小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ(15)――吉田松陰(1830~1859)その1

2018年01月24日 23時25分09秒 | 思想


 幕末の思想家といえば、まずなんといっても吉田松陰が思い浮かぶでしょう。
 早くから神州不滅を唱え、勅許なしの幕府の開国に憤激したこの早熟の天才は、尊皇攘夷思想の元祖として理解されています。その国を思う至情には、多くの日本人が共感を示してきました。
 松陰が最ももてはやされたのは、戦前・戦中の皇国思想一点張りの時期です。これは当然といってよいでしょう。
 しかし、戦後(GHQ占領統治期間を除いて)になっても彼の大衆的人気は続き、最近のNHK大河ドラマにまで取り上げられています。東京世田谷の松陰神社はすでに百三十年以上の歴史を持ち、文字通り松陰は神格化されているわけです。
 しかし筆者は、吉田松陰という人は思想家としてそんなに偉いのかな、と前から思っていました。あえて悪口を叩くなら、彼は、必要な局面で必要とされる合理的思考を欠き、時々の情緒におぼれがちな日本人の短所をまさしく体現したような人ではないか。
 松陰が二十九歳という若さで非業の死を遂げたことを、早く来すぎた者の悲劇と見ない人はまずいないでしょう。その悲劇は、半分は時勢のしからしめるところで、致し方ない部分がたしかにあります。しかし後述のように、あとの半分は自ら招いたものというべきです。

 松陰は、なぜこんなに人気があるのでしょうか。ここには、不当といってもよいいくつかの理由が考えられます。
 一つは日本人の判官贔屓です。これはまあ仕方がありません。学識において天才性を示した大望の人が、若くして権力による無慈悲な斬首という憂き目に遭ったのですから。

 二つ目に、大義のためには進んで命を捨てる潔さに対する人々の憧れがあるでしょう。
 しかし、この時期、命懸けで事に臨んだ人は、松陰自身、およびその弟子以外でも枚挙にいとまがありません。その立場の良し悪しは別として、高野長英、佐久間象山、橋本左内、横井小楠、桂小五郎(木戸孝允)、後藤象二郎、西郷隆盛、大久保利通、江藤新平、板垣退助その他。
 また幕閣や幕臣あるいは列藩の藩主でも、その種の人はたくさんいました。井伊直弼、阿部正弘、堀田正睦、勝海舟、川路聖謨、榎本武揚、松平春嶽、山内容堂その他。一橋慶喜ですらこの例に漏れないでしょう。ですから、死を覚悟しながら事に臨んだというだけでは神格化されるべき理由にはなりません。

 三つ目に、日本の近代化に貢献したと言われる「元勲」たちの多くが松下村塾の出身者だという事実があります。むろん彼らが松陰の影響を強く受けたことは否定すべくもありません。
 しかし松陰は安政六年(一八五九年)に刑死しており、松下村塾の出身者たち、伊藤博文、山縣有朋、品川弥次郎らが、元勲の名にふさわしい活躍を示すのは、明治十年(一八七七年)前後からです。その間の二十年には、新時代における大混乱と、それに対処する彼ら自身の悪戦苦闘のプロセスがあったのです。それこそが近代政治の基をようやくにして作り上げたというべきでしょう。
 それは、松陰が往時抱いていた思想とは直接の関連はありません。彼は最後に「草莽崛起、豈に他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府、吾が藩も入らぬ。只だ六尺の微躯が入用」(野村和作宛書簡)と極端な精神主義を唱えますが、これは門人たちに反対され、彼らと絶交にまで至っています。彼の属した長州でさえ、彼の死後には小攘夷から大攘夷に方針を切り替えていますし、大攘夷の典型である長井雅樂の航海遠略策が藩論を支配した時期もあります。
 松陰が小攘夷だったと決めつけるわけではありません。彼もまた大攘夷的な戦略の持ち主ではありましたが、その思想の矯激な質において、やはり小攘夷的な側面が強かったと見るべきでしょう。
 また維新後、薩長を中心とした政府は、攘夷とはおよそ無縁な、幕政を受け継いだ積極的開国政策を取っているので、その意味からも松陰の志を活かしたとは言えないでしょう。

 四つ目に、彼がいち早く、来たるべき明治絶対王政の到来を予感し、幕藩体制に替えて尊皇思想を徹底的に貫いたという事績が考えられます。
 けれども、松陰には倒幕を目標として狙い定めた形跡はありません。それは彼の予想だにしなかったことでしょう。
 というのも、松陰の教養の根はもっぱら儒教でした。ですから、その道徳観は忠君奉公の観念の域を出るものではなく、藩主に背くとか、将軍家に叛逆するといった発想はありませんでした。
 たとえば、『野山獄文稿』の中の「浮屠清狂に与ふる書」という文章では、僧・月性に反対して、次のように述べています。

