の方が建築よりも高度とされた。
当時の秀吉は「土木家」と言われて良いほどに十分な経験を持っていた
「大阪城」のマスタープランは「秀吉」が作った。なお秀吉の政権が誕生したのは1582年である。

大元公園 モミの原生林  弥山の登山コース  厳島八景の一つ  大元桜花

大元神社 重要文化財 ・摂社 ・三間社流れ造り ・板葺、
本殿の玉殿は嘉吉3年(1443)の造立、本殿は大永3年(1523年)の再建
ご祭神は、国常立尊、大山祗尊、保食神(うけもちのかみ)などで3神で、厳島神社よりも一番古くからお祀り
している神社。(地主神と言われている)。屋根は杮葺(こけらぶき)で大変珍しい、六枚重三段葺「大元葺」
と呼ばれている。壇葺・・・杮板の屋根面に木の桟が打たれ壇葺になっている
中世の絵巻物の中でしか見られないもので、現存する唯一の建物である。
毎年1月20日、百手祭が行われ、神餞(しんせん)は古い形式を残し、熟餞(じゅくせん)である餝飯(ほうはん)を
お供えします。百手祭の中で「鬼射」がおこなわれ、終わると直会(なおらい)がおこなわれる、「直会」に
「餝飯ホウハン」を食べる。流鏑馬神事が行われる。厳島八景の一つ「大元桜花」として、名所になっていた所
御島巡りを無事成就したお礼に、大元神社に額「報賽額(ほうさいがく)」を奉納する慣わしがある。
大元神社の奥にはあせ山(血山)があった。他にも不動堂の山側にあった。厳島服忌令が発布される
1684年江戸幕府による「服忌令」が発布、26年後の1710年には「厳島服忌令」が発布される(喪に関する法令)
1710年2月 江戸服忌令あり



宮島歴史民俗資料館(旧江上家住宅) 国指定登録文化財
江上家は醤油の醸造販売を営み、幕末には島内でも並ぶ者がないほどの豪商で
あったとされる。厳島神社廻廊の出口の石橋や、もと国民宿舎みやじまの杜の宿前
の石灯籠は江上家の寄進によるものである。
主屋は1840年代に建てられたと言われている、江戸時代の特徴ある宮島の民家
の姿をよく伝えている。(170年前の建物)
二位の尼像、色楊枝 誓真が作った「杓子」
江上家の「玄関・旧台所」にも、台所の天井に「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法

粟島神社 末社
滝小路にあり、商業・醸造・医薬の守護神で、諸々の病気平癒・家内安全の神です
男神ですが、女性の守護神で特に安産の神として信仰が篤く、5月3日に例会が行われる
御祭神は「少彦名命すくなひこなのみこと」で安産、家内安全で、女性の信仰が
篤い神社。例祭は5月3日で参拝客が絶えない。
神社裏から大聖院に至る白糸川に沿う、滝町は宮島で最も早く家が建ったと
言われ、石垣のある道路の山側には神社に仕える神職の屋敷や寺院が並んで
いた。上卿屋敷など


上卿屋敷 国指定重要文化財建造物 入母屋造 江戸時代の神職の屋敷 鹿戸
上卿は棚守、祝師(ものもうし)などとともに、厳島神社を司る主要な神職の一人であった
石段を上がると表門があり、このもんの形式を「薬医門やくいもん」と呼ぶ、門に打ち付けられた
祈祷札から17世紀元禄期に建てられたことが判る。この庭は江戸時代中期の
「池泉鑑賞式」の庭園と云われ、広島県内の名園の一つに数えられている。

元禄16年(1703)頃建てられたもの、
昭和48年宮島町は林家住宅を「町文化財」に指定。
昭和53年1月21日に敷地と共に国の重要文化財に指定
昭和58年に復元整備が完成する
がんぶりがわら
屋根は桟瓦葺である、棟は瓦を積み上げないで、大きな「雁振瓦」
を伏せてあるだけである。かつては宮島の民家ではよく見られた
棟工法であったが、今ではほとんど見ることは出来ない。
入母屋の中の妻飾りは「扠首(さす)」と「扠首束(さすずか)」である。
民家でこれを設ける事は珍しい。(神職の屋敷であるからかも知れない)
懸魚は「切懸魚」で寺社のものとは違っている。
玄関上には千鳥破風があり、懸魚は「蔐懸魚(かぶらげぎょ)」である
鰭(ひれ)はかなり込み入った若葉の絵菜の彫刻で「室町時代末期」の風格がある。
台所の天井には「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法
江上家の「玄関・旧台所」にも見ることが出来る

宝蔵 重要文化財 寄棟造 桧皮葺
校倉造りの建物、当初から「神庫」と称して神社に奉納された宝物を収蔵していた。日本で31棟ある(国宝11棟)
校倉造りの巧みな防湿効果によって宝物を守ってきた、壁を形成する「校木」は外気の乾湿の度合いによって、
その重ね目が開閉する、こうして内部の空気の流れを良くし、湿気を防いできたのである。東大寺の正倉院と同じ
1168年には既に出来ていた(平家納経は1164年に奉納されている)その他、多くの美術工芸品などの宝物
は、平安期以来800年間この中に大切に保存されていた。
昭和40年に厳島神社収蔵庫が出来るまでは、国宝「平家納経」をはじめとする、数多くの珍宝の類がこの中に
厳重に管理されていた。江戸時代には前面に「拝見所」が設けられ、参拝者が宝物を拝観していた。
7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
また、この日が夏市の最終日であった
校倉造 現在日本では31棟ある その内「国宝の校倉造は11棟」ある、
奈良時代はこうそう(校倉)と呼ばれていたが、やがて訓読みで「あぜくら」となる

正倉院(756年6月21日建立)、今から約1260年前
100年ぶりとなる大修理が平成26年10月に終わる(3年2ヶ月かかる)。瓦35、000枚の内、8世紀の
瓦が843枚残っていた。その内状態の良い瓦279枚はそのまま使用する。

「校倉造り」
湿度により壁が伸縮し、内部の湿度を保つと言われているが、近年は「実際には伸縮しない」との説は一般的だ。
しかし、今回の修理で梅雨時に埋めた壁の隙間が、秋には開いているのが確認された。
「1200年以上たっても木は生きている」、定説の復権につながると思われる・
宝蔵
室町時代初期(14世紀ごろ)の造営と思われ,
天正16年(1588)に毛利輝元が,慶長15年(1610)に福島正則が修理している。
昭和9年(1934)に現在の宝物館(登録有形文化財)ができるまで,
国宝平家納経をはじめとする神社の宝物が収蔵されていた。

校倉造 現在日本では31棟ある その内「国宝の校倉造は11棟」ある、
奈良時代はこうそう(校倉)と呼ばれていたが、やがて訓読みで「あぜくら」となる
「校倉造り31」の時代別内訳は以下の通り
奈良時代  7棟 室町時代  5棟 また31棟のうち 13棟が不等辺六角形。  
平安時代  2棟 桃山時代  3棟 18棟が不等辺五角形 となっている
鎌倉時代  2棟  江戸時代  12棟
鎌倉時代は六角形で(厚さが薄く)、
室町時代になると五角形で(厚さよりも高さが高くなる)
厳島の宝蔵は、五角形の断面をした木材を組み合わせた校倉(あぜくら)としては最古の建物であ
藩主や幕府の巡見使などの来島社参に際しても「宝蔵」の宝物拝観が定例化していた
長崎奉行は任地への往路・復路で厳島に来島し、社参・宝物拝観をする事が慣わしと成っていた。
元禄10年(1697年)7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
明治30年(1897年) 現在の社務所付近に「宝物陳列館」が建設される
昭和9年(1965年)には現在の宝物館が竣工する
昭和40年(1934年))には厳島神社収蔵庫が完成、宝蔵にあった物が移される

三翁神社 摂社
一間社流造の桧皮葺、 桃山時代の様式を持った本殿三社が並び、
入り口には宮島で唯一の銅製の明神鳥居
平安時代清盛が、比叡山延暦寺の鎮守の山王社(日枝神社)から勧請したと伝えられている
当初の祭神は、佐伯の翁・岩木の翁・所の翁であったと伝えられている。
祭礼は毎年10月23日で祭典中に舞楽が奉奏される(舞楽を見ることの出来る陸上の神社)。この場所は
昔「坂本」と呼ばれていて、比叡山の山の麓「坂本の山王」「明治以前は、山王社といわれていました」を
勧請したといわれています。江戸時代には傍らに常設の芝居小屋があり、大変賑わっていました。常設になる
のは元禄期からと云われ、「御垣ヶ原(みがきがはら)」と呼ばれていた神社裏にあった。大芝居と称した歌舞伎
ばかりでなく、曲芸や人形浄瑠璃などの演じられ、神社にちなみ「明神座」と呼ばれていた
ご祭神は以下のとおり

中央 佐伯鞍職、所翁(ところのおきな)、岩木翁、安徳天皇、二位の尼、
大綿津見命(だいわたつみのみこと) (いわのきのおきな)、
左殿 大巳貴命(おおなむちのみこと)、猿田彦神(瓊瓊杵尊が天孫降臨した時、道案内した神様)
(向かって右)
右殿 竹林内侍(たけばやしないし)、徳寿内侍(とくじゅないし)  御子内侍(みこないし)
(向かって左) 上﨟順では
1番竹林内侍 2番徳寿内侍 3番御子内侍 となる

内侍の中では一番トップの内侍である
現在の久保町(神社を出て左側の商店がある、白糸川が紅葉谷川と合流しているあたりの裏通り辺りを言う)に①竹林内侍 ➁御子内侍 の住まいがあった

                             ここに平清盛の御霊が祀っててあった・・・今は清盛神社に祀ってある。
話は戻り
この辺りは島内では数少ない平地で「御垣ヶ原」と呼ばれていた
宮島歌舞伎は江戸時代の中期には既に歌舞伎芝居として行われていた.富くじもあり
1682年刊行の、井原西鶴の「好色一代男」に宮島への旅興行の歌舞伎芝居が載っている事から江戸時代の中期には
歌舞伎芝居が行われていた。6月の夏市(管弦際)の宮島芝居は好評を博し、1825年(文政8年)には、全国の芝居を
番付けにした,「諸国芝居繁盛数望(くにぐにしばいはんじょうすもう)」では前頭5枚目に位置づけられていた。
こうして宮島は歌舞伎・浄瑠璃のみならず、瀬戸内海西部地域の芸能文化の中心地の役割を果たしていた。
義太夫の創始者で初代竹本義太夫もここ宮島の小屋で芸道精進したと言われている。
1800年代からの触れ込み番付口上錦絵には、来援俳優の名前があり
天保6年(1835年)市川海老蔵、天保12年(1841年)尾上(おのえ)菊五郎などが来援公演していた。
特に市川海老蔵はたびたび来演し
七代目 市川海老蔵 8代目 団十郎は神社の永代常夜灯を奉納している
千畳閣にはその奉納額が掲げられている。
「厳島絵馬鑑(天保3年1832年刊行)に、初代及び二世の市川団十郎の芝居絵(元禄17年)が
「俳優竹抜五郎の図」として回廊に掲げられていたとあり、これを市川海老蔵が見たと記されている


1682年刊行の、井原西鶴の「好色一代男」に宮島への旅興行の歌舞伎芝居が載っている事
から江戸時代の中期には歌舞伎芝居が行われていた。
6月の夏市(管弦際)の宮島芝居は好評を博し、1825年(文政8年)には、全国の芝居を番付けにした
「諸国芝居繁盛数望(くにぐにしばいはんじょうすもう)」では前頭5枚目に位置づけられていた。
こうして宮島は歌舞伎のみならず瀬戸内西部地区の芸能文化の中心の役割を果たしていた。

反り橋を過ぎた辺りは、昔「お花畑」と呼ばれ、桜の名所であった。


素戔鳴尊(厄払い)
大国主命(縁結び)
少彦名命(病気・平癒)
猿田彦神(交通安全)

春市(桃花祭)  3月1日~4月8日 39日間
夏市(管弦祭)  6月10日~7月7日 27日間
秋市(菊花祭)  9月10日~9月30日 20日間

寛永9年(1632年)の春市において
浅野藩主が、羅紗(厚手の毛織物)、砂糖、虎の皮、などを買い上げている。
当時これらは日本では生産出来ないものばかり、つまり外国の貿易品が流通する程、
宮島では商業が盛んであった



現在の社務所辺りは、昔「明神座」があった所で厳島大明神にちなんで名付けられた。
琴平・出雲・宮島、が西の三大歌舞伎で 宮島で500両、琴平で500両、取って千両役者と言う・・・・・説がある

三季の祭り、 春(桃花祭)、 夏(管絃祭)、 秋(菊花祭)は 祭礼市を継承するもので
羅紗(らしゃ)、虎革(こひ)、繻珍(しちん)、白紗綾(しろさや)、白砂糖等、江戸時代の初期、
船載品が売買されており、鎖国以前には貿易市場となっていた。

