チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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  人知の見直し。 すべては、「しあわせ。」のために:チャンネル桜・瓦版、AIIBは空中分解に

2015-07-25 14:57:55 | 悔いのない人生

    <人知の見直し。 すべては、「しあわせ。」のために>

 たとえば、我々は、幸福な人生、幸福な生活を望んでいる。

 だが、『幸福』とは、2つの側面がある。  1つは、「しあわせ。」という側面、いま、1つは、「さいわい。」という、側面である。

 「しあわせ。」(ハッピー)とは、余計な心配、気苦労がない(心が、『穏やか。』な)状態である。

 また、そのような形で、心の『平安』(カンフォート、アパディア)が、保たれている状態である。 

 「アパディア。」とは、ギリシャ語で、心が、騒がない、つまらぬことに、血が、騒いで、カッカ、ポッポしない状態ということ(アとは、かけているということ。 パディアとは、パッションのこと)である。

 これに対して、「さいわい。」(ラッキー)とは、『運』のいいことである。 

 この2つを合わせて、『幸福』(フェリシティ、あるいは、プリス)というのである。

 つまり、人間の目標は、『幸福』にある、ということであるが、あいにくなことに、「さいわい。」(運がいい)の方は、ことがことだけに、我々の力だけでは、いかんともしがたい。 (…と考えられているが、しかし…。)

 たとえば、万一のときに備えて、力を蓄えておくとか、いい友達をたくさん持っている、ということぐらいが精一杯のところで、それ以上は、どうしようもないわけだ。 (…しかし。)

 だが、「しあわせ。」の方は、我々が、その気になれば、いつでも実現できる。 (う~む、そうだろうか? )

 すなわち、そのために、『知』をこやすことに、つとめれば、いいからである。 (果たしてそれで、できるのか…?)

 その『知』をこやすことを、不精がっていたのでは、知的に怠けていたのでは、「しあわせ。」など、いつまでたっても、くるものでは、ないのである。 すなわち、『知る』ことが、「しあわせ。」への、第1歩だということである。

 人生は、努力7分、運3分と言われる。 (果たして、そうか?)

 ということは(もしそうであると、仮定すれば…)、努力によって、『幸福』の7分は、手に入れることができる、ということである。 (これは、疑問である。 人生においては、『努力』≠『成功』であり、『成功』≠『幸福』では、ないのか?)

 しかも、その『努力』のそもそもは、『知る』ことから、はじまるのである。 『知る』ための努力をしないで、ただ、くそ頑張りの努力だけでは、仮に、一時的には、何とかなっても、それを、「しあわせ。」とはいわない。

 『よく』知り、よく学ぶことが、人の「しあわせ。」を左右する、わかれ道なのである。  (なるほど。 この『よく』、というところに、単なる、『知識』ではなく、「生きるための『智恵』。」を知り、『良く』学ぶことが、大切なわかれ道である、というわけで、ありましょうか…?)

 だが、『知』(生きる知恵)を求めたから、『知』をこやしたからといって、これで、「しあわせ。」になれるかというと、そうではない。

 いくら、ものを知っていても、いざという時に、『対応』(実践)に失敗したり、物をろくにつくれなかったり、「心の『平安』。」(これが、キーワード)を保つことに失敗(感情的になる)したのでは、何もならない。 

 その意味で、これからの『知』(知恵・生きるための仕組み)は、「哲学主義。」、「教養主義。」を超えなければならない。

 また、そういうことで、『知』を生活の中で、上手につかうこと(実践)を、考えなければならない。 

 その『知』(知恵・真理)を、生活の中で、生かすことを、『実践』(プラクシス)という。

                    以上


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