日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

Ⅱ第10話 豊臣秀吉の出自

2013-04-11 | 日本史
 信長の前に秀吉が仕えたと云う松下之綱の遠祖は鎌倉末期に三河・碧海郡松下郷を本貫とし、之綱自身は遠江・引佐郡曳馬城主・飯尾連龍の配下であったが、飯尾連龍こそ桶狭間合戦後の遠江における親今川派と反今川派との抗争を激化させた張本人であって、連龍は鎌倉幕府の吏僚であった三善氏の流れを汲むと伝える。
 飯尾連龍が激化させた遠州錯乱の契機とは井伊谷城主・直平を毒殺したことであったが、『寛政重修諸家譜』は井伊氏を藤原冬嗣・六子とする良門の息・利世より派したとするも、新井白石の『藩翰譜』は藤原利世の実在性に疑念を呈している。
 松下之綱が遠祖の本貫地とする碧海郡松下郷は松平氏の本貫地が在る賀茂郡とともに現在は学校教科書で頻見する信長の肖像を蔵した長興寺も所在する豊田市に編入されており、長興寺は鎌倉幕府で評定衆を務めた中条家長の後裔が営んだ高橋荘内に幕府滅亡直後中条氏によって建立された名刹である。
 中条家長は武蔵・多摩郡下にて船木田荘を営んだ横山党の流れを汲むとされ、横山党の源流は近江・滋賀郡を本拠とした小野氏より派したとされる。
 小野氏はまた大和・添上郡を拠点とした春日氏より岐れたとされ、後醍醐帝が正中の変にて幕軍に抗い立て籠もった笠置山麓に位置する添上郡柳生郷に在地した宗厳の息・柳生宗矩の許へ松下之綱の女は嫁している。
 和田義盛の姻戚であった横山時兼は義盛の蹶起に因り党を喪う憂き目に遭うも、時兼の次弟・広長は多摩郡平子(たいらく)郷を本貫としながら同国久良岐郡へ移徒し、上総介広常の粛清後に和田義盛が拠点を移した上総と対い合う久良岐郡和田郷の尾根続きに現代の港街を俯瞰して高爽な台地上に平楽の字名を今に遺して、平子氏は相模・鎌倉郡長尾郷を本貫とする長尾氏の配下として越後へ入部しており、横山党の滅亡から免れた同族として中条家長や平子広長の他には、愛甲郡依知郷小字本間を本貫とした本間氏が北条得宗被官として佐渡へ入部している。
 平安末期、藤原伊周の家令を務め、主家の失脚直前に辞して関東へ下野した有道惟能の後裔とする在地領主らが蟠踞した武蔵・児玉郡と隣接した地に割拠した猪俣党は横山党より分岐したものと伝え、治承・寿永の内乱に参戦したとされる児玉党・庄弘高の息らとして横山党の中条家長と諱を等しくした庄家長や横山党の族滅から免れた平子広長と訓を等しくし児玉郡四方田郷を本貫としながら史家より実在を疑われる弘長などの名が『武蔵七党系図』児玉党条に見られ、庄家長・四方田弘長兄弟の末にやはり四方田郷を本貫としたする高綱なる名が見え、高綱の息はまた景綱とし、恰も鎌倉末期を生きた内管領・長崎円喜の諱とする高綱や北条得宗被官の筆頭となった尾藤景綱の諱を連想させる。
 長崎氏の祖は一般に平三郎兵衛尉盛綱とされるが、中条家長の養父であった八田知家は藤原伊周の叔父に該る道兼より派したとする宇都宮氏の流れとして、『吾妻鏡』に拠ると源頼家の下命により北条時政の孫に該り、頼朝の異母弟とする阿野全成を斬っており、阿野全成の同母兄である義円を墨俣で討ち取った者は平家の郎党・平高橋左衛門尉盛綱と伝える一方、武蔵・児玉郡と隣接する加美郡阿保郷を本貫とした安保実員の女が生した北条泰時の次子・時実を殺害した者は得宗被官であり京洛・高橋を在所とした高橋次郎なる者であった。
 しかし、児玉党・庄家長の長子とされる頼家の名は『吾妻鏡』のみならず史料的価値の低いとされる『源平盛衰記』にも顕れながら、頼家の遺領はその次弟に継承され、また頼家・次弟の後裔は秩父郡下へ移徒して、不思議な感じがする。
 結局、後世に児玉党の嫡流とされた流れは庄家長の四子・時家の後裔とし、時家を以て本庄氏祖としているが、『続群書類従』所収の桓武平氏系図を除き同書に拠る北条系図を始め14世紀に成った『尊卑分脈』や近世に編まれた『系図簒要』は北条四郎時政の父を挙って四郎大夫時家としている。
 此処で『武蔵七党系図』児玉党条に刮目すべき点は、庄頼家・本庄時家の末弟として記される家綱の後裔が中条姓を称したと伝えることである。

