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‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
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日比谷公園のホセ・リサール博士像に勇気と力を…「マラミン・サラマッポ!Maraming Salamat po!」

2015年05月23日 | マイ・ライフ in 調布市

ホセ・リサール博士の日本滞在記念碑と胸像 in 日比谷公園

Dr. Jose Rizal's monument and bust in Hibiya Park, Tokyo

Taken on May 22, 2015 @ 12:17

 昨日22日、東京駅近くでの用事をすませた後、日比谷公園にある、フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日本滞在を記念とする碑と、ブロンズ製の胸像を探しに行きました。
 日比谷交差点から、日比谷公園を日比谷通り沿いに1~2分歩くと、すぐにその記念碑と胸像が見つかりました。感激…!ずっと、一度お訪ねしたいと思っていた場所でした。リサール博士は、マニラの私の古い親友(Eurasian・ユーロシアン)の高祖父様なのです。ようやく、ここへ来ることが出来ました…。

 

 ホセ・リサール博士(Dr. Jose Rizal・1861年6月19日~1896年12月30日)は、スペインからの独立運動に命を捧げた「フィリピン独立の父」、国民的英雄です。1888年2月に、現在の日比谷交差点付近にあった東京ホテルに滞在したことから、その場所に1961年6月19日に記念碑が設置されました。何と、ホセ・リサール博士、ご生誕100年の記念すべき特別な日に…です!

 リサール博士の胸像(上の部分)は、1998年5月8日に、フィリピン独立100周年を記念して作られたものです。

 

日比谷公園ホセ・リサール Jose Rizal 記念石碑

 実物大に作られたというこのブロンズ像、決して大きいとは感じられない胸像ですが、その端正なお顔立ちを眺めていて、大きな勇気と力を与えられたような気がしました。そして、フィリピンで15年間もロング・ステイさせていただいたことに、たくさんの方々に支えられてきたことに、自ずと感謝の念が湧いてきました。
「マラミン・サラマッポ!Maraming Salamat Po!」(本当に、ありがとうございます。)


(フィリピン独立100周年を記念して、ホセ・リサール博士の胸像が増設された。)

 1898年6月12日、「エミリオ・アギナルドーEmilio Aguinaldo」というフィリピン独立運動の指導者が、3百年以上続いたスペイン統治(植民地)に終止符を打つべく、フィリピンの独立を宣言しました。
 その前年1897年末、スペインとの和平協定を結んで香港に亡命、一旦は独立運動から離れたアギナルドでしたが、翌1898年2月に勃発した米西戦争(アメリカとスペインの利権争い)で事態が急変します。アメリカから、フィリピンの独立に全面協力することを条件に、米西戦争に協力するようにとの要請を受け入れたアギナルドは、米艦隊とともにフィリピンに帰国し独立運動を再開、この6月12日の独立宣言となったのでした。
 アギナルドは、その翌1899年1月にフィリピン共和国を樹立、初代大統領となりましたが、実はその1か月前にスペインとアメリカとの間で結ばれたパリ講和条約で、フィリピンの領有権がスペインからアメリカに、約2千万ドルで売却されていたのです。
 実質は、戦後1946年7月4日に第3次フィリピン共和国として独立するまで、アメリカの統治下(1942~1945年の3年間は旧日本軍の占領下)にあった訳ですが、フィリピン国民にとっては、その6月12日が「独立記念日-Araw ng Kalayaan(Independence Day)」として大切にされており(祝日)、毎年記念行事が盛大に行われています。現在の国旗と国歌も、その時にアギナルドの依頼によって作られたものです。

 そして、そのスペインからの独立運動の闘士として、フィリピンの国民的英雄とされているのが、「ホセ・リサール博士-Dr.Jose Rizal」です。
 スペインの圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状、諸問題を厳しく告発した『ノリ・メ・タンヘレ-Noli Me Tangere(我に触れるな)』(1987)と、『エル・フィリブステリスモ-El Filibusterismo(反対者)』(1891)の二つの著書は、フィリピン独立への気運を高め、自らも1892年に「フィリピン民族同盟」を設立して、フィリピン人の奮起を促そうとしますが、まもなくスペインに対する反逆罪で逮捕され、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan)へ追放されました。その流刑の地にあってさえも、四年間、リサール博士は病院と学校を作り、住民の啓蒙に努めました。
「学校を苦痛の場所ではなく、知的な楽しみの場所にしよう。」「何よりもまず、子供たちに、自信、安心、自尊の心を教え込む事が大切だ。」また「私は大衆の福祉を愛する。だからこそ学校を建てるのだ。その幸福を、教育を手段として、順を追った前進によって私は追及していく。光のないところに道はない。」という、博士の強い意志で建てられたその学校で教わった生徒たちは、後に各方面でのリーダーとなり、博士の教えを周囲に伝授していったそうです。
 1896年7月、流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに渡りましたが、フィリピンでは「カティプナン」による独立闘争が開始され、その扇動容疑でスペイン到着と同時に逮捕されてしまいます。マニラに送還され、サンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により銃殺刑が宣告されます。
 1896年12月30日、「あけぼのを染めるのに紅がいるのなら、私の血で染めよ、頃よい時にまき散らし、さしのぼる君の光で金色に照らせ!」という言葉を残して処刑されました。
 アギナルドの独立宣言の1年半前のこと、享年35歳という若さでした。国内のみならず、アジアの民族運動にも影響を与えた方です。
フィイリピン独立記念日に…。(111周年)より-
(2009年6月12日 in アイ!サラマッポ in バギオ

 マニラのリサール博物館に展示されているこのお写真…。「Usui Seiko・臼井勢以子」さん(おせいさん)という方で、リサール博士が東京に来て恋に落ち、日本滞在を40日間にも延ばした、といいます。


Usui Seiko, A daughter of a powerful Samurai.
She was better known to Rizal as Osei-san.
(ホセ・リサール博物館 in Manila)

 名残惜しくも、そこを離れようとすると、何やらクラッシック音楽の生演奏が…。ワーグナー・Richard Wagnerの『ローエングリーン』の第2幕より…。ちょうど、日比谷公園内の野外小音楽堂で、東京消防庁音楽隊による都民コンサート(金曜コンサート)が開かれていました。

しばらく演奏を楽しませていただき、帰路に…。

 ちなみに、リサール博士は、おせいさんと日本での長きに渡る滞在を堪能された後、ドイツへと向かったとのことです。

(参考)当ブログより

ホセ・リサール博士ご生誕150周年のフィリピン独立記念日 in 2011
2011年6月12日 

フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日
2008年12月30日


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