宮島奉行所跡   寛永12年(1635)、広島浅野藩は宮島に奉行所を置き、明治維新まで町方として支配した


現在の五重塔の山側前にある大きな古民家があるあたりにあった。
浅野藩の支配は①町と在(ざい)郡村農村(年貢徴収)②浦方(海辺島の郡村、船奉行の配下・船を動かす)
に区別、町政は①広島城下 ②三原 ③尾道 ④宮島の4町  宮島奉行は38名が在任する
(1635―1868年、233年間)

幸神社 厳島神社末社道祖神社   午王社(ごおうしゃ)・・・かっての名前
ご祭神は猿田彦神で道祖神、町も幸町と言い、かつては神社の前の通りに金鳥居があったと言い伝えられ、
「芸洲厳島図会」にその絵が書かれている。 (新暦9月12日)
例祭は旧暦の8月15日である。この日は「ススキ」と「萩」が配られ、神社の中を見ることが出来ます。
神社の裏には「陰陽石・・陰石(女石)  陽石(男石)」があり、道祖神のご神体と云われ道祖神社とも
呼ばれています。子宝の神、疫病や火難・水難を封じる神、日々の幸いをもたらす神,として大切に崇め
られている。導きの神、旅の神、安産子宝、夫婦和合の神(縁結びの神とも言われる)、
鳥居の横には、往来安全・碑(石灯籠)が在り、「往来安全」「天保二(1831)年辛卯(かのと・う)三月吉日」
と書かれている。 (180年前)
一間社流造の本殿と拝殿・幣殿があり、また石造りの四脚鳥居がある、石の玉垣を前面に造っている、
その石段を降りた所に未完成の鉄鳥居(金鳥居?)がある。昔はこの辺りに辻君(立君)がいたと伝えられている。
入り口に明治30年(1896)の石鳥居あり、「芸洲厳島図会」にも同一場所に見ることが出来るが、
笠木の屋根の部分が桧皮葺の様に見えるので、当時は木造の鳥居であったと推測される。
前には「往来安全」と記す「天保2年(1831)」銘の石灯籠1基ある、厳島図会にはこの場所には石灯籠は
描かれていないので他の地点から移動してきている。厳島図会発行は天保13年1842年)
玉垣(天保6年1835年)銘あるが、これも厳島図会には描かれていないので他よりもってきている。

金鳥居(かなとりい)
高さ5丈(15m)、鉄にて、回り8尺(2.4m)、神前より3町(327m)御王前(ごおうまえ)と言う所にあり、
即ち金鳥居の町と云う1800年には幸神社

宮島「幸神社」の中には、木造りの向かって右に「角のない獅子で口を開けた阿形」
「左には角のある狛犬で吽形」,木造りの獅子・狛犬を一対、本殿「大床」に置いて御扉を守るのは、
平安時代の伝統をふまえたものである。
宮島遊郭跡   神社本殿では廻縁の事を「大床」と言う
桟橋前の「潜龍門(センリュウモン)」の入り口辺りに大門があったと伝えられている。
江戸中期の全国遊郭番付けには前頭3枚目にランクされるなど広くその名が知られていた。










































































































知りたい宮島21 是非行きたい店 

2024年02月07日 17時12分56秒 | 貴方の知らない宮島
このブログはかなり詳しく「厳島神社」について、ご紹介しています、いつも、穴子飯の美味しいお店はどこですか、とか、美味しい紅葉饅頭店はどこですかと聞かれます、お勧めのお店を紹介します 
今回は宮島に来たら是非行って見たい店を挙げてみました

お宿と喫茶 藤のや   ☎080-1926-5368   宮島町中江町334-7  
清潔感いっぱいのお店。小柄でキュートな女性オーナーはコーヒーを入れる達人で、
アドバンスコーヒマイスターより上の最高の資格サーティフアイドを持っています。
さらに、コーヒーカップも自分の好みのカップを選ぶことが出来ます
驚くことに、廿日市市公認の宮島観光ガイドの資格も持っておられ、
更に女性で唯一の宮島検定最高のプラチナ資格取得済み。初めて宮島を
訪れる方は、いろいろな、ガイド本に記載されていない事が聞けていいかも。
庭も趣のある庭になっています。 宿泊は女性限定ですよ
*泊って良かった宿大賞広島県一位受賞(2019年50室以下部門)を獲得

だいこん屋  ☎ 0829-44-2161  廿日市市宮島町461-1
もみじ饅頭のお店で、商店街(表参道商店街)の出口にあり、先代大根屋芳右エ門
はこの島に大きな足跡を残した人物でもあります
女性ばかり(美人ぞろい?)のお店で、観光ガイドもできる店員さんばかりです,
さらに、紅葉饅頭も試食をして解る美味しさ(試食したいと言えばOK)、一度食べてみたら!
二階は団体さん向けの食事をする所となっています
時々、小学生の可愛い女の子(社長の子供)が店に出ていることがありますよ。
店の中庭には、数百万円はする「鯉」が泳いでいます。松の「盆栽」も素晴らしい
ので(これも高価?らしい)、店に入ったら一度は鑑賞してみたら。お薦めします。



➂ 鳥居屋  ☎ 0829-44-2200  廿日市市宮島町大町1144
観光ガイドもできる店員さんがいるお店。
宮島の事を知り尽くした人生経験豊富な店員さんが迎えてくれるます。
修学旅行の生徒さんには人気の店で、団体旅行の方々の食事もできます。
社長は、廿日市市議で現在市議会議長をしている、優しい社長です。

➃ 山村茶屋    ☎0829-44-0274  宮島町・藤の棚公園内
島内で、穴子どんぶり、が一番安くて美味しいお店
女性二人で頑張っているお店 藤棚に藤が咲いた時期は一番きれい(4月~5月)
公園の下は、観光客誰もが一度は訪れる、紅葉谷公園の一番綺麗な場所(紅葉は11月が最高です)

➄ 割烹ふじたや  ☎0829-44-0151  宮島町125-2
穴子専門店で美味しいあなご飯をたべるならこの店。厳島神社出口からすぐの所
ミシュラン1つ星を獲得した唯一のお店です。11時からの開店ですが早くいかないと
なかなか食事にありつけないですよ。 穴子飯は「暖かいのが一番」冷めたら美味しくないです。
 
➅ 牡蛎祝  ☎0829-44-2747  宮島町大町422
表参道商店街の「牡蛎屋(牡蛎は最高です)」の姉妹店、一休みする店
この店のガラス越しに見る五重塔・千畳閣の眺めは最高です。横の小路を下ると、
平山郁夫画伯も描いた、素晴らしい景色(五重塔・千畳閣)を見る事が出来る


➆ 宮島ビール  ☎0829-40-2607  宮島町459-2
宮島の天然水を使用、やわらかい口当たりが特徴のオリジナルビールです。
二階・三階からの、最高の景色を見ながらのビールは最高です。
宿泊ホテルでビールを注文すると、宮島ビールが出てまいります
ビルにはスターバックスコーヒーも入っており、表通りと裏通りは通り抜けができます

➇ etto宮島交流センター  ☎0829-44-2005  宮島町412
公民館としての「暮らす人」の為の機能と、展望室や休憩場所などの「訪れる人」の
為の観光機能を道を通じて共存。宮島の町の一部のような、町民と観光客両方から永く愛される
施設となることを目指しています。
ここの3階にエレベーターで昇ると、五重塔・千畳閣が一望できる展望所があります。
入口に「大杓子」が展示されています。令和3年に取得した「国の重要伝統的建造物郡」
に指定された、「モニュメント」もあります

⑨ もみじ饅頭の店 七浦堂 ☎0829-44-0408  宮島町541-12
ここの、もみじ饅頭は、餡は「こしあん」のみ、しかしこれが大変美味しい、しかも島内では一番安い「紅葉饅頭」
ご主人も大変、気さくな方なので、一度寄って見られたら。


⑩おもてなしトイレ二階  ☎0829-51-1122  宮島町536-1
新しく宮島に出来たトイレです。来島者が多い割りにトイレが少ないとの苦情が多かったので新設しました。
一階は観光案内所で二階には休憩所、及び宮島の情報発信場所となっています。置いてあるだけと言う大鳥居の構造がよく解る
大きな模型が設置されています。建物の隣には「郵便局」があり、正面前には「明治時代の郵便ポスト」(再現したボックスで真っ黒です)が設置されています。当時の郵便ポストは黒色でした、珍しいので一度見て見られては。


⑪ 御茶処 沖みつ  ☎0829-44-0720  宮島町319-4  10:00~16:30
築100年のお店で、宮島観光協会の女性のおすすめのお店
わらび餅」は絶品だそうです。店の前を進むと、紅葉谷公園に行きます 静かな場所にあり、くつろげる場所です




まだありますが、今回はとりあえずこれだけです。






















知りたい宮島 7 宝物館

2024年01月22日 16時00分28秒 | 貴方の知らない宮島
宝物館
昭和9年(1934年)建造、鉄筋コンクリート平屋造り、大江新太郎氏の設計によるものです。
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。
 
明治30年、古社寺保存法(後の国宝保存法、昭和4年)が制定される
明治32年、岡倉天心、フェノロサなどが来島、神社・大願寺などの宝物・仏像の調査が行われる
        「平家納経」は国宝に指定される。

       フェノロサ・・・・ハーバード哲学科学、アメリカ東洋美術史家、東大から東洋美術学校設立に参画す   
       大鳥居・五重塔・多宝塔などの神社の重要な建物が「特別保護建造物」に指定され、それぞれの建物は
       綿密な調査を基に創建時の姿に復元する工事が始まり、明治の初めに改造されていた、本社の
       「千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)」も取り除かれ、廻廊・祓殿の絵馬は千畳閣へ移される
       その他、刀剣・甲冑・舞楽面・能衣装などが、相次いで国宝になった。
       その為、宮島は「文化財の宝庫」と呼ばれるようになった。

入り口にある「厳島宝物館」と記した額は、明治38年、「九鬼隆一」の筆によるものである。

九鬼隆一・・・・・文部官僚として重職を歴任、「文部の九鬼か、九鬼の文部か」と言われる程の人物。
          貴族院議員も務めた男爵で枢密院顧問となっている。
          大鳥居近くにある、日清戦争時の戦勝記念日の文字も九鬼隆一が書いている。
入口横には、昭和26年に根継ぎをした、大鳥居の主柱を切り取ったものが展示してあります。周囲が約10mある楠です。


大鳥居の根継ぎが終わった後の、切り離した古い柱の塊、これをスライスした物が宝物館前に展示してある
平家納経33巻」・・・・長寛2年(1164年)に清盛が作った「願文」によると、願文には「平家納経を本殿に安置する」
              とあるので、清盛による厳島神社の造営は、「太政大臣」に任官する前までには完了していた
              と思われる。


「平家納経」は33巻からなるが、その大半は大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の経典の一つ「法華経」から成る
なぜ法華経信仰が貴族の信仰をあつめたのか?
* 法華経は全8巻28の詳説からなり、それをただ受け入れ読むだけで、功徳があると考えられていた。
更に「提婆達多品」では当時、罪深い存在と考えられていた女性も成仏できると説きこれが宮廷の女房ら、
女性から信仰も集める事になった。こうした法華経信仰に加え更に拍車をかけたのが「末法思想」の流行である。
釈迦の入滅後2000年後に仏法が衰退し争乱の時代が訪れるという思想で、承久7年(1052年)が入末法の年にあたる
と考えられていた。その為人々は末法の世の到来を恐れ、ひたすら極楽浄土への往生を願うようになった。
そして宮廷の貴族の間に「写経」が流行していった。
これは法華経の「法師品(ほっしぼん)」の中で「経文を写経すればくどくが増す」と書かれていた為で、貴族らは
仏の加護を得、極楽浄土への往生をひたすら願って「写経」に励んだのである。
やがて経文を写すだけでなく、華美な装飾を施した経巻を作れば一層の加護を得ることが出来ると言う信仰が
貴族らの間に生まれ、自らの財力をかけて経文に「美」を尽くすようになる。
これが「法華経」信仰への結びつき、更なる装飾、趣向を凝らしたものへと発展した。
* 一人一人が死後の極楽浄土への往生を願い、仏と縁を結んだ。 これを「結縁(けちえん)」と言い
この結縁の媒介となる「平家納経」の様な写経を「結縁経(けちえんきょう)」と言う
* 写経の文字は「金泥」「銀泥」「群青(ぐんじょう)」「緑青(ろくしょう)」の四色が使用されている。

* 長寛2年(1164)に清盛自身が作った願文によると、願文には「平家納経を本殿に安置する」とあるので、
清盛による、厳島神社の造営は「太政大臣」に任官(1167年)する前までに完了していたと思われる
(1164年9月には結縁32人揃って厳島に詣で、神社の十一面観音菩薩像の前に奉納する。
 翌67年(仁安2年)2月に太政大臣となり、般若心経を自筆で書き「奉納」している。)
仁安3年(1168年) 本殿造営

