何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

プロフェッショナル忠史の原点

2015年07月01日 18時25分19秒 | Weblog
写真のギターは、高校生の時に初めて自分の稼いだ金で買った物。大阪のみさき公園にあったゴルフ場で、キャディーのバイトをして買った。

これまでに、沢山のギターを手にして、沢山のギターを無くした。

僕の音楽の歴史を塗り替えていったさまざまなギターはほとんどなくなった。自分で買った物で唯一残っているのが、この高校生の時に買った、春日という製造メイカーのガットギター。高校三年生の時、ラジオ大阪の夕方6時から始まる「ハットでヤンヤン」という一時間半の公開放送に毎週土曜日レギュラー出演していた時使っていたギターがこれだ。当時、7千円ぐらいで買ったような記憶がある。ロック大好き少年で、フォークソングが大流行し始めた頃だったから、エレキギターではなくアコースティックギターではなく、クラシック音楽用のガットギターを買ったのか、今となっては思い出せないし、その時の忠史少年の気持ちはわからない。

まだまだ未熟者でしかなかったが、高校二年生の時はアマチュアゲストとしてラジオ出演させてもらって初ギャラを頂いたが、それはアマチュアミュージシャンへのお小遣いのようなもの。どんな失敗をしても僕が責任を負うことはない、そんな状況で唄うのはプロではない、責任をかせられて、その責任を果たすか責任を取る立場で頂けるものがギャラだと思っているそれがプロだと思っている。

そう言う意味で、高校三年生の時、ラジオ番組の短い時間ではあったがワンコーナーを任せられ、そのわずか3分ほどの時間を自分の責任で進めた。その報酬としてプロとしてギャラを頂いた。毎回緊張しながら、その日の新聞の夕刊に掲載されている時事川柳に番組が始まるまでに曲を付け、本番で唄うと言う企画。世間の事も政治や経済の事もわからない少年が、任された3分の時間を死に物狂いで勤めた。新聞を渡されて本番直前まで、知恵と感性と心の汗を振り絞り、このギターを抱き締めて曲作りをした。

僕のプロとしての原点を一緒に歩き始めたのが、このギターだ。
ラジオ番組が終わった後、サムと言うメーカーのアコースティックギターを使うようになって、このギターの存在すら忘れていた。その後、さまざまなギターを使ってきたが、このギターの以外自分で買ったどのギターも無くしたり壊れたり売り払ってしまったりで今手元にはない。

ラジオ番組が終わって、忘れ去っていたギターが、再び僕の前に姿を表したのは30年後。
親父が亡くなって、高橋衣料品店の倉庫代わりに借りていたガレージを片付けていた時、ガレージの奥に隠したようにこのギターが置かれてあった。


この続きは、また明日。

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