小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズその8 一休宗純(1394~1481)

2017年06月15日 02時23分46秒 | 思想

        





 今回は一休さんを取り上げてみたいと思います。ところが書く方は一休みどころではなく、短い期間とはいうものの、この難物相手に格闘呻吟すること並大抵ではありませんでした。
 理由は、第一に、私自身に禅思想や漢詩についての素養がまるでないため、彼の主著である漢詩集『狂雲集』(中公クラシックス)にほとんど歯が立たなかったこと。
 第二に、この人物が非常に謎めいていてこれまで多くの揣摩臆測を呼んできたことが災いし、その人物や思想表現の核心になかなか到達しにくいこと。
 そして第三に、それだからこそ、もっと真像に迫りたいという興味関心をかきたてられたこと、以上です。

 第一の問題は、もっぱら柳田聖山氏の現代語訳に依存せざるを得ませんでした。また氏の講演録『一休 「狂雲集」の世界』(人文書院)によって、一休の詩文が唐から南宋に至る中国の禅思想や文学や故事をいかに深く下敷きにしたものであるかを知らされました。普通の人がこれを踏まえることなくして『狂雲集』を理解することはまず不可能です。

 第二の問題は、これも氏の示唆によるものですが、『狂雲集』がただの漢詩の寄せ集めではなく、ある意図のもとに仕組まれ、全体として一つの構成を具えた文学作品、思想作品であるということに関わっています。
 多くの史家、評者、作家はこの事実に対して無自覚で、この作品の中に一休の伝記的事実を直接読み込もうとします。そのため、あれこれと無駄な議論を重ねているのですね。ここには、小説にすぐ作者自身の生(なま)の体験を探したがる日本の文学批評の悪しき伝統が受け継がれています。
 一休は戦乱のあおりで洛中洛外、堺、住吉などの寓居を転々としていますが、七十代くらいから弟子や訪問者も多くなります。八十を過ぎて戦乱で焼失している大徳寺の住持を心ならずも受け継ぎ、世俗的に尊敬される立場に置かれたため、弟子の紹等(しょうとう)による正式な『年譜』が残されています。しかしこれは大先生の足跡ということであまりに簡略で遺漏が多いように見えるため、後世多くの史家や評者や作家の想像や妄想を誘発することになったようです。
 このたび、水上勉氏の評伝『一休』(中央公論社)には大いにお世話になりました。しかし、いかんせん、この評伝も、『狂雲集』における盲女・森(しん)との露骨な情交の記述を事実そのままと受け取っていたり、明治中期に生まれた戯作者・磯上清太夫なる人物が元禄時代の原本を翻案した『一休和尚行実譜』という怪しげな書物の記述に頼りすぎたりしているところがあります。
 それもこれも、一休の行跡に不明な点が多いため、それに乗じて、作家魂をたくましくした結果なのでしょうから、それ自体は非難に値するわけではありません。一つのフィクションとしてはよくできた労作だと思います。ただ、一休という人の思想家としての核心にはどうも迫りえていない憾みが残ります。
 たとえば、水上氏の漢詩解釈には、これまでの通説をそのまま踏襲していて、柳田聖山氏のそれとはまったく異なるものがいくつかあります。一例を挙げるなら、『狂雲集』245の「大灯忌。宿忌以前、美人に対す。」と題された詩では、柳田氏によれば、美人とは女性ではなく、一休が尊敬してやまなかった大徳寺の開山・大灯国師自身であり、彼との一体化の熱い思いを男女の仲に託して詠ったものということになるのですが、水上氏は国師の百年忌の前夜、実際に美女と情交したと解釈しています。
 両氏の著作の前後を読めばわかりますが、これはどう見ても柳田氏のほうが正しい。
 また『年譜』には、一休の出自について、後小松天皇の落胤で母は南朝方であったために正室に讒言されて天皇を離れ、民家で一休を産んだと書かれています。水上氏もこの記述を素朴に信じているようですが、これなどは、マタイ伝の冒頭に、馬小屋で生まれたイエスの先祖はアブラハムでありダビデであるといった系譜づけが置かれているのと同じパターンでしょう。まともに相手にする類ではありません。
 ちなみに『年譜』にもとづくこの「伝説」は定着していて、一休が老年時代を過ごした薪村(現・京田辺)の酬恩庵(一休寺)には、菊の御紋が象嵌されています。
 しかくさように、水上氏の著作は通俗的な把握の域を出ていないのです。

