小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその5

2017年01月31日 11時15分30秒 | 思想

      



日蓮(1222~1282)


「日蓮」と聞くと何を連想しますか。
元寇を予言した人?
時の政権を批判・告発し危うく斬首されかけ、二度の流罪に処せられた受難の社会派僧侶? 
当時の仏教界に新風を吹き込んだ改革者?
戦前の国柱会に見られるような国家主義者? 
それとも創価学会のような大衆折伏主義? (ちなみに「折伏」は本来は、慈悲によって相手の心を包む「摂受」の対義語で、相手の悪を打破して圧伏することを意味します。) 
さてこれらの観念連合は、どれも一面だけを誇大にとらえたきらいがあり、またそこには誤解もあるようです。

 日蓮は、安房の国(千葉県南房総)の漁民の出ですが、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』などを見ますと、自分がそうした「下賤の出自」であることを相当気にしていた様子がうかがえます。この書は彼の他の著作と同じように、汚辱にまみれた末法の世から衆生を救う教典は法華経を置いて他にないということを繰り返し強調した著作ですが、最後に近くなるにしたがって、どうして邪教の誘惑から衆生を救う菩薩が出てこないのかと自問します。そしてさんざん躊躇した挙句、ついにわれ日蓮こそはそれであると宣明するに至ります。
 この前に書かれた有名な『開目抄』では、まだそこまで明瞭に宣言するには至っていません。しかしこれらはいずれも佐渡流罪の際(日連五十一、二歳)のかなり孤独な境涯の中で書かれており、熟成してきた執念をこの二作で一気に集中させた趣きがあります。
 つまり『開目抄』の時点から、じつはひそかに「われこそ末法の世を救うために釈尊より遣わされた菩薩なり」という観念を温めてきたのだと思われます。この執念の異常さは、一種のコンプレックス(矛盾した複合観念)の表れであり、そこにはたまたま辺境で低い身分として生い育った「麒麟児」に特有の、誇大妄想癖とナルシシズム、マゾヒズムが感じられます。
 もっともこれは、古今東西、強固な意志を持った宗教家、思想家に共通する側面でもあります。自分の反時代的な言動によって引き起こされた迫害や弾圧や無視を、「自分が本当のことを言ったからこそこのような目にあうのだ。これは自分に予定されていた運命である」というように自己肯定の糧に思い替えてゆく心術です。迫害されればされるほどその事実そのものを、喜悦の感情とともに、神仏によって選ばれた証しとして規定し、それを基盤として自分の宗教的、思想的使命をいっそう確固たるものとしてゆく。
 この心術は、民族レベルでは古代ユダヤ教の聖典である『旧約聖書』に顕著に表れていますし、初期キリスト教徒にもそれが見られます。近代では、ニーチェなどにも明らかに通ずるものがあります。選民思想の心理的源は、世俗に受け入れられず迫害されるという経験そのものに宿っているといっても過言ではないでしょう。
 この心術にはどこか依怙地で不健全な、ねじくれたものがあり、現実との闘いに敗れなければ生じ得ないものです。しかしまた、敗れて追い詰められても意志を放棄しないかぎりは、どんな人でもある程度そうなるという人間共通の傾向を表してもいます。
 日蓮の場合は、もともとの資質の激越さに加えて、佐渡流罪以降にこの誇大妄想癖(ナルシシズム=マゾヒズム)がかなり強まったようです。というのは、彼が幕府当局から公式的に受けた扱いは、あの荒々しい当時の東国の風潮にしてみれば、さほど苛酷なものとは思えないからです。
主著『立正安国論』(日連三十九歳)を北条時頼に上進した時に時頼はこれを無視しました。一カ月後、日蓮の草庵が暴徒による焼き討ちに逢いますが、日蓮はこれを逃れます。ここに幕府の陰謀の匂いを嗅ぐこともできなくはありませんが、むしろ『立正安国論』に盛られた過激な法然批判の内容が念仏宗徒たちに漏れ出て恨みを買ったと見るのが自然でしょう。
 翌年、日蓮は伊東に流罪となりますが、これも、秩序を騒がせるうるさいやつを追っ払うといった感じのもので、一年半余りで赦免されます。
 懲りない日蓮は、五年後、モンゴルの使者の大宰府来訪をきっかけとして、時宗以下、諸大寺に「十一通御書」を送り付けて公開討論を持ちかけますが、これも無視されます。
 さらに三年後、再び『立正安国論』を幕府に提出しますが、逆に捕らえられて佐渡流罪が決まります。流罪の道行きの途中、鶴岡八幡宮に向かって大音声で「日蓮、今夜首斬られて、雲仙浄土へ参ったときは、まず天照太神・正八幡こそ誓いを果たさぬ神である、と、名を指して教主釈尊に申し上げるぞ」と呼ばわったそうです。日本古来の神にまでたてついているのですね。やがて龍口の刑場で処刑されることになりますが、その間際に異変が起こって処刑は中止となり、結局佐渡に流されます。中止はあらかじめ決まっていたのかもしれません。
 日蓮は後に、法華経のために命を捨てるのは日本国でただ一人だと、その覚悟を語る言葉を残しています(『種種御振舞御書』日蓮五十四歳)が、後付けで見栄を切っている印象が拭えません。また佐渡流罪もわずか二年半で赦免となっています。