 若き秀吉が仕えた松下之綱は飯尾連龍の配下から家康の許へ参じているが、桶狭間に兵を進めた今川義元の先陣を務めた将は飯尾連龍が毒殺した井伊直平の孫となる直盛であって、今川方の最前線基地への兵站を務めた将が家康であったことはよく知られている。
 井伊直盛の戦死に因り直盛の従弟となる直親が井伊氏の家嫡となるが、直親の父は今川義元に家康への内通を疑われて誅殺され、直親自身もまた家康との内通を小野道好により今川氏真へ進言され誅殺されており、井伊氏は直盛の女を男子の諱を称えさせ家嫡としている。
 直親の嫡子・直政が井伊氏の家嫡となるのは家康が遠江を接収して後のことであり、直親が父の死後に信濃へ落去したと伝わる点や直政もまた漂泊を余儀なくされた点が重要なことは後述するが、松平氏の発祥地を鎌倉期より室町期に亘って領知した中条氏は小野氏の流れを唱えていた。
 巷伝には若き秀吉やその実父もまた山窩であったとする説を見て、信長の家中に加えられた秀吉との盟友関係を伝えられる蜂須賀小六の伝と相俟って、内管領・長崎円喜が傀儡を駆使していたとの伝を想起させる。
 本間氏が入部した佐渡へ幕府より流刑とされた日蓮が関東へ戻る途次、日蓮を自邸に歓待したと伝わる児玉時国の邸址と伝える埼玉県児玉郡児玉町の地は字名を連雀とし、連雀とは往古の行商人を意味して、信長の宿将・丹羽長秀は尾張・春日井郡児玉郷を在所としたが、長秀は信長の後継を決定する清洲会議にて柴田勝家に抗い、池田恒興とともに秀吉に与している。
 長秀の息は関ヶ原合戦時に西軍に与し、池田恒興は長久手合戦にて豊臣方として有道惟能の母方祖父・平公雅の後裔とする永井直勝により討たれながら、家康が"危難の伊賀越え"を演じた地に授封された豊臣大名の藤堂氏と等しく、池田恒興の息もまた有道氏を出自とする赤松氏の旧領に授封され、丹羽氏は郡山市と福島市の中間に位置する二本松へ封ぜられている。
 二本松近傍には磐城郡下の好島荘に所職を持つ伊賀氏の娘が生んだ北条義時の息・有時の後裔が領知した伊具郡が在り、伊具郡に隣接して有道氏の前身たる丈部を管掌した阿部氏に関わりの有りそうな阿部柴田臣が古代に在地した柴田郡も見られるが。
 伊賀氏とともに磐城郡下の好島荘に所職の有った大須賀氏は千葉常胤の息・胤信を祖として下総・香取郡大須賀郷を本貫とする武家で、家康の先手旗本四将の一たる大須賀康高を派しており、また香取郡下を流れる大須賀川畔には堀籠の字名が見られ、大須賀川源流の字名である伊能は三善氏より派した飯尾氏の元来の訓である。
 陸前・黒川郡には豊臣秀吉・帷幕の将と謳われ美濃・不破郡関ヶ原を領知した竹中重治の出自となる相模・三浦郡長柄郷を本貫とした長江氏とともに阿野全成の後裔となる堀籠氏も入部し、さらに黒川郡北方に位置する北上川の支流・江合川流域では戦国期に至るまで児玉党・四方田氏が威勢を揮っており、本能寺への寄せ手に四王天(四方田)政実・政孝なる将らの名が見られる。猶、丹羽長秀の息として藤堂氏の猶子となった者の後裔は伊賀から大和へ抜ける途次の名張に陣屋を構え、藤堂氏の分家として独立している。