 そこで第三の問題ですが、私は一休の伝記的事実を細かく詮索する資格もその気もないので、彼が室町時代中期というとんでもない乱倫、乱脈な時代を生きながら、そこからどういう思想表現をひねり出すに至ったかという点だけに絞って話を進めます。

 一休とはいかなる人物だったか。
 風狂・風流・破戒・奇行の人として名高いですね。火のない所に煙は立たぬ、私はこれらの形容を否定はしませんが、なぜそう受け取られるような多くの作品や行状を残したのかといえば、それは彼がじつは根のところでは、まじめの上に「くそ」がつくほどまじめな人だったからだと思います。
 彼は17歳で、6歳の時から預けられていた安国寺を飛び出し、西金寺の為謙宗為(いけんそうい・謙翁)のもとに走ります。ここにすでに、当時の堕落した禅門の権威主義に対する早熟な反骨の兆しと、禅の本来あるべき姿を求める強い求道の心が見られます。というのは、この謙翁というのがまさに名利を嫌って隠遁の道を歩む札付きの禅僧だったからです。
 謙翁の死後、21歳の一休は石山観音に参籠し、ほどなく入水自殺を企てます。師を失って進む道に行き詰まりを感じたのが主因でしょうが、柳田氏はここに、政治の理想が受け入れられずに汨羅(べきら)の淵に身を沈めた屈原の故事を重ねます。だからこれを一種の狂言自殺とする見方も成り立ちますが、しかし命をかけてまで故事をそのまま演じるというのは、それだけ彼が「ほんとうの生き方」に強い憧れと一途な執着を抱いていたからでしょう。
 やがて彼は近江堅田にある禅興寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の門を叩き、25歳の時公案を解いて一休の号を受けますが、師からの印可状は破棄したと言われています。この選択も頑固一徹。というのも華叟もまた栄華名利に関心のない隠遁を貫いた僧ですし、一休はその師匠が与えた後継者としての免許の価値など認めなかったわけですから、若くして筋金入りです。
『狂雲集』の冒頭二首の第一は、六代前の直系の先師である宋の虚堂(きょどう)が法衣をはぎ取られても気にせず、牢屋の窓からの風と月を味わうことを忘れなかったその詩魂に対する賛美です。また二首目では、四代前の大灯国師が高い位についてからは貴族たちが争って説法を聴きに来るが、彼らのうち国師が二十年橋の下で無宿を貫いたことを顧るものは誰もいないという嘆きが詠われています。
 後者を引きましょう。

大灯を挑(かか)げ起して、一天に輝く、鸞輿(らんよ)、誉(ほまれ)を競う、法堂の前。風飧(ふうさん)水宿、人の記する無し。第五橋辺、二十年。

 彼はまた、十歳以上年上の兄弟子養叟(ようそう)を俗物として終始軽蔑していました。後年養叟が幕命によって大徳寺住持となり、やがて権謀渦巻くこの業界を辛抱強く泳ぎ渡ってついに名実ともに大徳寺の住職の座を勝ち取ると、一休は六年後にこれを戒める『自戒集』を編みます。
『狂雲集』にも、大灯国師の庵が草ぶきの一軒家だったのに比べて、養叟のそれが黄金の御殿のようで、それは正妻の子と妾の子の違いのようだと嘲っている詩が出てきます。この確執の異様さもやはり一休の純粋さと一徹さを表わしていると言えるでしょう。
 さらに彼自身が大徳寺の住持を受けた時は、一日だけ入山してすぐ退院(ついえん)しています。しかしこれは寺に安座などせず現地に出かけてすらいないまったく形式的なものでした。
『狂雲集』の上巻は、入山してから退院するまで寺内の各院で自分が接したものを追うという架空の設定による、八つの法語(偈)で終わっています。この心にくいまでの自己演出ぶりを見ると、天子様の勅を受け入れて住持を引き受けることと、自分が敬愛してきた祖師たちの生き方とが矛盾するので、そのことを照れて恥ずかしがっているさまがよくわかります。俺にはそんな資格はねえよ、という一種の韜晦ですね。
 ここに私は、一休という人の過剰なまでの自意識の強さを読みます。一時代前の西行にもすでに強い自意識が感じられますが、一休の場合はずっと手が込んでいます。退院に寄せたものを一つだけ引いてみましょう。