 以上の経過を見るに、次のことが言えそうです。
 第一に、処刑の手は困り者の日蓮を排除しようとする他宗派の差し金であった可能性が高く、鎌倉幕府ははじめから厄介ごとに手を染める気はなかったのではないか。当時の幕府は、世俗の権力争いでは仮借なく殺戮の手を伸ばしますが、すでに各宗派融和の時代になっていた仏教に関しては、よほどの擾乱の兆しがない限り宗派争いには真剣な関心を示さなかったでしょう。ましてエキセントリックな日蓮一人の運命など、支配的な宗派(禅宗、浄土宗、真言宗など)の決済あるいはその筋の陰謀に任せていたのではないか。
 第二に、同じことを裏側から言えば、一連の経緯は、たぶんに日蓮の独り相撲の気配が強く、彼が鎌倉でやっていたこと説いていたことはほとんど相手にされていなかったのに、後の彼自身の述懐では、それらがさも大きなことであったかのように肥大化して把握されているということです。迫害されればされるほど自分は選ばれた民である証拠なのだというのは、ただ日蓮の心の中の劇にすぎなかったということになります。
『立正安国論』における元寇の予言にしても、薬師経にある「他国侵逼の難、自界叛逆の難」の経文を頼りに、現世の腐敗堕落を怒り嘆くために唱えていたのが、たまたま的中したというにすぎません。一度目の来襲(文永の役)では予言が当たったことを彼は喜んでおり、次はこんなことでは済まされず必ず本土が侵されると意気込んで言っていました。が、二度目の来襲(弘安の役)でモンゴルが上陸すら果たせなかった時は、老日蓮は身延山で沈黙を守っただけでした。
『立正安国論』に登場する「客」の「先ず国家を祈って須らく仏法を立つべし」という有名な言葉も、国家主義を謳ったものではなく、すぐその前に「夫れ国は法に拠つて昌え、法は人に因つて貴し」とあるところから見て、正しい仏法を守ることこそがすべての基本であるという原則を述べたものにすぎないでしょう。もともと仏教が日本に取りいれられたのは、鎮護国家のよりどころとしてだったのですから、仏教の原点に戻れと呼びかける日蓮が、「国家」を口にするのも不思議ではありません。この場合の国家とは、仏法秩序の支配する理想世界というほどの多分にイマジネイティヴなもので、格別日蓮を社会派の僧侶と見なす根拠にはならないと思います。行基のように土木事業に身を投げ出したわけでもないのですから。
 この点では、佐藤弘夫氏(『立正安国論』解説・講談社学術文庫)の説くところが正しいと思います。

