「いじめには道徳教育が必要」の論証  | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

「いじめには道徳教育が必要」の論証

 

①「道徳とは自由を制限するものである。」

 

ヘーゲル哲学より。

 

 また、現実的に言っても、「法」が違法行為を制限して、「最小限の道徳を保証する」ものであり(法格言)、それに対して道徳とは、個人の自由の範ちゅうの中で、他人に迷惑をかけることを始めとする、法で裁かれない範囲の非道徳を自主的に制限するものである。

 

「他人の権利を侵害すること、…虚偽やうらおもてのあること、他人に対する優位を…無慈悲に行使すること、また、利己のために、他人のこうむろうとする損害を防ごうとしないことでさえ、―すべてこれらの行為は、道徳的非難を受くべきものであり、…道徳的報復と刑罰とを受くべきものである。…これらの行為のみでなく、これらの行為に導いた性向もまた、正に不道徳なものであって、当然に非難の的となるべきだし、…残忍な気質、悪意と邪険、…反社会的な…感情である嫉妬、充分な理由もなしに怒り易いこと、他人を支配することを好む心、…貪欲、他人をおとしめることに満足感を覚える高慢、…自己中心癖、これらのものはすべて、道徳的欠陥であって、…他の人々―に対する義務を破るようになった場合…のみ、道徳的非難の対象となる…。」
(「自由論」J.S.ミル著 塩尻公明・木村健康訳 岩波書店)

 

 ミルの表現は厳格過ぎるが、戦後の左派論客やエセ知識人が論拠とし、悪用してきた「自由論」においてすら、このような道徳に関する厳しい叙述があることは見逃されてよいものではないし、重大な過(あやま)ちを犯した青少年に事前に教育することができればと思うし、ミルもそのように言っている。

 

 つまりこのような諸哲の氷山の一角のような叙述一つ取っても、若者がこの一文によって説得され、かつ心に刻むだけで、相当自分自身を戒めることができ、社会的な存在となりえたし、道徳教育に対して邪魔する勢力、無知蒙昧で目立ちたがり屋の「道徳」を排斥するメディア権力が日本にいなかったから(「考える道徳」などと言う官僚も含めて)、いじめや犯罪を減らすことは私にとっては至極容易だったのである。


②いじめは、犯罪とは異なる概念であり、「仲間外れ」、「無視」、「陰口」など、そのほとんどのケースが法で裁くことができず、個人の自由の範ちゅうにおいて、非道徳的に行われる。

 

 それは道徳を否定する朝日新聞が2016年12月14日の記事で国立教育政策研究所の調査として認めているところである。

    
「日本では「仲間外れ」「無視」「陰口」といった暴力を伴わないいじめの割合が高い―。」
記事A  「朝日新聞」2016年12月14日

 

 

①②より、いじめをなくす・減らすには、個々人が自らの行動を律して、他人に被害を与えるような、自らの非道徳的な自由を制限するほかなく、そのような社会的な道徳教育が必要である。
論証以上。


 しかし、いじめをなくす、減らすには道徳教育しかないにも関わらず、朝日新聞は道徳教育を否定している。

 

これは矛盾である。


 私は2006年くらいから朝日新聞に対していじめを減らす具体的な対策について投書してきたが、一切採用されなかった。
 ヘイトスピーチが問題となった時期すら、私の道徳的投書をことごとく無視し、彼らは道徳よりも、自分たちを自己正当化して、大衆を味方につけることに利用できるヘイトスピーチを好むようである。

 朝日新聞で掲載されるいじめ対策の意見はこうである。

 

(朝日新聞「声」 2016年11月30日)

 

 だが、いじめは彼らが記事Aで示しているように、ほとんどの場合犯罪ではないので、違法行為が生じた場合のみ動ける警察対応では解決できない。

 それとも、自らを自己正当化するために利用してきた「立憲主義」という曖昧な概念を口酸っぱく言う朝日新聞が、子どもを監視し逮捕して、法治主義、罪刑法定主義を否定しようとでも言うのか。

 

 つまり結論として、朝日新聞はいじめをなくそうとは考えておらず(無論その能力も全くないが)、道徳を否定することだけに着眼点を置いただけの反社会的な新聞社であり、むしろ一般国民が非道徳になって、犯罪を起こしてくれることで、自分たちが報道する仕事が増え、反社会的に、非道徳的に潤うことができるのである。

 

 朝日新聞 社説  2016年7月24日 

 

 社会学の代表格であるデュルケムは、「道徳教育とは社会を学ぶものであるため、家庭ではできず、他人のいる学校でしか教育できない。」と言っている。

 

 つまり朝日新聞の言っていることとは全く正反対である。

 