平生ラ苴(らそ)、小艶の吟、酒に婬し色に婬し、詩も亦婬す。[主杖(しゅじょう)を擲(なげう)って云く]七尺の拄杖(しゅじょう)、常住に還す。[尺八を吹いて云く]一枝の尺八、知音少なり。
【訳】根っからがさつな、小艶の歌でした、酒におぼれ、色におぼれ、詩歌にも、おぼれていました。(拄杖を地上に投げ捨てて)七尺棒は、寺の公用物でありやした、(尺八を吹いて)この一管の尺八の、音色の判る男はなかった。

 唐木順三氏は、『中世の文学』(筑摩書房)のなかで、一休の表現を近代的であると評しています。まさにその通りで、意識を自然などの状況に密着させずに状況から引きはがし、さらにそこに成立した自意識をもう一度突き放して対象化し、照れてみせたり嘲ってみせたり揶揄してみせたり他に託してみせたりする、こういう入り組んだ表現の仕掛けは、太宰治のそれによく似ているとも言えるでしょう。

 さて「酒に婬し色に婬し」という言葉にちなんで、ここで一休の酒色とのかかわりについて考えてみましょう。
 彼の漢詩や短歌には、あたかも自分が酒肆婬坊にさんざん溺れてきたかのような言葉が頻出します。たとえば、「婬坊に題す」という詩では、昔は女の歌を聞いてついにこの誘惑には勝てないことを悟った老師もいたが、自分には悟りなどは無用で、ただ抱いて口づけすることさえ叶えば火あぶりも八つ裂きもいとわないと詠われています。
 室町という時代には、鎌倉時代よりも都市が爛熟し、土倉、酒屋、馬借などを営む庶民の町として活気を帯びた結果、酒色の風潮が夜の世界をいっそう覆うようになったことは否定しがたいところでしょう。まして先述のとおり、室町中期は、公家はおろか将軍家の統制も及ばず、全国的に乱倫、乱脈を極めた時代でした。山中に隠遁するのではなく、ほとんど陋巷に身を寄せていた一休が、そうした空気を日常のように吸っていたことは想像に難くありません。したがって、彼もまた他のおおかたの僧侶と同じく、飲酒や女郎買いをそこそこ経験したかもしれません。
 しかし、ここでもやはり表現と経験的事実を混同してはなりません。一休が実際、どれくらい酒色にふけっていたかなど問題ではないのです。それよりはこれらの頻出する表現を彼が意識的に用いている意図はどこにあるのかを見破ることの方がはるかに大切です。
 これには二つ考えられます。
 一つは、偉そうに善知識を振りかざす禅坊主どもの欺瞞と偽善に対する揶揄と嘲弄のレトリックとして用いたのだということ。
 これは現代風に言えば、権威に安住して何の役にも立たない難解な言辞を弄し、庶民の生活意識を少しもわかろうとしない知識人に対する痛烈な批判と捉えることができます。
 もう一つは、嘘のない宗教的情熱を女への欲情にたとえる形式を取ったこと。
 後者は、柳田氏の強調するところで、実際中国の禅思想にその典拠がいろいろとあるそうです。
 自らを最低の位置にあるように装うことで、批判対象の真の堕落ぶりを撃つという逆説的なテクニック。つまり風狂とは、諸事乱倫無秩序の時代とまともに向き合いつつ、何とか思想や文学の言葉を紡ぐための、きわめて自覚的な精神の一つの型であったと言えるでしょう。
 むろんその根底には、こんな世に生まれてきてしまって、その事実に対して何一つまともなことができないという、強烈な自嘲の念がこもっていました。そこからは、禅宗徒である俺はいったい何のために学問を修め、何の故あって人の上に立つ身として生きているのだという、深く執拗な自問の声が聞こえてきます。