 それでは、日蓮が終始一貫して執着したことはいったい何だったのか。それはひとことで言えば、当時の諸宗派混淆の妥協的実態に何としても我慢がならず、法華経を根本教義とする天台宗の初心に立ち返れと訴えることでした。

≪但此の経(法華経――引用者注)に二十の大事あり。……律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗真言宗との二宗は偸に盗て自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。……但我が天台智者のみこれをいだけり≫(『開目抄』一の四)

 天台宗は隋の智顗が確立した宗派で、わが国では最澄(伝教大師)が八百六年に開山しています。最澄は、それまでの奈良仏教の権威主義に旺盛な対抗心をもって立ち向かい、この中国伝来の新知識を広めようとしたのです。
 しかし時代は移り、日蓮の活動の時代までにすでに四百五十年を閲しています。他宗も次々と起こってもはや開山時のフレッシュな雰囲気は影を潜め、天台比叡山は、よく言えば寛容な大御所、悪く言えば純粋性を失って世俗や他宗と妥協する惰性態と化していました。一徹な日蓮は、この状態を根本から建て直すことにこそ自分の存在意義を見出したのです。さてそう自らの立ち位置を定めた時、最も邪悪な連中と映ったのが、念仏宗徒たちの跋扈でした。
 折から鎌倉大地震が起こり、飢饉、疫病が蔓延していました。自然災厄や社会悪をそのようなものとして対象化できずに、仏法を破壊し衆生を惑わす邪教や先祖の祟り、前世の因縁や狐・天狗などのせいにするのはこの時代の習いでしたから、そのこと自体は別段特記すべきことではありません。
 しかし日蓮の眼には、念仏宗徒たちの振る舞いが何とも忌まわしい悪魔の仕業と映ったのです。彼らは、天台宗を含めた古くからの諸宗を聖道門としてひと括りにして捨て、専修念仏のみを推奨する浄土門を選択している。知識のたゆみない研鑽や厳しい修行を成仏の条件とする難行を斥けて、南無阿弥陀仏を称名することのみを勧めている。そうしてそれだけを本行として尊び、他を雑行として軽んじている。これこそは滅ぼすべきものだ、これを滅ぼさずしてどうして日本国の衆生が救われようか。ではその悪魔の本体は誰か。言うまでもなく浄土宗の開祖・法然である……。
 こうして法然が無間地獄に落ちるべき対象として真っ先に選ばれたのでした。いまでこそ浄土宗、浄土真宗と日蓮宗とは穏やかに棲み分けていますが、日蓮の主著『立正安国論』とは、なんと法然に対する憎悪を爆発させるために書かれたようなものです。
 日蓮は言います。法然は主著『選択本願念仏宗』において、あまたある経文から浄土三部経だけを絶対視し、聖道、難行、雑行のすべてを「捨て・閉じ・閣き・拗って」念仏行のみを「選択」する道を唱道したが、これは人を迷わすとんでもない間違った道である、と。
 この捨・閉・閣・拗の四文字は、『選択本願念仏集』の文章から日蓮自身が恣意的に抽出したもので、そこには批判のための批判の趣きが無きにしも非ずです。このシリーズの第一回で述べたように、法然自身は、聖道門をすぐにでも捨て去れとはけっして述べていず、それぞれ分に応じて入り口はいろいろあってよいが、最終的には念仏行こそが救いをもたらすのだと寛容に説いているだけです。知識や修行を積むことなどやめてしまえなどと言っているわけではありません。
 いっぽう日蓮のほうも、『観心本尊抄』のなかで、「衆生にはもともと仏の知が具わっている」と説いていますし、無量義経や最澄の言葉を引いて、「この経を信じさえすれば六波羅蜜を修行しなくても六波羅蜜は自然に前にある」とか「釈尊は、私たちが妙法蓮華経の五文字を受持しさえすれば、自然にかの因果の功徳を譲り与えてくださる」などと説いています。これは、弥陀の救済を信じて南無阿弥陀仏を心から唱えれば必ず往生できると説くのといかほどの違いがあるのでしょう。
 法然と日蓮の間には、その活躍期に七十年から八十年の開きがあります。日蓮は、法然の融通無碍の人格や、彼がなぜ難行をくぐりぬけた果てに易行こそ本行であるという結論にたどり着いたのか、その生きたモチベーションについて知りません。日蓮が目の前にしていたのは、おそらく、菩提心(成仏を心から願う志)そのものに重きを置かない当代の多くの念仏者だったのでしょう。