天皇に請うて幕府を討つということについては、これを可とすることはできません。昔より、暴政府を倒すのは、一時の憤激によるだけでは、よく成功するところではありません。……たとえ天下の憤激に乗じて、一朝にして幕府を倒すとしても、わが藩主のなすところが、湯王・文王のなしたこと以上の深切さがなければ、結局天下の兵を動かすだけでいたずらに世間を騒がしたことになるでしょう》(中央公論社『日本の名著31』・以下引用は断りない限り同じ)

 これなどは、むしろなかなか理性的で、松陰の死後、長州の過激分子が京都を擾乱に導いて結局幕府に征伐された事情を、先取り的に戒めるものとなっています。もっとも、死を賭して主君を諌めるとか、君側の奸を排するいう観念は人並み外れて強かったようですが、それは、まさに儒教道徳にも武士道にもぴったり叶っています。
 またその尊皇思想は、もっぱら古代王朝への復帰を目指すものでしたから、当時の社会体制や人民の生活意識には逆行するものでした。
 彼はただ純粋に、神学的に、道徳的に「万世一系の皇統によるよき統治」を夢想したにすぎません。すでに否定すべくもなく強固な基盤を持っていた当時の商業資本による経済システムなどはほとんど念頭になかったのです。それが証拠に、彼は漢籍を模範として引きながら、以下のような「米本位制」を説いています。

諸士で閑職についているものの俸給その他の賞与などは、金・銀・銭や紙幣を支給することをいっさいやめ、米穀や布・絹などをもってする。また漸次紙幣の発行をやめ、これをなくする。》(『武教全書講義録』)

 ここには、商業に対する伝統的な軽侮の念さえうかがえます。ですからそれははっきり言って時代錯誤の代物でした。

 五つ目に、これが一番重要なのですが、彼の思想的な核心は、ただ皇国に対して「至誠」をつくすという一言に尽きます。
 誠さえ貫けばどんな事態も動くというこの精神主義は、多くの日本人をいたく感激させます。松陰の人気は、それを貫いて言行を一致させたというところにあるのでしょう。
 ところがこうした純粋心情の美学は、えてしてその裏側で、合理的な戦略思考や視野狭窄をもたらします。
 たとえば昭和の二・二六事件は、先々の見通しもなく蹶起した青年将校のクーデターです。よく聞かれるのは、その無計画さはともかくとしても、彼らの心情は純粋に憂国の念から出たもので、その志は多とすべきだといった議論です。
 しかしこれは端的に誤りです。
 このクーデターの結果、日本の苦しい経済情勢をいつも巧みに切り抜けてきた高橋是清が殺害されましたし、優れた政治思想家であった北一輝は、直接の関連がないのに、この事変に連座したとして刑死させられました。
 青年将校たちの行動は、激情にかられただけの行動であり、日本の苦境を総合的に見て解決しようとする視野をもたない若気の至り以外の何ものでもありません。

 一時の激情にかられることを戒める冷静な松陰と、神がかり的に皇統への至誠を貫く非合理な精神主義者の松陰。
 彼一身の内にはこの矛盾した両面があったと言えば人物批評としては片づくのかもしれません。けれども思想的に見れば、後者のほうははるかに重要な問題をはらんでいます。それは日本の伝統的な弱点と言っても過言ではないからです。
 敗色濃厚になった先の大戦における無謀なガダルカナル作戦やインパール作戦、片道燃料だけで若い有為な命を次々に死地に追いやった特攻隊作戦、同じく片道燃料だけの戦艦大和の出撃などには、この伝統的な弱点が象徴されています。つまりは、玉砕を進んで多とする思想であり、死の美学によって自分たちの行動を肯定しようとする思想です。
 筆者は二、二六事件や大東亜戦争をけっして道徳的に非難しているのではありません。日本人のこの思想体質が、いざ闘いに臨むにあたって合目的的な思考や巧みな攻略を発出するための障碍となっている事実を指摘したいのです。残念というほかはありません。
 闘いは、勝って生還するのでなければ意味がないのに、そのための戦略を最優先させる前に、まず桜花が散るように、「死の覚悟」を固めることを優先させてしまう――こういう一種の敗北の美学を、大国と渡り合わなくてはならない時に、けっして認めるわけにはいかないのです。(つづく)


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