 また、道徳とは特にヘーゲル(哲学)やデュルケム(社会学)によれば、「社会性」であるから、道徳を否定する朝日新聞が「反社会的である」と定義しても、何の差しつかえもない。

 

        

 

  無論、戦後70年、少なくとも田原総一朗が猛威を奮った80年代以降、道徳は日本のテレビから完全に排斥されてどこの局もやらなかったから、「朝日新聞だけが悪い」というわけではない。私に言わせればNHKですら開局以来、「道徳」にはほとんど触れず、ここまで来たわけだから、国民から受信料を徴収する資格は全くなく、公共的な役割を果たしているとは全く言えない。

 田原総一朗や橋下徹によって道徳はただ排斥され、否定されるばかりであり、道徳のためにフェアネス・ドクトリン(偏った意見に対して、同じ時間だけ反論できる原則)を守ったテレビ局は一社もなかった。

 だが、朝日新聞が誤りだと認めた従軍慰安婦報道、この反日的な報道によって、韓国に慰安婦像が設置されて、今まさに日本の大使が一時帰国し、日韓の国交が断絶しつつある―。

 

 また、朝日新聞と同様、道徳に否定的なTBSも、「好きか嫌いか言う時間」において、哀川翔さんもTBSにだまされていたが、同番組は、いじめ対策の最終的な解決策を「弁護士への法律相談」としていたが、子どもによる「仲間外れ」「無視」「陰口」をどのようにして法律で裁くというのだろう? 

 

 端的に言えば、朝の情報番組で井ノ原快彦くんが言った「いじめる側の心をなんとかしなければいけない」というのが正しい。

 

 

 いずれにせよ、日本人から道徳を遠ざけて、日本人すべてを犯罪予備軍にするような風潮が朝日新聞、TBSら、道徳を執拗(しつよう)に排斥する左翼メディアを中心に大勢(たいせい)となっている。

 

 無論、これらのメディアに従事する人たちこそが非道徳であり、現実的に犯罪を起こしてしまっている。

 

 他の国では宗教倫理によって当たり前のように染み付いている道徳が、いわば犯罪者を生み出す非道徳な組織によって、日本人は「道徳が必要ない」というふうに洗脳されてしまっているのが今日の日本の現状であり、いじめ自殺、児童虐待、ストーカー殺人、障害者殺人、企業倫理の低下など、多岐に渡る極めて深刻な社会衰退を引き起こしてしまっている。

 

 無論、そのような凶悪な事件が起きてくれた方が、新聞や情報番組の多い地デジを見てもらえるのだから、彼らの新聞やその系列のテレビにとってこれほど良いことはないのである。

 端的に言えば、彼らは道徳を国民から遠ざけることで、国民を不幸にして、その不幸によって飯を食っているのである。

 それが道徳に否定的な、日本社会を支配する団塊・全共闘世代の意向であろうとなかろうと。

 そのような現状を憂(うれ)えて、テレビでは絶対に使わない、使えない「道徳」という言葉を使って本を出そうとする(団塊・全共闘世代の)人もいる。

 

         

 

 だが、このような著名人の著書ですら、皆さんがご覧になられている地デジでは一切知らされないのが現実であるということを是非とも知って欲しい。

 

 

 

■非道徳・左翼メディア権力の嵐 (1月10日追記)

 

朝日新聞日めくりカレンダー

 

 このカレンダーは12の月の絵に対して、31の日の絵がそれぞれ同じとなっており、つまり無責任な御用(ごよう)学者(くしくも私の属する日本哲学会)による「道徳の全否定」を毎月4日に朝日新聞読者に洗脳する仕組みとなっている。

 

 こういうぬらっとしたやり方が個人的には一番許せない。

 イスラム教を利用して自己正当化する「非道徳的な」イスラム国と同様、反戦や人権を利用して自己正当化する「非道徳的な」朝日新聞の大変危険な、日本の社会衰退を加速させるやり口である。

 2016年のさまざまな事件で周知のことと思うが、今の時代、人としての最低限の道徳、つまり社会性は絶対に必要である。

 このようなものは直ちに廃棄して、ゆめゆめ朝日新聞に洗脳されないように気をつけてほしい。

 

 

1月10日 日刊スポーツ

 

 道徳を「押し付け」と否定する左翼ジャーナリストが、若者の非道徳な犯罪で飯を食っている典型的なケース。

 このような心ない若者が増殖しているのは、田原総一朗を始めとする彼ら左翼ジャーナリストが道徳をメディアから長年排斥してきたからに相違ない。

 つまりそれら道徳を排斥してきたメディア権力によってだまされ、テレビから「道徳」という言葉自体が抹殺され、道徳を学ぶ機会を与えられず犯罪を起こして捕まった一般国民、特に無防備な若者たちを捕食して飯を食っているのだ。

 

 メディア権力には悪しき偽善者の類であふれ返っていることをくれぐれも肝に銘じて生きてほしい。

 

 

 日本の若者よ、だまされるな!