 やがて日蓮は、念仏者だけではなく、先の『開目抄』の引用で見たとおり、真言宗、禅宗をも公然と批判するようになります。それは、彼からすれば法華経こそ唯一信奉するに値するのに、他の宗派がそれを部分的に取り入れたり軽視したりしているので、そのさまを見て憤懣やるかたない思いに駆り立てられたからです。
 この原理主義的傾向は時間が経つにつれて高じていきます。こうなると、むしろ法華経(特に寿量品に書かれた一念三千の観念)をかくされた秘儀として周囲の眼から閉ざしていくことになります。
 さらに、『開目抄』では、異教徒や論敵に対する態度を、「摂受」に対するに「折伏」をもって正当化しています。先に述べたように、「折伏」とは本来は、慈悲によって相手の心を包む「摂受」の対義語で、相手の悪を打破して圧伏するという、きわめて攻撃的な姿勢を意味しています。
 この問題は日蓮自身が苦悶したらしく、『立正安国論』では、苦しい矛盾として現れています。
 すなわち、第七段では、正法を誹謗する者を殺しても罪には問われないとして武装(殺生)をこの場合に限り肯定しているのですが、第八段で「客」が殺生の是非をもう一度問うと、主人は「私はただ謗法者への供養を止めよと主張しているだけであって、けっして念仏の僧を力づくで弾圧せよといっているわけではない」と微妙に調子を和らげた答え方をしています。
 ここには南都北嶺の武装した「悪僧」の存在という無視し得ない現実が反映していると言えるでしょう。彼らは平然と「敵」を殺していました。天台宗徒とて例外ではありません。そうした現実を目の当たりにしていた日蓮にとって、己れの奉ずる唯一の正法が、悪僧たちの狼藉を許すか許さないかは、真剣に悩むに値する思想的課題でした。現実と理想のはざまで、日蓮自身は引き裂かれており、問題は未解決のまま残されたのです。
 結局、日蓮は己れの純粋一途な激しい気質と、天台宗の正統性を守らんとする固い意志とを重ね合わせて、これを汚すものは許せないと一貫して主張していたことになります。
 つまり彼は、日本仏教の新しい道を切り開いたのではなく、むしろ時代に逆行する道を「選択」したのです。彼の頭の中には、膨大な諸経(学問)の文字が絶えず満ち溢れていましたが、ついに具体的な民衆の生活像を、その苦しみの相貌とともに思想的な視野に収めることはありませんでした。その意味で、やはり法然とは反対の方向を向いていたと言えるでしょう。
 私たちは、武家社会の勃興を背景に立ち上がった鎌倉仏教のなかに、単に一つの方角から吹き寄せてきた新しい時代の風を感じ取るのではなく、道元らの禅宗も含めて、いくつもの異質な思想体質を読むのでなくてはなりません。








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1 コメント

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長文失礼致します (wada)
2017-11-19 14:44:12
小浜先生、はじめまして。

先生のご本を何度かお目にする企画があり、このブログに辿りつきました。先生の冷静でロジカルな論説はとても説得力があり、物事を考える上でとても参考になります。

さて、ブログの話題としては少々古く、先生にとっては今更と思われるかもしれませんが、「誤解された思想家・日本編シリーズその5 日蓮」を先日改めて拝見させて頂きまして、少々思う所を述べさせて頂きたく思います。よろしくお願い致します。

私は仏教徒てあり、思想的区分としては、日蓮門下の教学に信を置く者です。
(従いまして、心情的に呼び捨てには出来ないので、呼称を日蓮聖人・聖人で統一させて頂きます)

と言っても今はどこか所定の思想団体に属しているという訳ではなく、菩提寺との縁をかろうじて保留させて頂いているような状況ではあります。

プロフィールの詳細は省かせて頂きますが、上記の思想的立場から、小浜先生の、今回の日蓮聖人評にはいささかの違和感を覚えました。

先生は、聖人の他宗批判を始めとする主張や生涯を通しての行動は、せんじつめると「天台(伝教)への回帰」を志向するものだったと結論づけておられます。

つまり、聖人は結局、時計の針を戻そうとしただけだった、ということになりますが、本当にそうだったのでしょうか?

