すぐに答えを知りたくなるのは、忙しい現代人にとっては当たり前なのでしょうかね!?
でも、簡単に知ってしまった答えは、簡単に忘れてしまうものでしょう。
苦労して得たものは、そんなに簡単には手放さないのではないでしょうかね。
・
それを私が理解できたのは、50代の頃だったように思います。
それまでは、聞かれたら即座に答えを、あるいは自分自身の考えを伝えていましたね。
私が変ってきたのは、母がきっかけです。
「足が痛い、足が痛い、病院に行ってもよくならない!」と、母が言い出したので、(以前紹介した)マツバラ仙方堂に連れて行ったのがそのきっかけです。
マツバラ先生は、すぐにその原因を見抜き、30分程度の治療で終了しました。
母は、「おや!痛くない、治った!」と、喜んでいました。
でも、それで終わりです。
次に同じような問題が起きても、それまでの病院を頼りにしているんですね。
当時、母は70代の真ん中あたりだったかと思えるので、まあ、それはそれで仕方がないことでしょうが、
○あれだけ病院に通っても治療できなかった身体の痛さを、マツ
バラ先生はすぐに見破り、簡単に治してくれた・・、
○いったい、どうなっているんだ、この世の中は!?
○いったい、病院は何のためにあるんだ。
○病院と治療院とは、どのように住み分けているのか?
○マツバラ先生とは、いったい何物なのだ?
といった風には、考えないんですね。
「痛い!」のが治ってしまうと、それで、THE END なんです。
人間の不思議、世の中の不思議(疑問)に対して、踏み込んでいかないんですね。
私もあと十年もすれば、(同じ年齢になるので、)そのようになるのかもしれませんが、
でもその当時は踏み込んで欲しかったんです。
なので、もっと真剣に悩んでから紹介すべきだったのかな?
などとも考えたんですね。
それで、それ以後は、限界まで我慢することにしたんです。
簡単には答えを与えないことにしたんですね。
簡単に答えを与えると、簡単に忘れてしまう事に気がついたからです。
まあ、「少し身体が痛い!」程度の事であれば、どちらにしてもたいした問題とはならないでしょうが、
これが、例えば「人間の尊厳・本質」などといった問題になると、大問題となります。
それは、特別に母だけに関してではありません。
仕事の上でも同じ対応をしています。
若者が苦しんでいても、限界に近い(と思えるところ)まで苦しませているんですね。
そして、苦しんだ末に掴んだものが何であるか?を見極めるようにしているんですね。
私にとっても、それは苦しいことでもありますが・・・。
(母は現在、近くの老人ホームで元気にしています。食事がとても美味しい、と、喜んでいます。念のために・・)