<支離滅裂な、『哲学』の『知性論』>
『知性』についての専門家の先生たちの考え方が、いかに支離滅裂で、いい加減なものかは、次にいくつかの説明によっても明らかである。
【 「広い意味。」では、感情、医師などに対して、知る能力を意味する。
この場合、対象との直接的な接触から生じる感覚は、『知性』の最も基礎的なものを示すが、知るということは、完全な形では、思考にまで、進まなければならないから、感情に与えられた材料を加工する能力、つまり思考力を、とくに、『知性』とよぶことが多い。
これは、狭い意味での知性であって、感性に対する概念であり(??)、広い意味での理性とほぼ同じ意味であるが、悟性の意味に用いられる場合もある(??)。】(岩波『哲学小辞典』)。
【 「広い意味。」でいうと、感情や意志に対立して、感覚、知覚、直感、悟性など、一切の、いわゆる知的に働く、働きであるが、「狭い意味。」では、知覚が、与える材料に加工し、整理し、統一して、認識を、成り立たせる働きとしての、理性と悟性を、ひっくるめていう。】(原富雄【東西哲学思想時点】) (むむむ。 何じゃこれは…?? 正気ですか~。)
そのわけのわからなさは、さきの『悟性』の場合と同じ。
これでもって、『知性』とは、何かが、はっきり(判明=ディスティンクト)、すっきり(明晰=クリア―)「分かった。」ら、えらいもの。 誰も、「わかる。」人はいまい。
岩波の『小辞典』は、『知性』を広い意味でのそれと、狭い意味でのそれとに、わけている。
またしても、『広い』、『狭い』である。
「素人が、つかう。」ならともかく、「いやしくも。」その道の専門家のつかうことばに、そんな『馬鹿』なことが、ある筈はないのである。
何よりも、感情や意志と関係なく、単に「知る能力。」をもって、広い意味での『知性』としているのが、おかしい。
何故なら、これは、『知性』でなく、『知力』だからである。
次に、その「知る能力。」から、思考力だけを、特別に切り離して、これを狭い意味での『知性』としているが、これも、武器の中から、とくに、『刀』だけを取り出して、それを狭い意味での『武器』といっているのと同じく、ナンセンスなこと…。
「思考力。」も『知る』能力のうちであって、これだけを、とくに、重く見なければならない理由は、ない筈なのである。
おそらく、「思考力。」を『感性』と、はっきり切り離したかったからのことであろうが、そんな変に、肩肘の張ったことをしたから、狭い意味での『知性』(思考力)は、この『小事典』自身も、認めているように、忽ち、『理性』(広い意味での)に紛れ込むどころか、『悟性』ともこんがらかるという、あられもないことになってしまったのである。
一体、どれが、本当の『知性』かということである。
なぜ、そんなわからぬことになったのか?
それは、広い意味での『知性』、つまり、「知の能力。」を、『もの』にぶつかり、それを、キャッチし、それを、見分けたり、あるいは、それを、『悟性』的にとらえたりする、一連の『感覚』の働き、そのものと、「取り違え。」てしまったからである。
「対象との直接的な接触から生まれる感覚は、知性の最も基礎的なもの。」という、いい方の中に、そのことが、示されている。
問題は、その『接触』という、ことばの意味で、そこには、『もの』をキャッチ(『知覚』としてすること、あるいは、『もの』から、何かを(クオリティ=接触感を)感じる(感覚として)こと、さらには、それを「見分ける。」(「共通感覚。」として)こと、『もの』を直感的に『知る』こと(『悟性』として)などの、いろいろな『感覚』の働きが、いっしょくたに、詰め込まれているのである。
『小辞典』は、その『感覚』の『接触』の全てをもって、『知性』の基礎、「知る能力。」の基礎としているわけだが、それが、「とんでもない。」事実『誤認』なのである。