国宝・・・・・・・・古神宝類(後白河法皇や高倉上皇などが本社・客神社の神物として奉献されたものの一部)
及び松喰鶴蒔絵小唐櫃(まつくいつるまきえからびつ)佐伯景弘の奉納したもの
国宝・・・・・・・・・甲冑(小桜韋黄返威鎧・兜 こざくらきかえしおどしよろい) 源 為朝所用のもの。平安期のもの
紺糸威鎧(平重盛寄進)、 浅黄綾威鎧(あさぎあや)源 義家の甲冑
*一つの鎧を作るには約2000枚の木札(こざね)が必要である、この練皮を完全に干すには、夏からは
   195日、冬には265日の日数を要した。あらゆる部分を念入りに拵えるとすれば、2年近く要した
国宝・・・・・・・・工芸、金銀荘雲竜文銅製経箱(きんぎんそううんりゅうもんどうせいきょうばこ)平家納経を納める3段箱
彩絵檜扇(さいえひおうぎ)、  蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ)福島政則奉納
国宝/・・・・・・・刀剣   友成作(平安時代)、古備前派を代表する刀工の一人
能面  面が約 130点伝世している    狂言面 約20種 32点の面が伝世している
堤婆達多品」・・・・・・・女人成仏を説く
宝物館前(宝物収蔵庫前)には三十万円並びに御翠簾(すだれ)及び石灯籠、青銅製灯篭一基と刻銘された石灯篭がある

長沢蘆雪・・・・・・・・・・・丸山応挙に学び、応挙門下の俊才と云われた
              「山姥図」は寛政9年(1797年)広島の富士屋喜兵衛など、10人によって奉納された
              国の「重要文化財」に指定されている。

小林千古・・・・・・・・・・・明治3年、佐伯郡地御前村(現・廿日市市地御前)に生まれる、本名小林花吉
              18歳の時に多くの移民と共にアメリカに渡りカルフォルニヤで美術学校を卒業する
              更にヨーロッパでは黒田清輝などと親交し、帰国後白馬会に所属、日本洋画壇に鮮烈
              なデビューを飾りながらわずか41歳の若さで病没した。
              当時アメリカにおいては多くの百万長者が現れ「ミレー」風の絵を好んだ、千古もまた
              その様な絵を描くことによって生活がなりたっていた。
              彼の作風はミレーに見られるような「バルビゾン派」風であった。母校の展覧会で得た
              最優等エブリー金牌賞などを土産に、一旦28歳で帰国その後ヨーロッパに渡り、パリ
              ロンドンなどで画業に励むが日本画壇主流からは認められなかった。
              画風が時代の流行に合わなかったと思われる。
              特に代表作の「誘惑」「パッション」などは画題が内面的で難解だった為と言われている。

国宝・・・・・古神宝類(後白河法皇や高倉上皇などが、本社・客神社の神物として奉献された物の一部)
       及び佐伯景弘の奉納した、松喰鶴蒔絵唐櫃(まつくいつるまきえからびつ)
       甲冑、小桜韋黄返威鎧(こざくらかわきかえしおどしよろい) 源為義所有の物で平安期の物
       紺糸威鎧(こんいとおどしよろい) 平重盛の寄進
       浅黄綾威鎧(あさぎあやおどしよろい) 源義家の甲冑と言われている
       藍韋肩赤威鎧(あいかわかたあかおどしよろい) 大内義隆が「太刀・神馬」と供に奉納したもの

工芸  金銀荘雲竜文銅製経箱(きんぎんどうせいきょうばこ)、平家納経を納める経箱
     彩絵檜扇(さいえひおうぎ) 平安時代の物、蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ) 福島正則が奉納

刀剣  太刀・友成作。 友成は古備前派を代表する刀工の一人、「芸州厳島図会」には平宗盛公太刀とある

その他 能面が約130点伝世している。 狂言面 約20種 32点の面が伝世している。

通常は能書の誉れ高い公卿が清書をするのが通例であるが、願文の豊潤な筆至や筆運びの技巧から「清盛」の
技量の高さを知ることが出来る


平家一門32名により「一品経供養」の精神に基づき、一人一巻の写経を作っている(結縁経という)

平家納経
開経 無量義経
第一 序品         第十六 如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)
第二 方便品      第十七 分別功徳品 盛国
第三 謦喩品ひゆほん)     第十八 随喜功徳品
第四 信解品      第十九 法師功徳品 清盛
第五 薬草喩品       第二十 常不軽菩薩品
第六 授記品       第二十一 如来人力品
第七 化城喩品(けじょう)    第二十二 嘱累品
第八 五百弟子授記品     第二十三 薬玉菩薩本事品 盛信
第九 授学無学人記品     第二十四 妙音菩薩品
第十 法師品       第二十五 観世音菩薩普賢品
第十一 見宝塔品     第二十六 陀羅尼品(だらにほん)
第十二 提婆達多品     第二十七 妙荘厳王本事品 重康
第十三 勧持品(かんじ)       第二十八 普賢菩薩勧発品
第十四 安楽行品
第十五 従地涌出品
結経 観普賢経
阿弥陀経 清盛   * 1165年2月 太政大臣に為ったのを記念して奉納
般若心経 清盛  * 1165年2月太政大臣に為ったのを記念して清盛自筆の般若心経を奉納  
願文 清盛   * 他は1164年9月に奉納
する




**のある品は宝物館に展示してあります(但し副本)。願文は別に新語にて壁に表示してあります(3m位離れた所に展示)
なお、清盛が「平家納経」を奉納して以来、438年後の1602年(慶長7年)に新たに広島城主となった、福島正則(ふくしままさのり)がこの
平家納経の修復をしている。
前述の第22の、謦喩品(ひゆほん)と第7の、化城喩品(けじょうゆほん)である。この時の状態はかなり悪く「表紙と見返し絵」は傷みがひどく完全に新しいものに作り替えています
又、願文も以前のものとは違い、後年になって修復された物となっている。
。この時「福島正則」から絵の制作を命じられたのが「俵屋宗達」であった。

俵屋宗達は江戸時代初期の画家。通称は野々村 宗達(ののむら そうたつ)
宗達は尾形光琳と並び称せられる近世初期の大画家

なぜ福島正則は「平家納経」を修繕する等して手厚い保護を行ったのであるか?
考えられるのが、正則は幼少のころから豊臣秀吉の小姓(こしょう)として仕え、」側近として重用されていました。
厳島の詣で、千畳閣(豊国神社)の建立を命じた秀吉の側にいて秀吉同様、厳島を信仰するようになったとも考える事が出来ます。
また、ちょうど正則にとって神仏の加護を期待したい時でもあった事が要因ではないか。
当時、正則は42歳の厄年(やくどし)である。修復と言う徳を積むことで厄除けを行いたいと言う気持ちがあったのではないかと
推測できるかと思います。

*この後 仁安3年(1168年) 社殿の大改築と造営がある。 神主の佐伯景弘
西の松原について 大願寺の「松原」と呼ばれていた。                  経の尾一帯を「西崎」とも読んでいた
古くから砂洲や御手洗川からの堆積物で出来た松原です、清盛神社の裏から先は、昭和20年の枕崎台風での
土石流災害で出た土砂を埋めたてたものです。江戸時代初期までは存在しておらず、大願寺付近は
砂州(さす)になり、「熊毛の洲」と呼ばれていた。
1743年(1739年の土石流の4年後)に広島城下の商人4人によって、50丈(約150m)に及ぶ堤防が築出され
108の石灯籠が作られた。(271年前)       光明院恕信によってこの経緯を記した「大灯籠」が立っている。
天文10年(1541年)470年前土石流 元文4年(1739年)270年前土石流 昭和20年(1945年)9月17日土石流
枕崎台風被害 死者2473名 広島県内行方不明者2000名以上の甚大な被害になる。 対岸 大野町には陸軍病院がありましたが、約150名の方々も行方不明になっています。
200年に一度の割合で土石流が発生している。その土砂を西の松原に埋めている。(清盛神社のある場所)
1541年(約470年前)  1739年(約270年前)  1945年(約68年前) に大きな山津波が起きている
平成17年、白糸川土石流発生、この時の土石は18000㎥(10トンダンプ、1800台分に及ぶ)
清盛神社

西松原にある清盛神社は昭和27年が平清盛没後770年にあたり、その功績にを讃え
昭和29年に創建された。御祭神 平清盛の霊は三翁神社に祀られていたが、
清盛神社に遷された。(清盛奉賛会)毎年3月20日に盛大な清盛祭りをおこなっている。
一間社流造の玉殿の中に、御祭神が祀られている
昭和20年(1945年)9月に来襲した枕崎台風によって御手洗川に大規模な土石流が発生。
新たに堆積した大量の土砂を運んで、西の松原を延長し、有之浦・大元浦が埋め立てられました。
(枕崎台風により死者2473名、県内行方不明者2000人を越える甚大な被害であった)
巌谷一六
清盛神社に行く途中に御手洗川にかかる小さな橋の袂に大きな石柱がある
この石柱の文字は「明治の三筆」と称された、巌谷一六(本名は修)が書いたものである。
巌谷は滋賀県出身の政治家で、明治元年新政府の管使となり、内閣大書記官・貴族議員を歴任する
初めは「中沢雪城」に師事して「菱湖流」を学び、後に揚守敬(ようしゅけい)から六朝書法(りくちょう)
を学び、独自の書風を確立した(魏・晋・唐を極める)。明治38年(1905) 72歳で亡くなる。 明治天皇の書の先生
菱湖流 巻菱湖(まきりょうこ)、幕末の三筆といわれた人、将棋の駒に書かれている文字(タイトル戦に使用される
揚守敬 中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の「楷書体(かいしょたい)」の総称 高級な駒)
中沢雪城 巻菱湖の高弟で、「菱湖四天王の一人」である
現在も書道を目指す人の中には、巌谷一六の書いた文字を手本とする為、「拓本」を取りに来る人もあると言います。

    明治の三筆、とは
日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
中林梧竹(なかばやしごちく)
巌谷一六(いわやいちろく)


ちなみに 平安時代の三筆

空海
嵯峨天皇
橘逸勢(たちばな はやなり)


































知りたい宮島 5 神社 管弦祭

2024年01月22日 15時59分12秒 | 貴方の知らない宮島
いよいよ、厳島神社にまいりますが、ここで神社に少し触れておきましょう、

安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。
諸説ありますが、この島は「」島といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都岐島大明神」「厳島神社」等呼称され、現在は「厳島神社」と呼ばれています。

原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。
創りは「神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、
市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。

伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、
というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。

** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う)
1 秋篠氏 2 大江氏 3 清原氏 4  源氏
5 菅氏  6 高階氏(たかしな) 7 中原  8 平氏


清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、この社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。

安芸守・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である
安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。
日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)
「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される
保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する
国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。地方行政単位である
国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す
当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。
(現在、日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)
当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。神の島と崇められていた為人は住んでおらず、社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。
内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。
内侍については後段で詳しく説明を致します。

全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。

なお仏教建築が混じっているのは、平安時代以降の神仏習合の影響であった、
明治時代以降の神仏分離以降では徹底的に仏教建築が取り壊されており、日光東照宮・厳島神社が往時の仏教建築を多く残す神社の双璧となっています

神社本殿、幣殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔・千畳閣からなる建造物群は6棟が国宝、11棟が国の重要文化財に指定されています。(20棟は明治時代に取り壊しになっています)。
具体的に言うと、東回廊47間・西回廊61間(合計108間)・本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿、客神社本殿・幣殿・ 拝殿・祓殿、朝座屋、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房、火焼前、大国神社、天神社、能舞台、能楽屋、反橋、長橋、揚水橋左右内侍橋などの建造物からなっています。
寝殿造りの場合「客神社」が釣殿(涼をとる場所)にあたるといわれています
入り口左側で「昇殿券」を購入して入ると、右側に「寛文2年(1689年)と記した手水鉢」がありここでお清めを行い、いよいよ東回廊の入り口に入ります、
入り口上部の屋根を見ると、簡素な切妻の屋根となっています。
普通は入り口は立派な構えになっているのですが、これは出口の西の回廊の屋根を見ると解ります、ここの屋根は「唐派風」の立派な構えとなっています。昔はどうやら西の回廊が入り口といわれていた為、と言われています。

現在(令和5年3月)東回廊を入った所の「客神社(まろうどじんじゃ)」を過ぎたあたりから、回廊の檜皮葺の屋根の葺替を行っている為、左右が白いテントで覆われており
ます、既に入口の客神社の屋根の葺替は終わり(令和4男10月)、本殿に向かう回廊の屋根を順番に葺替中です。本殿の「平舞台」から見ると、新旧の屋根の違いがよく解ります。
国宝回廊幅は4メートル、長さは262メートルあり、回廊の柱と柱の間を「一間(ま)」と呼んでおり、入り口から出口までは108間あります(一説には107間とも言いますが、これは内側と外側の違いと言われています)。一間の間には「国宝の回廊板」が8枚敷いてあります、また一間の長さは2,4メートルで昔の尺貫法では8尺になります。八は末広がりとも言われ「縁起の良い数字」と言われている為と思われます。

ここで「国宝の回廊」を土足で歩いても良いの? と思われるかも知れませんが、
よく見ると「国法の回廊」の上に別の板が敷いてあります(養生板といいます)ので土足でも良いのです。
高欄(手すり)から外側に見えるのが、「国宝の回廊」です。昭和47年までは土足厳禁で、入り口で「わらじ」に履き替えて入っていました。この時は職員の方達が出口から「わらじ」を入り口まで運ぶのが大変だったようです。