結果に着目して言うなら、それは否だと私は考えます。

確かに、聖人の生涯を通しての主張に、或いは打ち立てた教学に、何か日本の宗教史を塗り替えるような独創性はなかったのかもしれません。

しかし聖人亡き後、布教の芽は、その遺志を継いだ弟子達の手によって、鎌倉からは遠く離れた場所、京都で花開くことになります。

そしてそれは、「町衆」という、全く新しい民衆の誕生を促す、大きな原動力となりました。

彼らは、後に天台の宗門と激しい争いを繰り広げることになります。

そのことから鑑みても、生前の聖人が先生の仰る程までに天台にいつまでも固執していたとは考えにくいのです。

では、天台ではなかったとして、聖人が生涯こだわり続けていたこととは何だったのでしょうか?

それは、もう従来の通説通り、「法華経」だった、というアンサーで良いのではないでしょうか。

「法華経」は、初期の経典に比べて大きく様変わりしたとも言える大乗諸経典群の中にあっても、とりわけ「原点回帰」の要素を強く持った経典です。

その仏教の原点は何かと言えば、やはり「悟り」を目指すことではないでしょうか。

「救い」を説くのが宗教ですが、仏教の説く「救い」は、他の宗教の説くそれと比べて意味合いが異なります。

仏菩薩は、迷いの世界から離れて理想の世界へ我らを誘ってくれますが、我らの体を背負って、代わりに目的地まで運んでくれる訳ではありません。

三途の川を渡る主体はあくまで我ら自身であり、そしてその川を渡る以外に救われる道はないと説くのが仏教です。

法華経が他の大乗経典と比べてどの点が「より原点回帰的」なのかを詳述する余裕はありませんが、恐らくはこの、無償の愛やら絶対的な庇護やらとは異なる「悟り=自覚」への誘い(啓蒙)が、あの焼け野原となった京の町を力強く生き抜く為の、強固な原動力となり得たのだと考えます。

実際、法華経のクライマックスには、新たなる世界の担い手とも言うべき、(修行者の未来像を示唆しているとも言える)無数の菩薩の姿が描出されています。その菩薩が天下りではなく、大地が割れて出現する、という形で描かれていることも、非常に大きな示唆に富んでいて、信徒達が自身の姿をそこに重ね合わせていたであろう事も想像に難くありません。

この法華経は、聖人が生まれる前から日本に存在していた経典であり、聖人の手によって産み出された経典ではありませんが、しかしながら聖人の手によって「再発見」され、その遺志を継いだ遺弟達の活躍によって、日本の歴史にとっても意味のある、新しい形の民衆を産み出すという結果をもたらしました。

その意味で聖人の行跡は「時計の針を戻す」どころか、充分エポックメイキングでもあり、他の鎌倉仏教を彩った名僧達に決して引けを取るものではない、と私は考えているのですが、いかがでしょうか?


なお、本コラムのタイトルは、「誤解された思想家達」ですが、他の思想家達にくらべて当コラムでの聖人へ言及は異例なほど分量も少なく、扱いも小さいですね。

先生が聖人を殆ど評価しておられない証左なのかも知れませんが、せめて、聖人の大きな特徴でもある、信徒に宛てしたためられた「書簡(私信)」には触れて欲しかったと思います。

先生が言うところの、「エキセントリックな」性格とは異なる聖人像を再発見出来るはずであり、それこそが、こうした聖人への「誤解」を解く一助になるものと考えるからです。

それでは、長文駄文、大変失礼致しました。

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