 明智光秀・股肱の臣であった斎藤利三の母は遠江・佐野郡石谷郷に在地し、鎌倉二代将軍・頼家の親裁停止後の幕府宿将十三人による合議制に加わった二階堂行政の後裔とする領主へ再嫁して長宗我部元親室となる娘を生しているが、先夫との間に生した利三の兄を石谷氏の嗣子と為し、先夫との間に生した長女は室町幕府政所代の蜷川親長へ嫁しており、親長は松永久秀が将軍・義輝を弑すと丹波・船井郡下の所領を喪い、長宗我部元親を頼っている。
 斎藤利三は娘らを柴田氏や稲葉氏へ嫁し、その中、稲葉氏より生した孫が春日局であることは周知のことであり、稲葉氏の起源は稲葉山に城を築いた二階堂行政の女婿として伊賀氏祖となる佐藤伊賀守朝光が城を譲渡されたこととされるが、伊賀氏祖が佐藤姓を旧称とした所以は下野・安蘇郡を本拠とした藤原秀郷の流れを汲み佐野荘内に在地したことを因とするとの説を見る。
 下野・安蘇郡を発祥地とする佐藤氏より派した武家が南北朝期に北朝方にて権勢を揮う仁木義長を守護とした伊勢・一志郡榊原郷へ入部した榊原氏であり、家康の旗本先手四将の一たる榊原康政の出自となる。
 斎藤利三の実兄が入嗣した石谷氏は朝廷の理財を鎌倉末期より担った山科家を領家とする遠江・佐野郡下の西郷荘代官を任じた西郷氏と交誼が有ったと考えられ、西郷氏は仁木義長が肥前に赴いた頃その被官となって三河・守護代を任じた武家とされ、西郷氏の源流は有道惟能が家令を務めた主家の弟・藤原隆家の流れを唱えて肥前に蟠踞した族であった。
 蜷川親長が所領を喪った丹波・船井郡は若狭湾に注ぐ本邦屈指の氾濫河川である由良川を派す奥丹波の氷上郡や篠山盆地を擁する多紀郡と接しているが、この船井・氷上両郡境を成して本州島で最低標高の分水嶺を越える途次に築かれた黒井城を拠点とした族こそ、本能寺への寄せ手に加わった赤井氏であり、遠江・榛原郡に在地した葛俣氏を出自とし、武田信玄より小幡姓を与えられた甲州流軍学祖が戦国三将に挙げる一が"丹波の赤鬼"と呼ばれた赤井直正であり、更に三将の一を長宗我部元親とする点には遠江に在地した武家らの源流を示唆するものが有る。
 鎌倉初期の人物・足立遠元の後裔が在地した丹波・氷上郡下には芦田の字名が見られ、江戸幕府の『寛政重修諸家譜』はこの芦田氏を信濃・水内郡を本貫とするも、何かを隠蔽せんと図る幕府の意図が感じられ、芦田氏の真の出自は平安最末期に信濃・佐久郡下の依田城拠った武家より派し、室町期に小県郡下の滋野一党より奪取した芦田城へ入った者らの後裔である可能性が有り、赤井直正が後見した赤井氏惣領は丹波の領知を信長より下命された明智光秀の臣・斉藤利三が赤井氏の本拠・黒井城を接収すると、遠江の眷族を頼って後、信濃に在地した芦田氏の許へ隠棲していた処、関ヶ原合戦直前に石田光成の配下に転じた旧臣よりの書翰を家康へ献じ、戦後、大和・十市郡下に所領を得ている。
 斉藤利三の妹を正室とした長宗我部元親の子・盛親は関ヶ原合戦に臨み東軍へ与するべく甲賀口へ向かった処を水口を采領していた丹羽長秀の旧臣・長束正家に阻まれ、長宗我部軍は正家により合戦場の遥か外へ誘導されている。
 長宗我部盛親が関ヶ原合戦を前に家康の許へ差遣した士は十市新左衛門なる者であったと伝え、有道氏の系譜を伝える古文献は大和・十市郡に発祥した古族と有道氏の源流は祖を等しいものとする。
 南北朝期頃に成ったと思われる文献では、春日大社に奉仕する氏子として大和国内の在地領主らの名を列記しており、十市氏の直後に柳生氏の名が見える。

 三河譜代の臣らを越え家康麾下の将ら筆頭格に遇された井伊直政の父・直親は今川軍の先鋒を務め桶狭間で討たれ、信長の宿将であったが太閤殿下の下命により長久手で戦没した池田恒興の息・輝政は赤松氏の旧領へ封ぜられ、長篠合戦にて寄せ手であった小幡氏は遠江在地の葛俣氏の流れとは異にして上野・甘楽郡小幡郷を本貫とする有道惟能の後裔だが、籠城した側の奥平貞昌とは祖を等しくし、信玄麾下の"赤備え"部隊を小幡氏と分かち合った山県昌景の後裔が彦根藩主に仕えたように、小幡氏が奥平氏を主とする中津藩に仕えている点、自らの生命を犠牲に後裔の生命の保障を家康に託したかと想像したくなるような構図を類似させている。
 大阪・奈良に次いで大規模な古墳が集中する群馬県南西部は往古に東山道の通う交通の要衝であったが、711年緑野郡・群馬郡より割いて新設された多胡郡に鎌倉初期多治比姓を称えて多胡荘を営む族が見られ、古代・河内王朝の在った河内・丹比郡を本拠とした古族・多治比氏を出自とした葛原親王は桓武平氏の高祖・高望の祖父とされ、葛原親王の家令を務めた常陸・筑波郡を出身地とする丈部氏道の後裔とする奥平氏の本貫もまた同郡下に在り、多胡郡にはさらに"多比良"姓なる在地領主が在ったと伝える。
 多比良姓における良とは多治比の良血を伝える意とともに列ぶ意としての羅の音を藉りた字と考えられる。
 後醍醐帝の息である護良や懐良、宗良の訓を"よし"とする説に対しても、後醍醐帝の血が"ながれる"意として旧来の"-なが"と訓ずるの正しいと思われる。
 北条時政の出自を示唆する『愚管抄』巻第六の一節は、"ミセヤノ大夫行時"なる者が同族の子弟を猶子としたことを記している。

 『武蔵七党系図』児玉党条は有道惟能の子・経行の更に子となる行時が上野・多胡郡片山郷を在所としていたと記し、九条兼実卿の日記『玉葉』は文治元年に源義経を京都の逗留先であった堀川に真下某が渋谷昌俊に引率され襲撃した記事を伝えるが、有道惟能の後裔として児玉郡真下郷を在所とした者を基直と伝え、写本に依っては基行とも伝える点、行時が猶子とした同族の子弟とは真下基直=基行であったように思われる。

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