客神社です、この神社は鎌倉時代(1241年)の再建で、後に更に室町時代永享5年(1433年)に再建されました。
清盛の頃には「客人宮(まろうどのみや)と呼んでいました。」厳島神社本社の摂社にあたり、摂社の中では一番大きく厳島神社の祭典では、 初めに祭典が執行される社です。

御祭神は、天照大神の子供で、五人の男の神様で①「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」、②「天穂日命(あめのほひのみこと)」③「活津彦根命(いきつひこねのみこと)」④「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」⑤「熊野楠樟命(くまのくすびのみこと)」が祀られています。(いつはしらのおおかみ、と呼ぶ)

天忍穂耳命は天照大神の長子で皇族に連なる神様です(更に長子は邇邇芸尊(ににぎのみこと天孫降臨して現在の天皇家の祖神につながる、この時道案内をしたのが猿田彦神です)。
天穂日命農業の神様。菅原道真の祖神にあたる
天津彦根の命は、日の神・雨の神・風の神・火難除神の神として崇拝されています。

「五柱の男神について、素戔嗚尊が天照大神の「髪」に巻いた「玉」をもらい受け噛み砕いて吐き
 出すと息の霧から五柱の男神が現れる。」・・・客神社の5人の男神
「天照大神が素戔嗚尊の剣をもらい、三つに折って「天真名井(あめのまない)」で洗い清めて噛み
 砕いて出すと三柱の女神が現れる。・・・三人の女神

*五柱の大神の、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)は初代天皇の神武天皇の祖神で、
現在の天皇に続く神です。
*三柱の女神の内の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は別名「道主貴(みちぬしのむち)」
と言い、天照大神は別名「大日要貴(おおひるめのむち)」と言い。大国主命は別名で「大己貴神
(おおなむちのかみ)と言い。神名に「貴(むち)」の名前が入いるのはこの三神のみ。

左手一番奥が本殿です、よく見ると本殿の前には御簾(みす)、壁代(かべしろ)と云うが掛けられており、
その奥に御神体を安置する「玉殿」が置かれています、

玉殿の安置されている場所は「内陣」と呼ばれ、朱塗りの階段上の4段目にあります。
ここは清盛建立以来一度も海水には浸かって要らず、3段目までは海水が来たという記録があります。
永正5年(1509年)には清盛以来最大の高潮があり、回廊上約1,5メートルに達したと記録があります、

また近年では平成3年の台風19号来襲により、回廊上80センチまで達した事は、記憶に新しいところです。

右手が「祓殿」でここの海側を良く見ると、白い板が切れた所があります、昔はここから「参拝者」が舟を付けてお参りをしていました。
白い板は本社本殿辺りにも見ることが出来ますが、これは「波除け高欄」といい海水がかかるのを防ぐ意味から取り付けられています。

また祓殿には天井があります(珍しいですね)、種類は「折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)」と言い、天井の格式の中では一番上の天井です。

現在でも毎月1日と17日は「月次祭(つきなみさい)」と言い、神官29名が朝座屋の前に当時の姿で並び、客神社の祓殿に入る
お払いをし、その後拝殿に入り「祭り事」を行う
拝殿の左右には「籠り所(こもりしょ)」と「経座」があり経座は社僧の「読経所」であった。この経座があった場所で祭り事を行う



本社祓殿にはもっと立派な天井があります。
拝殿の上を見ると大きな「板蟇股」がありますね、目をこらしてみると「ハート型」の刳り貫きを見ることが出来ます。

これは「猪の眼」と言い、神様をお守りするものです。本殿にもあります探してみてください。
祓殿の上部を見ると「蟇股」を見ることが出来ます、本殿の祓殿にも同じものがあります、よく見てください。

この「蟇股」の特徴
① 平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている「二木造り(ふたぎつくり)」と言い
鎌倉時代からは一体作りになる。

この様な「二木造り」は宇治上神社、平泉中尊寺、醍醐寺金堂、一乗寺三重塔でしか見ることは出来ない。

② 一乗寺三重塔・醍醐寺金堂・中尊寺金堂、は時代が「1065年~」で蟇股の高さが、
厳島神社の蟇股に比較して「」。 

宇治上神社、厳島神社の蟇股は時代が「1168年~」となり、
約100年くらい時代が下がる更に「蟇股」の高さが低くなっている、とこの様な特徴を見て取ることが出来きます。

次は、「鏡の池」が見えてきます。厳島八景の一つで「鏡池秋月」とも云われ、この池に写る月が秋を代表する景色の一つで、最も美しいものとされ和歌や俳句に詠まれています。

「みやしろに かくる光もくもりなき かがみの池に すめる月影」  宣阿         と詠んでいます

宣阿は陰徳太平記の著者です。陰徳太平記とは、日本の古典文学の一つで、戦国時代の山陽・山陰を中心に室町時代13代将軍足利義輝の時代から、慶長の役までの90年間を書いた軍記物語(1507年~1598年頃までの90年間)

潮引いて後 くぼき処ありて 別に一小池をなすが如し 秋夜一輪の月光をすましむ」とも詠んでいます。

境内には「三つの鏡の池」があります。その内の一つです(他には、卒塔婆石の所、天神社の裏にあります)
昔からの言い伝えとして、「一夜にしてこの池が出来たのは、この造営が御神慮(ごしんりょ)に叶った為である」と人々がたいそう喜んだと云われています。

またこの池は干満時において火災が発生した時の消火用水の役割を果たしたとも云われています。さらによく見ると池の中から水が湧いて流れていますこの水は海水ではなく「真水」が流れ出ています、不思議ですね。

廻廊の傍らには「明和7年(1770年)に寄進」された石灯籠があります。この石灯籠は岡野権左衛門正英が建立寄進したもので、合わせて諸経費として20両を寄付している。

鏡の池の廻廊からまっすぐ五重塔の方角を見ると、石垣が見えます、この石垣は、毛利元就・吉川元春の技術による石でよく見ると「布積み」になっています。千畳閣の下の石垣は豊臣系の石垣で「乱積み」になっていましたね。

この布積みの石垣を良く見ると、なんだか変と思いませんか。道と海の底面が約3~3.5m位の段差になっていますね、
昔約6000年くらい前から、この神社のあった場所には「紅葉谷川・白糸川」が長い時間流れ込んでおり、その為この部分は「砂洲」になっていました。平清盛はこの砂洲の部分を除去して、その跡に「厳島神社」を建立したのです。
理由は既に解っていますね、そうこの島は「神の島」と呼ばれ、島に建物を建立することなど、とんでもないことと言われて
海の中に社殿を建立したと云われています、そう理解すると解りやすいですね。

さらに廻廊を進むと正面に「朝座屋」が見えてきます。この建物は「国の重要文化財」で1168年の造営記録にも名があります。 社家・供僧・内侍 の方達が祭典の時に集合したといわれています(社家三方と云う)
屋根を良く見ると、東側は「切妻屋根」西側は「入り母屋」の造りとなっており、三方に「庇の間」がある、これは神殿造り様式の特徴のひとつである、対屋(たいのや)の要素をもった建造物です

明治維新後 昭和42年までは厳島神社の社務所として使用していましたが、現在は結婚式の控え室に使用されています。
平安末期、島内には「内侍」が居住するのみで、他の祭事に仕える社家・供僧は対岸の地御前神社(外宮になります)辺りに住んでいました。(神の島であるから人は住む事が出来ず、毎日対岸の外宮より舟で通っていた)
内侍の館のみはあり、内侍はそこに住んでいたといわれている。島に人が住むようになったのは1300年の頃からと言われています(鎌倉時代の後期ごろからか)

眼の前には廻廊に囲まれた四角い海の部分がありますが、ここを「枡形(ますがた)」といいます。


厳島神社の神様を慰める為に行われる雅な海上渡御の祭りで、王朝絵巻を繰り広げる宮島最大の神事です
当時都で盛んであった管弦を奏する遊学を宮島に移したもので、毎年旧暦の6月17日に「管弦祭」が行われます。

船先に篝火を焚いた御座舟や呉の阿賀、広島の江波から来た引き舟がこの枡形に入ってきて、三匝(さんそう
します。三匝とは本来、右回りに三回廻る事を言います(仏教における一番格式の高いお参りの仕方)


右遶三匝 (うにょうさんそう)
 遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,
 比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。
 中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ます
 為の香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,その他はすべて右回りである


管弦祭のクライマックスが見れる所で大勢のお客様が詰め掛けるところです。また大鳥居が写しこむ写真撮影の人気スポットになっています。

管弦祭」
日本三大船神事の一つでもあります。他には大坂の「天神祭り」、松江の「ホーランエンヤ」があります。

行事予定は旧暦で示すと次の様になります

6月5日   「市立祭」 春(2週間)、夏(3週間)、秋(2週間)、と市が立つ
        夏、が一番盛大で臨時の露天などが出て芝居などが行われた(12日前から行われる)

6月11日  「御洲掘」  鳥居の内側の水深を深くする為、水底の土砂などを取り除くもの

6月15日  「御船組」  客神社前で、呉の倉橋から挽かれてきた、和船3艘を繋ぎ、根太を渡し屋根を架け御座舟が
                出来上がる

6月16日  「御試乗式」 御座舟の試乗を行う、大鳥居をうまく漕ぎ抜けるか、などを調べる

6月17日  「本番の管弦祭」が行われる

* 有の裏、三笠の浜 辺りでは瀬戸内周辺から来た多くの船の繋留を見ることが出来る。
   商店街には、呉の「阿賀」 広島の「江波」の方達の常店が決まっているのでそれを見つけるのも面白いかも。
   「店」の前にはそれぞれの「のぼり」が掛かっているのでわかり易いと思いますよ。

枡形の反対側には、二つ目の「鏡の池」と「揚水橋」があります。

「鏡の池」の中に大きな「石」がありますが、この石を「卒塔婆石」と呼んでいます。
治承元年(1177年、約830年前)、京都東山鹿ヶ谷の山荘(後白河法皇の近臣で、靜賢法印(じょうけんほういん)の山荘)において、平家滅亡を企てた罪により、平康頼・僧俊寛・藤原成経らは喜界が島に流される(この時密告をしたのは、多田蔵人綱行ただのくろうどつなゆき
喜界が島は現在の、鹿児島沖の「硫黄島」とも言われています。
島に流された「平康頼」は都に住んでいる老母を偲んで、二種の歌を千本の卒塔婆に書いて流します。

「思いやれ しばしと思う 旅だにも なお故郷は 恋しきものを」

「薩摩潟 沖の小島に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」

ところが、その念願が「神」に通じたのか、卒塔婆の1本が「あの石」の所に流れ着き、おりしも康頼の安否を確認する為の旅の途中厳島神社に参詣に立ち寄った「僧」により都に伝えられ、程なくして「康頼」は帰京を許されました。(1178年の事です、strong>事実は徳子懐妊による恩赦で7月に赦免の使者 9月20日赦免になっています)

帰京した「平康頼」はこれも厳島大神のおかげと、お礼の為にと奉納したのが「康頼灯篭」です(鏡の池の先に見えます)
この燈篭は、島内にある数ある燈篭の中で一番古く、棹には「昇り竜」「下り流」が彫ってあります、また火袋は八角形で
六地蔵」が彫ってあります。棹の部分はほとんど確認できません、また「六地蔵」は明治維新の時に削り取られました。

六地蔵とは①天道 ②人間道 ③修羅道 ④畜生道 ⑤餓鬼道 ⑥地獄道 を守護する「地蔵尊」を言う

本来、燈篭の下には「台座」があるのですが、見ることが出来ません。
これは先にも述べた様に、天文10年(1541年)の大きな土石流により埋没して、現在に至っています。
ここの所には、「大鐘跡」とも言い、昔は「大鐘楼」があり、鐘を合図に神職・供僧が出社していたようです。
明治維新後は無くなりました、梵鐘の「大願寺」の文字が入っていた為、溶解されたようです。

隣の小さな木の橋を「揚水橋」といいます。これも国の重要文化財となっています。
よく見ると、東側の勾欄が高くなり、張り出しているところに「特徴」があります。(この様な工法を桟の間工法と云う)
昔はここから、内侍が「神饌用」の水を汲み上げて、本殿に運んでいたと云われています。

この橋、橋と言えるかどうか解らないほど「短いですね」(現在約5m(約3間)です)、昔は長さ14m(8間の長さ)ありましたが、天文10年(1541年)の山津波(土石流)により現在の長さになっています。
この橋以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいました。
「平橋」と呼ばれている橋は、二箇所あります後の一つは、後で出てくる「長橋(ながはし)」で、明治11に「長橋」と云う名前になっています。

余談ですが、京都の宇治川に架かる宇治橋には「桟の間」があり、そこから豊臣秀吉が「茶の湯に使う水」を汲み上げたといわれています、宇治橋は幅8m、長さ155m コンクリート製の橋で欄干は桃色、擬宝珠は緑色をしています。