 ところで私たちは室町中期という時代を、それに続くいわゆる「戦国時代」に比べればまだしも平穏だったというイメージを抱いていないでしょうか。
 これはたとえば、NHK大河ドラマなどが強大になった戦国大名たちの合戦ばかりを好んで中心に描き、ことあるごとに乱世、乱世というイメージを植え付けてきたせいではないかと思います。たしかに16世紀に入ると合戦の数が増えますし、天下取りの物語という点では面白いので、人々の関心もそこに集まるのはもっともです。
 しかし出羽・陸奥の伊達、越後の上杉、甲斐の武田、駿府の今川、尾張の織田、美濃の斎藤、中国の毛利、四国の長曾我部など、誰もが知っている強大化した戦国大名はみな堅固な城を築き、その周辺に領民を集めてそれぞれの領国支配を完成させ、それによって城下町も発展していきます。それは一定の秩序が各領国内にできてきたことを表わしており、やがて来る徳川幕藩体制の再編成による封建社会の基礎がこの時期に敷かれたとは言えないでしょうか。
 これに対して、一休の生きた室町中期(15世紀)は、中央では山名、大内、細川ら、管領が勝手放題をやっており、内訌内乱は当たり前、将軍はこれを抑えることができずに恐怖政治に走り、地方でも荘園領主、守護、守護代、地頭、地頭代、国人などが入り乱れてまさに下克上で、土地所有の制度は無きも同然でした。飢饉や圧政のために土一揆、徳政一揆、打ちこわしも頻繁に起こり、都の河原には乞食や瀕死の病人や死体がごろごろ、強盗、夜討ち、強姦、人さらいなどは日常茶飯といってもよい状態だったのです。森鴎外の『山椒大夫』はこのころに材を取った話です。
 このアナーキーな世界こそは「乱世」と呼ぶにふさわしい。歴史を曇りなく見るためには、有名大名の天下取り物語ばかりに注目するのではなく、こういう「面白くない」部分に少しばかり視線を移す必要があります。最近、呉座勇一氏の『応仁の乱』(中公新書)が意外な売れ行きを示しているそうですが、これはよいことです。応仁の乱は、一休が生きた無秩序そのものの世界の必然的な帰結だったと言えるからです。
 いわゆる「戦国時代」とは、新しい秩序が建設されつつある時代、これに対して室町中期は、政治的経済社会的のみならず、文化的にも古代的なものが完全に壊れていく時代とまとめられるでしょう。
 こういう時代に生を受けて禅宗徒となった一休は、まさに神も仏もない社会崩壊を目の当たりにし、実存的な「空虚」を生きていたわけです。この実感が深ければ深いほど、持ち前の「まじめさ」は、来世など当てにせずこの現世をしたたかに生き抜く肯定的ニヒリズムとして現れ、また詩魂の自在な表出へと転化していったと言えるでしょう。

《やきすてゝはいに成なは何物か のこりてくをばうけんとぞ思ふ》

《出るとも入とも月を思はねば 心にかゝる山の端もなし》

《もとの身はもとの所にかへるへし いらぬ佛をたつねばしすな》

        (以上いずれも『一休道歌』[禅文化研究所]より)


 冒頭で多くの史家、作家が一休の思想的文学的表現を伝記的事実と思い違いしていると書きました。たとえば諸家がこぞって関心を示すテーマですが、『狂雲集』の巻末には、晩年の一休と盲女・森との劇的な出会いと結ぼれの強さを詠った詩が集中していて、その露骨な性愛表現が昔から問題とされてきました。
 森という女性が一休に帰依して側に仕えていたことは記録から確実のようです。しかし彼女が盲目であったという証拠はありません。二人の性的耽溺の記述や彼女の恩愛を忘れたら永遠に畜生道に落ちるといった述懐は、柳田氏の指摘するとおり、どうやら巧まれたフィクションのようです。
『狂雲集』の最後にこれが置かれているのは、一つの宗教思想の終着点を表わしています。それは生き生きと眼前にあって手で触れられその美を愛でることができるものこそ信仰を傾けるに値するのだという思想表現なのです。
 盲目の女性との愛の生活という設定は、見捨てられた衆生は現世的なエロスの出会いによってこそ救済(幸福)への道筋を見出すという考え方にいかにもふさわしいではありませんか。だから『狂雲集』の一休は「まじめな」しかし「ひそかな」棄教のためにこれを書いたのだとも言えるでしょう。

 死までの二十五年間の大部分を薪村の酬恩庵で過ごした一休の元には、著名な能楽師、連歌師、茶道家、絵師などが何人も慕い寄ってきました。彼の「風狂」はここにおいてこそ「風流」の華を咲かせたのです。
 このことは同時に、彼こそが、人間の真実の道を追求するものとしての仏教の「彼岸主義」を、この日本において終わらせたことを意味しています。そうしてその必然的な結果として、古代とはまったく違った新しい美意識と快楽の世界が開かれたのです。一休はその結節点に立っていたと言えるでしょう。



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