横には、「天正20年9月吉日」(1592年の秀吉の朝鮮出兵の年)の刻銘の入った「手水鉢」がある。この手水鉢は、
文字の入っている手水鉢では最も古く「国の重要文化財」に指定されています。

朝座屋を背に、廻廊を見ると、正面に「厳島神社本殿」が見えます、ここの屋根を見ると大変面白い事を発見する事が出来ます。
よくよく見てください、左側「本殿の屋根」(軒)と、右側「拝殿」の屋根が「平行」になっていません。手前が狭く(ほぼ重なっている)、奥に行くに従って広くなっています。つまりこの建物は本来平行に建っていないといけない物が、平行に建っていません。(約50cm位斜めになっています)。
本殿は実は3回建て直しています、一度目は1207年焼失 二度目は1223年焼失により建て替え 三度目は1571年
和知兄弟の謀反により建て替え(「元亀の遷宮)。
なお、拝殿 祓殿は1241年鎌倉時代に再建したものでした、その後に「元亀の遷宮」がありました。この時期は「戦国時代(1493年から1573年までの80年間を言う)で、いろいろな技術が衰退した時期で、建築技術も同様に衰退した時期にあたり、建物をうまく建てることが出来なかったと思われます。

さらに進むと、左手に小さな「橋」があります。これは「内侍橋」と言い、左右にあり神殿造りにおける「対(たいのや)」形式を色濃く残すものです。

一般的に神社に仕える「女性」を巫女さんといいますが、ここ厳島神社にお仕えする女性を「内侍(ないし)」といいます。昔、内侍がこの橋を渡って神饌をお供えしたところから「内侍橋」と名づけられました。
厳島の内侍は本来神前に奉仕する巫女(みこ)で、「社家」「供僧」と並び大きな勢力を持つ「女性集団」でした。
八乙女(本内侍)制度久安4年(1148年、清盛が安芸の守になった2年後)の定められました。
したがって厳島神社の海上社殿で竜宮を思わせる「内侍の舞楽」が始まったのはこの様な制度が整備された後と言う事になります。
平安時代の末期」の内侍は、①五常楽 ②狛鉾 ③万歳楽 ④蘇合香 の四典の「舞楽」を舞っていました。
なお、他の大社では「巫女」が舞楽を舞うことはありませんでした。
この頃は巫女としてよりも「舞姫」としてその名が知れ、しばし都の貴族達に優美な舞楽を疲労している。
その美しさを、「土御門通親(つちみかど みちちか)」は、「天人の降りくだらんも かくやとぞ見ゆる」と表現しています。
土御門通親(源 通親)は「高倉院厳島御幸記」を残しており、「村上源氏」の全盛期を築く。
曹洞宗では、「久我通親(こがみちちか)」と呼ばれている。

厳島神社の「内侍」は定員31名と決まっていました。予め内侍となる事が出来る「家柄」は決まっており、誰もがなれるものではありませんでした。
その家柄に生まれた女性の内必ず一人は生娘であることが求められ、「厳島の神」に仕えることになっていた。

内訳は ①上臈内侍 10人  ②本内侍(八乙女とも言う) 8人  ③手長内侍 13人  合計 31人

八乙女(やおとめ)は、先にも述べた様に、主に神楽や舞い(巫女神楽・巫女舞)をもって奉仕する 8人で「舞姫」とも呼ばれていました。
特に舞姫の中でも、「世親内侍」「竜樹内侍」は格別に美しく貴族達はこぞって見に来たようです。

上臈・・・・身分の高い女官のこと(先に任じられた者を上臈、後から任じられた者を、中臈・下臈などと区別する
      (ろう)とは、洗練された女性の美しさを表す言葉で、美しく気品があることを指します。
一般的に、神社巫女は神事で重役を果たす「神女」と云う、これは「神子(かみんこ)」で神の子を意味します
伊勢神宮では「斎王(さいおう)」、 賀茂神社では「斎院(さいいん)」 熱田神宮では「惣の市(そうのいち)」などと呼ばれています。

斎王祭りの「斎王役」の方は、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)俗称 十二単(じゅうにひとえ)を着ます。
今上天皇の母親(香淳皇后)も大正13年(1924年)に五衣唐衣裳を着用している写真があります

反橋(そりばし)
別名勅使橋とも言い、天皇の使いを勅使といいますが、勅使の方しか渡れない橋でした
長さ21m、幅4m、高蘭は丹塗り、橋脚は渋墨塗り、鎌倉時代には既にあったが、現在の橋は
弘治3年(1557年)毛利元就・隆元 父子により再建寄進されています。
擬宝珠(中央の右側)にはこの事が書いてあります
元の長さは47mありましたが、1557年再建時には21mになっています(1541年の土石流によるもの)。

宝物館
昭和9年(1934年)建造、鉄筋コンクリート平屋造り、大江新太郎氏の設計によるものです。 30
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。




























知りたい宮島 4 本殿 屋根 

2024年01月22日 15時54分23秒 | 貴方の知らない宮島
いよいよ国宝の「御本社(本殿・幣殿・拝殿・祓殿)」です。昔は「大宮」と呼んでいました。
厳島神社において、宗像三女人(後述参照)が祭神とされる様になるのは、鎌倉時代以降の事と考えられています。
古代においては、国内最高位に位置する「名神大(みょうじんたいしゃ)」の一つであったが、仁和4年(888年)以降は「大神宝使発遺(だいじんぽうしはつい)」の対象社となり、国内随一の地位を認められたと推定されています。

「*大神宝使とは」、天皇即位後,伊勢神宮以下諸社に神宝・幣帛の奉献のため派遣される使者を言う

御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、端津姫命(たぎつひめのみこと)
宗像三女人で、アマテラスオオミカミとスサノオの誓(うけい)の結果から生まれたという女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の3姫神とみなされ、「海の神で竜王の娘」といわれる。

龍神は古来、龍宮に住み、水神や海神として崇められてきました。平氏の財政基盤を担った日宋貿易を推進する為にも、海上交通の安全はまず第一であり
「水神」を信仰する事で海上の平安を守ろうと考えたのではないか?
実際に福原では、たびたび千人の僧侶が法華経を読経する「千僧供養」が行われている。法華経を写経することで、更なる功徳を求めたものと思われる。
「提婆達多品」の中では法華経の修行で、その道を会得した「8歳の龍女」が法華経の功徳により成仏する事が出来たと語られている。
「平家納経」では沙羯羅龍王(しょかつら)の第三の姫宮と伝え、また「愚管抄」にも、竜王の娘とある。

瀬戸内海の要衝であった厳島にとって、女神は平清盛をはじめ、瀬戸内海を航行する船乗りたちの信仰を集めるようになり、「平家物語」は
沙羯羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の第三の姫君と伝え、技芸の神、福徳の神としても崇敬される様になる。

相殿神は国常立尊 天照皇太神 素戔鳴尊、その他30数柱の神様が相殿(あいどの)されています。
明治元年以前は、厳島弁才天もお祀りされていましたが、現在は大願寺にお祀りされています。

広さは日本一大きな本殿となっており(純粋な神社の本殿としては日本史上最大です)幅23.8m、奥行き11.6mあります。83.7坪の広さがあります
本殿が国宝指定を受けている神社は23社ありますが、畳を敷くと「165畳」の広さになります。

これは島根県の出雲大社本殿の約2.3倍の大きさとなっています。
神社には皇室の伊勢神宮 藤原氏の春日大社 京都鎮守の賀茂神社等々ありますが、春日大社と比較すると平安末期には厳島神社は社殿総量では約10倍位もの社殿がありました。いかに巨大であったかわかります。
厳島神社社殿

神社建築に用いられる「ヒノキ」は建材としては世界一の樹木である
強度・耐久性に優れ又、木肌が美しく光沢があり、塗装をしていなくても高級感が生まれる。
神社・・・・白木を使う
寺院・・・・彩色を使う

江戸時代後期になると、秀逸な彫刻で満たされる寺院建築が流行ってくる。
ここでは「彫刻の出来栄えを強調」する為に素木造りとされるのが「一般的」となる。

「両流造」
本殿は1168年に建立(仁安3年)、しかし元亀2年(1571年)再建。客殿は永享5年(1433年)再建
本殿。客殿は「両流造」の代表例である。
両流造は身舎の前後に庇を設けた本殿形式である
身舎(もや)とは
寝殿造りで,主要な柱に囲まれた家屋の中心部分。庇はこの部分から四方に差し出される。
家人が日常起居する建物。離れなどに対していう。おもや。ほんや。
棟木と軒桁(のきげた)の間にあって垂木(たるき)を受ける水平材。もやげた。 → 小屋組
正面側にだけ屋根が長く伸びる「流造」に対して、両側に屋根が付くので「両流造」と呼ぶ

厳島神社本殿・客殿が両流造りとなっている。
本社本殿は九間社(鎌倉再建以降は柱一本を省略して八間社)
客神社本殿は五間社の両流造で極めて大規模であり、特に本社本殿は、純粋な本殿としては
史上最大の面積を有している。
身舎(もや)を内陣として、そこに玉殿と言う小型の本殿を本社で六基、客殿で五基並べ正面の庇を祭祀
空間の外陣とし、背面の庇を「神宝庫」とする
本殿内に玉殿を安置するのは、海上に建つ為である。陸上の神社では、春日大社の様な小型の本殿でも
風雨に耐えれるが、海上の風浪では危ういので、小型本殿を玉殿として超大型本殿の中に格納した
ものと考えられる。その結果、史上最大の本殿が誕生した。
気比神社(越前一宮、福井県敦賀市)   気多大社(けた、能登一宮 石川県羽昨市)
宗像大社辺津宮「へつみや」(福岡県玄海町)  太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
松尾大社(二十二社 京都市)
と言った著名な大社の本殿のみに応用されている。
背面側の「庇」については、特別に高い社格に基づいて神宝(じんぽう)を朝廷等から奉献される事が
多く、それを納める「神宝庫」としての機能があった。したがって一般的な神社には応用出来ない本殿形式。
なお、内陣に玉殿を安置するのは、海上に建つ「厳島神社」だけである。
庇付きの本殿
厳島神社本殿と客神社本殿は、四面庇本殿の屋根形式になっている。
切妻造りの身舎の正面に庇を付けた本殿形式の代表が「春日造」「流造」である
「春日造」・・・・・・身舎が妻入りのもの、  一間社が正式
「流造」・・・・・・・・身舎が平入りのもの、  三間社が正式
身舎だけなら、階段(木階きざはし)が雨に濡れるが、階段上に被さる「庇」が雨よけとなるので、
極めて実用的な形式で奈良時代に誕生したとされる。
切妻造りの身舎だけでは、硬直で単純な姿にしか見えないが、庇が付くことによって秀麗な造詣の美しさが
生まれた。屋根が桧皮葺(室町時代以降は杮葺も多い)である事も造形美を増している。
身舎(もや)は正式な「円柱」、庇は略式な「角柱」を用いて区別する事が大原則で、
神座である身舎の高い格式を強調
組木や蟇股などの建築装飾は、人目に触れやすい庇のほうに集中し、身舎は相対的に飾り気が少なく、
見えるところを飾るという、日本の伝統的な社寺建築の本質を如実に表している。
向拝(こうはい)・・・・木階(きざはし)に更に庇を付け足したような形
玉殿・・・・・神社本殿内に安置される小型本殿の神体の容れ物を「玉殿」と呼んでいる
厳島神社の仁治2年(1241年)の古文書に「御体玉殿(ぎょくたいぎょくでん)」と在るのが初見。
逗子・・・・・寺院本堂の内陣に安置して秘仏である「本尊」を奉安する容れ物を一般的に逗子と呼ぶ
鎌倉時代後期になって円柱や組物や屋根を供えた建築的な逗子が作られるようになり、
それは「空殿(くうでん)」と呼ばれた
「空殿」では組物は華麗な三手先が標準
「玉殿」では簡素な船肘木や平三斗程度である
寝殿造りの形態の神社は現在日本ではここ厳島神社のみとなっている

対屋(たいのや)形式の建物で、建物の前には祀りごとを行う「庭(平舞台)」があり、
その前には「池(鳥居までの海)」があり向って右側には「川」が流れている建物形式になっている。
また釣殿にあたるのが「客神社」となっている。更に屋根は「桧皮葺」
釣殿・・・・納涼・供宴を行う建物を言う
桧皮葺・・・ヒノキの皮を葺いたものを言う、寿命は約20年から30年

御祭神の三女人は、「海の神」「交通運輸の神」 の信仰対象となっています。
あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。

「天照大御神(あまてらすおおみかみ)が素戔嗚尊(すさのうのみこと)の剣をもらい、三つに折って「天真名井(あめのまない)」で洗い清めて、
噛み砕いて、吐き出すと「三柱の女神)が生まれ、(市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命)。
「素戔嗚尊が天照大御神の「髪」に巻いた「玉」をもらい受け、噛み砕いて吐き出すと、息の霧から「五柱の男神」が現れる。(天忍穂耳命、天穂日尊
活津彦根命、天津彦根命 熊野櫲樟命)

平清盛
伊勢平氏の棟梁・平忠盛 の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱 で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。清盛(虎寿丸)の母は、召名(めしな)を「鶴羽(つるは)本名は、霞(かすみ)」と言い、元は仙洞御所(せんどうごしょ) に仕える。 仙洞御所・・・退位した天皇(上皇・法皇)の御所を言う 清盛3歳の時に、「鶴羽」がみまかる。 鶴羽の姉が「是非とも猶子に」と申し出る この姉が「祇園女語」である。 白河院第一の寵愛(ちょうあい)をこうむる。院の女房で大変な権勢を持っていた。
正盛・・・・・忠盛(の母は宗子)・・・・・清盛 で正盛を引き立てたのが「祇園女御」である     「清盛」の名前の由来
白河院は皇子(清盛)の事を気にかけていたが、ある時 皇子があまりに夜鳴きが激しいと聞いて次の「歌」を忠盛に送った
「夜なきすと、忠盛たてよ、末の世に、きよくさかふることもこそあれ」(その子が夜泣きをしても、大事に育ててくれ忠盛よ、将来 平家を繁栄させてくれる事もあるかもしれないのだから)
清く 盛ふる(きよくさかふる)この二文字から「清盛」と名付けたと言われている


清盛について

清盛25歳の時、父忠盛が武士として始めて内昇殿(天皇の居所)を許される。武士である忠盛が殿上の間に上がる
事を許されるのは破格の待遇であり、ある貴族は「未曾有の事なり」とある。忠盛の内昇殿も「千体の観音像」を納めた
「得長寿院(とくちょうじゅいん)」の造営の功により許されたもの。後年清盛が後白河上皇の為にと建てた「蓮華王院」
(33間堂)はこの得長寿院にならったもの。
清盛51歳(1167年)に出家して「浄海、静海」と言う法名を持ち、引退後は福原で千層供養を度々している。
清盛にとって尊崇する厳島を華麗に仕上げる事は明神への感謝の念もさることながら、平家の権威を高めるもの
であった。藤原氏の春日大社の様に有力貴族は一族の精神的支柱となる「氏神」を持っている。
「平野神社」があるが、八姓の神社としてであり、平家だけのものではない。平氏にも「氏神」が必要と考えた「清盛」
瀬戸内海を掌握し対外貿易を独占した「海の平氏」の権威の象徴として、それは神々しいまでの美しさをたたえて
いなければならなかった。それが「厳島神社」である 


また、清盛が「平家納経33巻」を奉納するにあたり、こだわったのが以下のとおりと思われます

清盛の「法華経」

清盛が特に「法華経」にこだわったのは、法華経信仰が盛んな時代背景もあるが
「堤婆達多品」に現れる「竜王」「龍女」の説話。 
「観世音菩薩普門品」が説く、観音による海難救助の説話に注目した為と言われる。

福原・厳島で千層供養を行ったのは「法華経の力」によって水神・龍神をなだめ
海の平穏を実現することで瀬戸内海の覇者としての存在を誇示するのが狙い。
特に清盛が重視したのが「堤婆達多品」で、この中には文殊菩薩が法華経を説いて
竜王の娘を「即身成仏」させる話がある。

平家納経の軸は伊都岐島神の象徴である「水晶の五輪塔が使用」され、見返しには
海中から出現した龍女が釈迦の前に「宝珠」を捧げながら進み出たところ、が描かれて
おり、清盛の龍神や龍女に関わる信仰を色濃く反映している。


平家納経が納められた長寛2年(1164年)、徳子(とくし)は堤婆達多品の龍女と同じ8歳
だったとも言われており、清盛が「自身を竜王」に「徳子を龍女」に見立てて将来の
入内への願いを込めたという説もある

 瀬戸内や宋との交易船の航海の安全を祈るため、又「瀬戸内海航路の要衝の地であった厳島」を篤く信仰する。
1177年10月14日には 盛・時子・中宮徳子・重盛ら平家一門が社参し、社殿内・廻廊にて「千層供養」を行う。
平時忠をして「平氏にあらずんば 人にあらず」と言わしめた。

幣殿
本来、幣帛(へいはく)を供える建物ですが、厳島神社では渡り廊下の役目をしています。
幣帛とは、神道の祭祀において神に奉献する物の内、神饌以外のものを言う。
(はく)とは布の意味で古代にあっては貴重であった布帛(ふはく)が神への捧げものの中心であった。

拝殿
参拝者がご祭神と向き合い、お祓い、参拝する施設です
この拝殿は「三棟造(みつむねつくり)」と言い、奈良時代の建築様式を色濃く残しているものです。
天井辺りをよく見ると、お賽銭箱より本殿に向かい2本目の朱塗りの柱まで屋根があり、更にその奥にも屋根があるのが判ります。つまり、拝殿の屋根の更に下側に二つの屋根があるのです。合計三つの屋根があるので、この様に呼んでいます。
清盛の住んだ京都の六波羅泉殿の寝殿も「三棟造」であったと思われます。
更には対岸、外宮にある「地御前神社」の拝殿もこの様な「三棟造」なっています。興味深いですね。

法隆寺の東大門(とうだいもん)も三棟造りとなっています、門を通る時には、上を向いて通って下さい。
祓殿
昔は「舞殿(まいどの)」と呼んでいました。お祓いをする処で、日本三大船神事の一つ「管弦祭」が行われる時には
鳳輦(ほうれん、神輿のようなものうを言う)が置かれる場所であります。
雨天時には「舞楽奉奏」などのも使われます。戦後はしばらくは、2月にここで「米相場」が立っていました。
床板は「楠」で、広島浅野藩の藩船(厳島丸)の材料が寄進さらたと言われています。
記録によると、床板は1.45m × 9.55m の楠を使用、最初の床材は、巾1尺6寸(約50cmくらい)の材が使用されていた。(板敷材 90枚 長さ2丈2尺 弘1尺6寸 厚2寸とある)

本社祓殿
本社 祓殿の広さは、100畳 あり。また平舞台は 660㎡(200坪)ある
お祀りの儀式を行う場所で、ここで祓いの儀を済ませた神官達は拝殿及び幣殿に進み祭典を執り行う
ただ、厳島神社で行う祭事のほとんどは客神社で先祭されるのでまず、客神社祓殿でお祓いの儀式が行
われて、そのまま本社祓殿に向うことになる。
平舞台・高舞台・左右楽房・左右門客神社はこの祓殿の附けたりで、国宝建造物とみなされている。

祓殿の天井
天井が出来るのは、平安朝末期からで、主屋にこの様な天井を張り、廂の間は「化粧屋根裏(垂木の見える天井)」
とし、つなぎ虹梁を掛けて側柱と主柱をつなぐ工法は平安末期から鎌倉初期にかけての工法で、
本社・客社の両祓殿などは典型的なもの。(折上小組格天井と言う)

かつては、絵馬・扁額が長押上にも掲げられており、明治の日誌類から見ると、明治11年(1878年)10月には
「36歌仙」の額が祓殿から降ろされ宝蔵に納められ、明治29年(1896年)2月には「山姥図」が掲げられたが
明治33年(1900年)の台風により全て降ろされた
祓殿では、能楽・謡・独吟などの奉納が祓殿で行われている。

厳島神社の社殿を「神殿造」とすれば、本社拝殿が寝殿になり、祓殿は南庭の部分に相当すると考えられる
ここでは、さまざまな「儀式・踊り(舞)・蹴鞠」が行われている(かつては祭典後の「直会」の場としても使われた
厳島神社では、こうした儀式や踊り(舞楽)などを行う為に恒久的な建物が必然的に生まれてきたと考えられる
床板は、幅1,45m。 長さ 9,55mあり、江戸時代以降の変更で「広島藩主」の寄進によるものである(楠木で出来ている)
檜皮について
桧皮葺の檜皮は寿命が約20-27年(30-35年とも言う)、檜皮は樹齢80年以上のヒノキの皮を剥離して取る。
一度剥ぐと次は10年後に再度剥ぐ、この繰り返し。長さは3m。檜皮は表面が「コルク質」で抗菌・防腐作用
がある。一度剥いだ檜皮は、厚さ1,2-1,5の厚さに削ぐ。これを檜皮として使用する。1駄(だ)、2駄と数える

最初に剥ぐ檜皮は「荒皮(あらかわ)」といい、使用できない。10年後に剥ぐ皮から使用する。この様な事で価格が高くなる
檜皮をずらす間隔は1.2 cmを基本とし、左右の檜皮を6 mmずつ重ねて葺き上げる。檜皮を5枚重ねたら2 cm程度の間隔で竹釘を打ち固定する。こうして葺いた屋根は厚さ10 cm程度になり、30 - 35年程度の耐用年数がある

参考に、大鳥居の屋根の部分は檜皮葺になっています、今回の修理における檜皮の状態は以下の通りです

杮の裏甲(檜皮の下の部分)は枌板(そぎいた)が積んである。
枌板は長さ1メートル、厚さ7センチくらいに重ねてあり、段葺きに葺いてある。
その上に「檜皮」を葺く、檜皮は「竹釘」によって止める、竹釘の長さは4.5センチ。ちなみに杮用の「竹釘」は長さ3.6センチである。
竹釘は"錆びず",”腐らず",50年間耐えることが出来る。しかし現在この竹釘を販売しているのは、兵庫県丹波市の「石塚商店」のみ、
神社で抱えている職人は別で、それぞれの職人がいる。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れないように表面を滑らかにする技が重要で、職人になるには最低10年
  かかると言われている)
竹釘を職人が手に取って今から檜皮を葺く所です

現在日本には約4700棟の 国宝、重要文化財があると言われているが、その1/4を「檜皮葺き」「杮葺き」が占めている。
軒釘は、2500本/坪、平葺は4000本/坪 必要とされている。

日本の檜皮葺建物は、16ヶ所しかない
①仁科神明宮 本殿 中門 (国宝) ➁ 大善寺 本堂(国宝) ③出雲大社 本殿(国宝) ④厳島神社 本園 祓殿 摂社客 摂社客神社祓殿
廻廊東廻廊 廻廊西廻廊(国宝) ➄北野天満宮 本殿 石の間 拝殿 楽の間(国宝) ➅賀茂別雷神社 本殿 権電(国宝) ➆賀茂御祖神社
東本殿 西本殿(国宝) ➇石上神社 拝殿 摂社出雲建雄神社 拝殿(国宝) ⑨吉備津神社 本殿 拝殿 (国宝) ⑩清水寺 本堂(国宝)
⑪金峰山寺 本堂 仁王門 (国宝) ⑫善光寺 本堂 (国宝) ⑬大報恩寺 本堂 (国宝) ⑭室生寺 金堂 本堂 五重塔 (国宝)
⑮京都御所 紫宸殿 清涼殿 ⑯八坂神社 諸殿

正面の軒(もこし
正面の軒の中央部分を切り離して、一段上げる、面倒な工法がとられている。平安時代の建物にはしばしば
見られるが、その後はほとんど構えられなくなった。誠に美しい軒で、「平等院鳳凰堂(宇治市国宝)」
「日野法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区・国宝)」などがその典型的な例として挙げられる。

二重虹梁・蟇股
祓殿の拝殿側の妻は「二重虹梁・蟇股」になっている。大虹梁、二重虹梁と二重に架け、「その間に3個
の蟇股を用いたもので、奈良時代以来多く使われた形式で雄大豪壮な感じがする。
虹梁は、下の長大なのを「大虹梁」、上の短い方を「二重虹梁」と言う。誠に巧妙な構架法である。

蟇股
平安形式で輪郭の曲線は、宇治上神社(京都市・国宝)のそれと、同じである
拝殿・祓殿(舞殿)、は鎌倉時代の仁治2年(1241年)の再建で全国最古の建物です。
** 「影弘解文」と通称される、仁安3年(1168年)11月の
「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と
「伊都岐島社千層供養日記」は、平安末期の厳島社の社殿の様相を示し、かつ
それぞれの建物が当時の祭祀の中でどの様に使われたかを示す唯一の資料である
  以下この資料に基づき、記述をする。

「影弘文書」によれば、厳島社の建立は推古天皇の時代の事である、この時従来の板葺きを全て桧皮葺に改め
更に金銅により荘厳華麗を施したと、述べている
仁平2年(1152年)に平清盛が再興、但し現在の社殿は貞応元年(1222年)から建立を始めて
寛喜2年(1230年)に遷宮したと報告あり(厳島野坂文書1896)
大宮御殿は将軍・足利義昭から毛利輝元に命じて中興し、元亀3年(1572年)に遷宮した。

この造営による厳島社の建物規模は、本宮37宇、間数300間。外宮19宇、間数77間となっており、
従来より「厳島社」の祭祀を司っていた「佐伯氏」は島内外にこうした大規模な社殿を造営する事で安芸国内
での地位を強固なものとし、中央政府との繋がりを深めていったものと考えられる。
以後の修理・造営に関する費用は「国司の重任の功」をもって充て、神主職は「佐伯氏」が継承する事も
「影弘文書」には述べられている。

** 社殿の構成については
本社(大宮)本殿、屋根は桧皮葺で「宝殿」と称される、又 拝殿(三棟造)で「影弘解文」には「二棟」とあり、
火災の後の再建で「三棟」に変更されたのかも知れない。
幣殿にあたるものは無く、祓殿にあたるものは、現在の客神社祓殿と共に「舞殿」と記されている。
これらの「宝殿」「拝殿」「舞殿」が現在の本社・客神社のそれらと同じ位置にあり、その他付属する建物との間
を113間の回廊が結んでいたものと考えられる。
この様な厳島の海上社殿に
① 承安4年(1174年)3月に後白河法皇。 10月には「一切経」の法会がおこなわれた
② 更に治承元年(1177年)10月には、清盛ら平家一門により「千層供養」が開催され「行道会」が行われた
③ 治承4年(1180年)3月。9月と高倉上皇が参詣する。
この時の供は、入道大相国(平清盛)、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、
頭左中将重衡、宮内少輔宗範、安芸守在経、らであった.(源平盛衰記、巻23)
蟇股(かえるまた)について
祓殿の「蟇股」は平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている事です(二木造)合掌造とも言う。
蟇股(二木造)
蟇股について更に詳しく触れておきましょう
二木造りは珍しくなかなか見ることが出来ないと言われますが、京都の宇治上神社と厳島神社は約1168年頃に作られた物と言われていますが、一乗寺三重塔・醍醐寺本堂・中尊寺金色堂に見られる二木造りの蟇股は、時代が更に100年古く、約1065年位に作られた物と言われています。又見て比較するとよく解りますが、時代の古い蟇股は高さが新しい蟇股に比較して大分高い物になっています。
高さの高い蟇股は時代が古
高さの低い蟇股は時代が少し下がり、100年位あたらしくなります
又、刳り貫きのない 「板蟇股」と刳り貫きのある 「本蟇股」があります

寝殿造りについて触れると、
寝殿造りは社殿と中心に鳥が翼を広げたような形に、「渡り廊下」でつないで「対屋(たいのや)」を配し、前面には祭礼の場である「庭」、更に南には「池」を配する建築様式を言う

屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」
ここ厳島神社の屋根は全国でも珍しい、桧皮葺きに瓦を積んだ「化粧棟」となっています。
また、ツルが飛んでいるような優美な曲線を描いています。

本社本殿・客殿などは 五色の色が塗られています。これは中国の「陰陽五行説」に由来するもので
赤は 柱・梁・垂木                                                                白は 壁などの板材(神社では漆喰は使用禁止です、お寺は漆喰の白い壁をしよう)
青は 窓や格子戸・連子窓(緑青に塗られていた)         黄色は 材木の木口                                                                    黒は 蔀(しとみ)・破風板の上の部材


本社の拝殿(皆様がご祈祷・結婚式等を行う所)の横には、ご祈祷を待つ待合室があります。
この中に入られた方はわかりますが(一応断れば誰でも入れます、鍵はかかっていません)、入って真正面にとその左横に大きな
扁額は掛かっています。
真正面の扁額には、「従一位 源 長勲  俊 徳 」と書いてあります。 この源 長勲こそが「広島藩 最後の 第12代藩主 浅野長勲」です。
浅野家は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で土岐光衡の次男・土岐光時が土岐郡浅野で「浅野氏」を名乗り光時に始まる土岐氏草創期の一族
であるとされている。本性が「源氏」で苗字が「浅野」であるから「源 長勲(ながこと)」と署名してある。
日本の江戸時代末から昭和初期の大名 政治家 外交官 実業家 社会事業家

左の扁額には「元 昭  明 光」とあります
これは毛利元就の子孫で「毛利宗家 29代当主 毛利 元昭」です
元昭(もとあき)は長州藩最後の藩主で、毛利元徳の長男である


祓殿で行われていた祭典は以下のようであった
当初は「直会(なおらい)」の場として使用されていた。
明治10年 「36歌仙板絵」 
明治29年 「長沢蘆雪の山姥図」他、多くの絵馬が「廻廊」「祓殿」にが掲げられていた、しかし明治33年に大きな高潮が発生、絵馬が流出する事となる、その為現在は「千畳閣」に一部を掲げ、残りは保管(170枚の絵馬を保有・これは日本一の数です)
明治13年 厳島学校生徒の社篭(しゃろう)が行われ、ここで昼食を取る
明治24年9月 29年6月 宮島で「海軍兵学校の運動会」が行われ、ここで昼食を取る
明治29年2月(旧暦)晦日に「相立場」が行われた、これは従来大晦日に行われていた「年越相場」にならって始めたと言われ、その後は「米取引」の形を取り入れた。「宮島相場」と言う、催しとし戦後はしばらく続いた。
明治29年10月 厳島町の各町内が社篭として、祓殿・楽房で酒宴を催した
明治32年10月 ここでの飲食の禁止、廻廊内を喫煙したままでの徘徊を禁止となる。
厳島小学校の「書道大会」も開かれ、
現在では「御衣献上式」や「市立祭」のお祓いなどの他に、諸芸能の奉納の場として使用される

明治4年には、千木・勝男木がつけられていた。
この年明治4年に明治政府より、神社のお参りには「二礼二拍手一礼」が始まり、昭和21年には廃止。現在はどの様な方法でもOK
明治34年に「古社寺保存法」により、千木・勝男木が下ろされる
明治34年1月28日から大正8年7月までは、俗に言う「明治・大正の大修理」がおこなわれる(20年かかる)

高舞台(国宝)
舞楽が舞われる所です。桃花祭・菊花祭などで舞楽奉奏が演奏されます
舞楽とは、管弦による舞踏のことで、振鉾・陵王・納曽利・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なお厳島神社に伝承されています。(舞楽の演目は三十六曲ある)
この舞台の擬宝珠には、1546年(天文15年)棚守佐伯房顕(たなもりさえきふさあき)の銘があり、奉納した事が判ります。(約468年前、本殿に近い方の一番左右の二つの擬宝珠に書いてあります)
ちなみに、この擬宝珠を造ったのは、廿日市の鋳物師で「久枝綱家」の作、五重塔の擬宝珠も同様です。
以下の文字が刻印されています。
「木帽子(擬宝珠)鋳奉檀那當棚守左近蒋監房顕天文十五年丙午六月」
きぼうし いたてまつる だんなとう たなもりさこんしょうげんふさあき てんぶんじゅうごねん ひのえうまろくがつ
檀那(だんな)・・・・・・施主のことをあらわしている。
左近将監(さこんしょうげん)・・・・・棚守代々の官職名
房顕(ふさあき)・・・・・・毛利元就時代の有名な棚守(現在の野坂宮司の先祖)

日本三舞台の内の一つで、大坂四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台を日本三舞台と云う。

舞楽を舞う人が「舞楽を舞うのにこれ以上舞台が小さいと舞えない」と呟くのを耳にします、
これは以下の様な考えのようです。
「高舞台正面の幅はほぼ本社祓殿の中央柱間と同じ大きさである、本社祓殿の原形は仁安の造営(1241年)の「舞殿」
であった。
この舞殿の前に置かれた舞台(高舞台)を使って治承元年の千層供養の時には舞楽が行われた様である。
舞殿(現在の祓殿)の中には蓋高座が設けられた、この蓋高座を使って千層供養時には舞楽が行われた
この蓋高座を高舞台の元祖と考えると、舞殿(祓殿)の中に設置しても使用できる大きさでなければならない事になる、
すると、おのずと舞台の大きさも限られて小さな舞台になってのではないかと思われます。

旧暦の6月17日には「管弦祭」が行われると先に言いましたが、旧暦では6月が二度訪れる年があります。
この時は「居管弦祭」と言う、管弦祭が催しされます。
居管弦祭(いかんげんさい)」とは、居ながら行う管弦祭の事で、御座舟は使用しません、高舞台を利用して、平舞台の上で行います。
高舞台の前に船の帆先を付けて祀ります(高舞台が御座舟の代わりをします)。
屋形と高舞台の間に12ヶ月の造花つけて飾る。
1月は松 2月は梅 3月は桜 4月は山吹 5月は花菖蒲 6月は若竹 7月は萩 8月は朝顔 9月は桔梗 10月は菊
11月は紅葉 12月は水仙 の花を飾る 。

この時は「鳳蓮」は移動しない(昭和5年・16年・35年・54年・62年に居管弦祭が実施されている.)

なお、この高舞台は平舞台の上に置いてある様に見えるが、実際は平舞台とは関係なく、海底から花崗岩の柱を建ててその上に高舞台を造っているものです。
高舞台
四隅の親柱の外側に直径4分(約5センチ)の穴が付いている。
これは「幡飾り付きの鉾」を立てるときに使ったものと思われる。こうした金具の取り付けは、
他の舞楽舞台には見られない装飾である
右楽房・左楽房(国宝)
舞楽の時に管弦を奏するところです。左右ありますが「舞楽」を舞う時には二つの流れがあります。
左の舞、・・・・インド・唐(中国)から伝わった舞を言い、左舞を舞う時は左楽房で奏します(これを唐楽及び林邑楽と云う)
右の舞、・・・・朝鮮半島から伝わった舞を言い、右舞を舞う時は右楽房で奏します(高麗楽及び渤海楽)

衣装については
右舞・・・・・青色(緑色)衣装で金具は銀色で、メロデイで舞うと云われています
左舞・・・・・赤系の衣装で金具は金色で、リズムで舞うと云われています

平舞(ひらまい)・・・・優美な装束を着て4人以上で演じるゆったりした舞い
走舞(はしりまい)・・・華燭な装束を着て1人、又は2人で演じる
番舞(つがいまい)・・一つの演目に対して割り当ての演目が決まっている舞い
             例:蘭陵王の舞と納曽利、 延喜楽と万歳楽 の様に

舞楽面も厳島神社に伝わっており、平清盛が大坂の「四天王寺」から舞楽を移した時には、「舞楽面」が9面伝えられた
その内7面は平氏の寄進によるのものである。
千層供養時には舞楽は24曲あり、その内12曲が現在も厳島神社で舞われている。

「舞楽」は平清盛によって、大坂四天王寺(聖徳太子が開く)から約820年前に伝えられたものが現在も神職によって伝承されています。
左右楽房・左右門客神社は、清盛が神社を建立した時にはまだ存在しておらず、当時は簡単な建物を立てテントで覆うて
、使用していたようです。(是を幄舎(あくしゃ)とも幄(あく)の屋と呼んでいた。
幄屋(あくのや)・幄舎(あくしゃ)・・・・・・五色の布で出来た一種のテントで祭礼日に臨時に張られた  

火焼前(ひたさき
廊嘴(したさき)とも言い、平舞台から突き出た部分をいいます。名前の由来は諸説あるようですが、昔管弦祭の時、御座舟が厳島神社に帰ってくる時に、ここに篝火を焚いて、是を目安に御座舟が入ってきた為とか、空から見ると回廊がうねうねとまるで「龍」がうねっている様に見え、その口先(舌先)の様に見えるので、火焼前・廊嘴と言ったと言われている。
大鳥居からの距離は「88間」あります
ちなみに、表参道商店街の出口付近の「注連柱」の左側(山側)には「回廊蘸影現龍姿(かいろうさんえいげんりゅうし)」と書いてあります。回廊の下に写る影がまるで龍の姿に見える。「芸藩通史」によれば、厳島神社は南北朝時代の後半において既に、龍王もしくはその娘龍女の館と考えられていた。また、「臥雲日件録」の厳島縁起に見られるところによれば、神社の回廊は室町時代の前期になると、大蛇が「とぐろ」を巻いている姿と考えられていた。
「明神の縁起をほぼ知る、昔推古天王の御字、一美人船に乗りて来る(中略)婦人遂に化して大蛇と成る」
厳島神社の祭神「市杵島姫命は娑迦羅龍王(さからりゅうおう)の娘
安芸厳島の「三箇秘事」として、「それ厳島大明神は娑迦羅龍王第二女なり・・・」とあり平安時代末期以来の理解がそのまま踏襲されている。

先端には、寛文10年(1670年)の銘のある青銅製の燈篭が、寛政9年(1797年)の築かれた石の台上にある、
左右門客神社の脇には、天明5年(1785年)銘の青銅製燈篭が二基並んでいる。
管弦祭の時にはここから、祖祭神を遷した鳳輦が浜に降りて、大鳥居沖に待っている御座船に乗せます、

平舞台らな屋根の無い部分を「平舞台」といいます。神殿造りの場合、前面に祀り事を行う庭があり、その前には池があり、池には右側から小川が注いでいないといけない、と云う決まりごとがあり、その庭に当たる所は平舞台です、前の大鳥居までの海を「池」に見立てています(玉御池と云う)。
束石は「赤間石」で毛利元就が寄進したといわれています。元亀2年(1571年)の「元亀の遷宮」に際しての元就の寄進
広さは「187坪」もあり、この平舞台は「束石」の上に載せてあるだけなので、台風などの高潮時には浮き上がり、その後は又元に戻ります。 束石は全部で218基ありました。
赤間石(安山岩です)・・・山口県宇部市辺りで産出する石で、高級すずり を造る材料です。
平舞台は清盛の頃よりあり、その時は廻廊と同じ朱塗りの高欄が設けてありました.
1177年10月14日の千層供養では大勢の人々が極楽浄土の仮装をして行列を組み境内を歩く「大行道会(だいどうぎょうえ)」の行事があり、その出発点が「平舞台」であった。

「元亀の遷宮」について
元亀2年(1571年)の本殿を遷宮している。本殿は3度建て替えていると、先に言いましたが、
1207年 本殿焼失8年後に遷宮                                                                 1223年 本殿焼失 遷宮は20年かかりました                                                                  1568年 和知兄弟の謀反(元就の長男・毛利隆元を毒殺したと言う、疑いのかかった兄弟が12月に本殿に逃げ込み                                       69年1月に本殿にて自刃する。)本殿が「血」で穢れたといい、建て替える。是を「「元亀の遷宮」と呼んでいる
1571年 本殿遷宮終わる

この時の遷宮における「お金」は現在世界文化遺産に指定されている「石見銀山」からのものです。
銀の供給を受け(銭に換算して約26万両とも言われています)。
この時の石見銀山奉行は「平佐就之(ひらさなりゆき)」で後に(1584年)銀山の狛犬を寄進している。
この狛犬が大変珍しく、薄い銀の板数枚を繫ぎ合わせて作ってあります、大変小さな狛犬ですが、大きな目をした愛くるしい顔をしています、切手にもなっています。
かつて、神社の廻廊には多額の寄付をした、檀那の名を記した「棟札(寄進札)」が掲げられていました。
主に戦国時代 114枚の棟札が記録されていましたが、その内23枚(約20%)は石見銀山の住人によるものでした。
時は「菊花祭」の時におおく参詣しています。

石見銀山は、当時山口 北九州 遠くは備前辺りまで支配下にあった「大内義興」の武力下にあり、大永6年(1526年)
3月には、筑前博多の豪商「神屋寿貞」によって始められ、鷺銅山(さぎどうざん)の門」とそ銅主「三島清右衛の弟子
や「堀子」たちを連れて入山する。
1533年8月には「神屋寿貞」は南朝鮮から「慶寿」と言う銀吹師(かねふきし)を招き「灰吹精錬(はいふきせいれん)」
と云う新しい技術による精錬法式を伝える。
この事により、銀山は目覚しい量産に入る(銀算出の歩留まりが大変高くなった)

灰吹き法による著しい銀の産出情報が伝わると、近隣の武将たちが狙い始めた。
銀山を目指して「大内氏」「尼子氏」が対立、大内氏が滅びると、銀山を巡る抗争は「毛利」「尼子」の熾烈な戦いとなる。
元就が完全占領するまで30年余り、激戦は8回にも及んでいる。

左右門客神社
清盛が厳島神社を造営した当初はありませんでした
鎌倉時代に新設され、室町時代に再々造られたものです。 門(もん)を司る神様で左右にあります。
厳島神社のご祭神をお守りする神様がいる所で、
右門客神社には、櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 左門客神社には、豊磐窓神(とよいわまどのかみ)がお祀りされています。
中の玉殿は「見世棚構(みせだなかまえ)」の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)になっており、
古くは戎社(えびすしゃ)と云う名で呼ばれていました。
玉殿を良く見ると、細部にわたり違いが有ります、意匠・木鼻、等々
流れ造り・・・・・屋根の軒の長さが、手前と奥川で違います、手前が長い作りをいいます。
玉殿の屋根は栃葺きとなっています。

屋根の葺き方
杮葺き(こけらぶき)・・・・・・最も薄い板を使用する(2~3ミリ)
木賊葺き(とくさぶき)・・・・・杮葺きよりも厚い板を使用する(4~7ミリ)
橡葺き(とちぶき)・・・・・・・・最も厚い板を使用する(1cm~3cm)、大和葺き(やまと)とも呼ばれるが

大国神社
厳島神社の摂社にあたり、ご祭神は「大国主命」がお祀りされています。
大国主命は、「国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神」です
一段高い幣殿の右側が、昔 「神饌(しんせん)」の仮案所」で御本社裏の御供所から運ばれて来た神饌をここに置き
ここから先は「内侍」が運び本殿にお供えしました。
黒塗りの格子戸がありますが、これにまつわる面白い話があります
一説によると、大黒様は耳が不自由だったので、願掛けをする際には、この格子戸「コト・コト」と動かして、音を立ててから
お願いしないと願が通じないとも言われ、「コト、コト 大国様」とも呼ばれています。
なおこの神社は、「二礼四拍手一礼」となっています、神社本殿は二礼二拍手一礼、です。
四回も拍手を打つのは、お耳が遠いからと言われています。(ちなみに伊勢神宮は八拍手です)

4拍手の神社は全国で4か所となっています
1 弥彦神社(新潟県)
2 出雲大社(島根県)
3 祐徳稲荷(佐賀県)
4 宇佐神宮(大分県)

二拝二拍手一拝
拝礼を行う前後に、一般の会釈にあたる「揖(ゆう)」を行う。
「揖」には、「深揖(しんゆう)」と「小揖(しょうゆう)」があり、神前では深揖(45度身体を折る)を行う
「拍手」は神道では「かしわで」と言う。
伊勢神宮については
「八度拝・八開手(はちどはい、やひらで)と称し、起拝を5回行い、拍手を8回打つ」
八度拝・八開手は祭祀の際に神職が行うものとされていますので、一般的には「二拝二拍手一拝」でよいです。

なお、手を打つ仕草があるのは 日本 だけです
明治4年時の政府により二礼二拍手一礼は強制されましたが、昭和21年解除されました。
この時の名残が現在も残っています。本来何拍手でも良いようです。

長橋(国の重要文化財)
長さ33m、幅3m、橋脚には「赤間石(安山岩)」が使用されている。以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいましたが明治11年に
長橋」と云う名前になっています。

橋を渡りきったところに、「石柱」があります
明治の探検家、「松浦武四郎(1818-1888年)」は天神信仰に篤く、全国の「天神社」25箇所を参拝し、
明治17年10月に「聖跡25拝の石柱」を寄進しています。
北海道を命名した人。
以下、武四郎 について、簡単に触れておきます

松浦武四郎(1818-1888) 江戸時代の探検家 70歳没
三重県出身、 28歳の時に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた、
今の北海道に初めて渡る

アイヌ民族と寝食を共にし、協力してもらいながら13年間で6回の旅をし、
従来よりも詳しい地図や記録を残した。

明治の時代になり、蝦夷地の名を変える際に、
政府の役人となっていた「武四郎」が、
「北加伊道(ほっかいどう)」と言う名前から、
現在の「北海道」に決まる(1869年明治2年、8月15日)
「武四郎」はアイヌ民族の長老から、
「ここに生まれた人を、カイ、と呼ぶ」と教わり
「北にアイヌの人々が暮らす大地」の意味を込めて命名した
アイヌ民族との親交がうかがえる。

札幌、富良野、など現在179ある市町村名の約8割が、
アイヌ語が由来になっているそうだ。
2018年は150年目の節目になる。2020年の東京オリンピックの年には
南部白老町(しらおい)にアイヌ文化の発信拠点となる
国立の施設が完成する予定。


天神社
弘治2年(1556年)毛利隆就により建立されています。
この時は「天満宮」として建立しましたが、後に「天神社」と記しています。全国には約12.000社あると言われています。
御祭神は「菅原道真」がお祀りされています、学問・受験の神様です
ちなみに、道真の起源は「天神社の祭神の内の一人、天穂日命」であります
京都から博多までの間に、特に菅原道真にゆかりの深い社を「聖跡25拝」と言っています。

菅原道真・・・・・「菅原家」は「天穂日命」に起源を持ち、曾祖父古人(ふるひと)の時代に学問をもって朝廷に仕える家柄となる。
祖父「清公(きよきみ)」は私塾を設け、同所から朝廷の要職に数々の官人を出し、菅原家は一大学閥となる
宇多天皇のときには大変重用される。(道真は正論を掲げ、天皇であっても遠慮なしに進言していた、これが
宇多天皇に重用されるもととなった、一つには香川県・讃岐国に栘封されて世の中の見方が変わったとも言われている、しかし九州の
太宰府に送られての2年間(59歳で亡くなる)は、一切の恨み言は言わなかったと言われる。  醍醍醐天皇の時には右大臣(律令制においてはナンバー2)にまで上り詰める。
江戸時代の年号は、ほとんど道真の子孫により名が付けられた、幕末の「慶応」はもともとは「平成」の元号になるはずであった。
* 60代 醍醐天皇の時、藤原時平の陰謀によりに讒訴(ざんそ)され大宰府へ送られる。 
讒訴(ざんそ)・・・虚位の告発を行って貶(おとしめる)める事を言う
素木(しらき)造り・桧皮葺きの入り母屋の造りとなっています。
明治の中ごろまでは、ここで「連歌の会」が開催されており、別名「連歌堂」と呼んでいます。
ここで行われる「連歌」は100の連歌と繫げる「100韻連歌」が行われていました。
上の句「五・七・五」 下の句「七・七」と繫いで歌うので、100韻連歌とよんでいました。

連歌の楽しみは、人が一つのサランに集まると言う楽しみでもある。 公家や武家・貴族たちが、物好きの僧を交え、
毘沙門堂などに何日も篭って「百韻の連歌」のどを完成する。この様な時のサロンの楽しみは連歌が流行する以前
の人が想像する事の出来なかったものであったと言う。また、連歌の世界も下克上となろ、辺りの百姓や職人、
時には野党のたぐいまでが、それぞれサロンを組んで連歌の興行をするのである。これを「地下連歌(じげ)」と言った
地下の連中は公家や大名とは違い金や物を賭けて勝負を争うのである、その様な連歌のグループが方々に出来ていた
自然「天者(てんじゃ)」は手が足りぬほど忙しい、「天者にならぬ人ぞなき」と言う落書きが二条川原に建武2年の頃でたと言う。

神社本殿にあるまじき作りの、土壁(漆喰塗り)が使用されている、これはあるまじき事で社殿建築
には壁土は使わない(板塀を使用、本殿祓殿を見ると良く理解できる)、本殿との時代差は388年
三方に蔀(しとみ)があって開放的(枕草子などには「御格子(みごうし)」と記されている
(雨風を防ぐ戸は「蔀(しとみ)」形式で戦国時代の建築様式が用いられている。)
漆喰が塗られた室町時代の「武者造り」と呼ばれる建造物。桁行3間、梁間3間の真四角な建物である

能舞台
室町時代末期に出来た比較的歴史の新しい社殿、2001年(平成13年)には世界無形遺産になる。
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永禄11年(1568年)、毛利氏は観世太夫宗節(かんぜだゆうそうせつ)を招き仮の能舞台を海中に設けさせ、「能」を奉納する。
後に広島藩主となる、福島正則が慶長10年(1605年)に能舞台を寄進する、現在のものは宝暦8年(1680年)第四代広島藩主の浅野綱長により、舞台と能楽屋、橋掛かりが造立されたものです。
特徴としては、日本で唯一海中に建立されていることで、切妻造りである
笛柱が独立しているのも特徴の一つです。
海中にある為、本来床下にあるはずの共鳴音を出す為に置かれている「甕」がありません、代わりに床下の根太が
三角形でその上に床板を張り、大きく響く様に工夫してあります。
ここで、能が舞われる日にちは決まっており、毎年4月16・17・18日の三日間行われます、
桃花祭神能といいます、当日は廻廊と同じ高さで、「海中」に桟敷が作られ、そこで能を見ることとなります。
能を見る「料金」は別に無く、厳島神社への拝観料として「300円」支払いますが、これで「能」を見ることが出来ます。
初日と二日目は始めに「翁」が舞われ、三日間とも五番立てで、間に「狂言」が入り、江戸時代から続く本式な能を見ることが出来ます。
重要文化財の指定を受けている、六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台はここだけです。

能の起こり
毛利元就によって、永禄6年(1563年)を始めにして度々奉納されている
永禄11年(1568年)には観世太夫が下向した際に、
「前略、江の中に舞台を張らせて九番の演能あり、その後、棚守房顕の屋敷で舞台を張らせて十一番を演じた」
と「棚守房顕記」に記されている。
毛利元就に替わり福島正則が芸州の藩主となり、その後は紀州より浅野氏の支配下になった頃から
厳島は藩直属の「宮島奉行」「宮島元締役」「宮島帳元」が置かれ、また交通機関の発達と共に、
神社を中心とした「観光地」の性格を帯びるようになった。
春・夏・秋 の三期の市も立ち、「福島」「浅野」の時代を通して演能が行われ、宮島は次第に賑やかさを増す。

明治時代になり祭典が「新暦」となり、春の大祭を「桃花祭」とし、従来の3月15日を一ヶ月遅れの
4月15日にして、16日から3日間を「桃花祭神能」とする。

16日(初日) 喜多流 *
17日(2日目) 観世流 *
18日(3日目) 喜多流 *


初日と2日目は最初に、天下泰平、五穀豊穣を願う「翁」が演じられ、3日間とも「5番能」が演能される
(時には他派が演じることもある)