 

 

 若者の皆さんが道徳を悪し様(あしざま)にして、犯罪を起こして捕まることは、彼ら無責任で反社会的なメディア権力の「思うツボになるというだけ」である。

 

 いじめ自殺、児童虐待、振り込め詐欺、ストーカー殺人、障害者殺人、鬼十則、ユーチューバー、成人式での式典荒らし…。

 社会から道徳を排斥してきたメディア権力の責任、罪はあまりに大きく、万死に値するどころか、オウム真理教やイスラム国とは比べ物にならないくらい重いと私は思う(加えて日韓関係の険悪化…)。

 

1月10日追記ここまで。

 

 

 

 

 私は2004年より、道徳提言を始めてきた。
 当時住んでいた埼玉県の上田清司知事宛てに提言を投書し、直筆の賛同の返事が返って来たが、それ以降は自民党、維新の党など政党、テレビ、新聞、出版のメディアから完全に門前払いであった。
 しかし北野武さんが道徳の本を出版されたことによって、ようやく私も本を出すことができた。

 だがあまりにも時が経ち過ぎていた―。
 倒錯したメディアによって殺された若い命、若い人生があまたある。
  

 また、人口は多いが、道徳的にしつけられなかった70年代・80年代生まれの女性の、出産適齢期の出生数は、明治時代を入れても過去最低である(左のグラフ)。

 

   blog_2014_birthrate_70s  

 また、「人口維持には2.07が必要」とされる出生率は、北海道がわずか1.27であり、私の出身市・札幌だけを見ると、団塊ジュニアの女性(島崎和歌子・さとう珠緒の世代)が出産適齢期に「0.98」を記録した年もあり、なんと 1 を切るのである…。

 東京もそうだが、文化の色合いが薄い、都会的な地域の出生率が低い。

 道徳とは地域への愛着であり(デュルケム)、すなわち美輪明宏さんが言われるように、文化の要素も大きく、都会では、特に団塊ジュニアから80年代生まれは、女性の道徳観が希薄であり、女性が「排他的自由」を行使してしまうため、接点を持てない。

 電車の中で身近の他人を一切配慮せず、携帯で遠くにいる彼氏や友人だけにメールを打つ女性が当たり前となって久しい。

 それでいて団塊ジュニア世代には光GENJIとSMAPさんというスーパーメガヒットアイドルがいたのだから、道徳観がなくて、アイドルに夢中の女性たちから一般男性が相手にされなかったのが手に取るようにわかる。

 事実、我々の世代の頂点にいるような大沢樹生ですら、非道徳な女性の影響を被らざるを得ず、喜多嶋舞との間に生まれた子が、16歳に成長してからDNA鑑定で「父子確率0パーセント」と言われてしまった…(それでもこの超少子化の中で、まして芸能人が「子どもを産み育てているだけいい」という見方もできるが。男の立場は…泣)。

 また、私と同じ北海道出身である木嶋佳苗の事件もあり、人口が最も多いにも関わらず、明治時代以降で最少の出生数をたたき出した、この世代(私の世代)は本当に本当に最悪なのである…。

 

 ↑ たとえば九州を見ていただければ一目瞭然だが、九州では男性がコミュニケーションの主導権を握っているので、女性が明るいであろう南国の沖縄と合わせて出生率が軒並み高い。「男性が主導権を握る」と言っても、都市部の女性のようには排他的にならず、男性の足元を見ず、普通にあいさつできて、上の世代と同じように普通にコミュニケーションが取れるくらいのことだろう。

 ただ、同じ九州にあって、福岡だけが「1.46」と唯一低い。これはつまり、福岡だけが九州の中では都会ということであり、文化的ではない、無機的な都市部独特の、悪影響を受けているということである(1月7日 追記)。

 

 団塊ジュニアから80年代生まれの(特に札幌、東京など都市部の)女性たちとは、見た目で得をしているような人であれば、高齢の女性に見られるような笑顔はなく、お礼を言ったり、謝ったりすることもないし、またそれらの世代の女性が、ちょうど奥さんが出産する時期の宮崎議員や乙武さんと不倫をして、出産した奥さんや乙武さんの世話をしてきた奥さんの人生を台無しにしても、誰からも責められずにいる。

 

 他方でサウジアラビア、スーダン、ナイジェリアでは、同じ人間であるはずの道徳的な女性が路上で処刑され、子どもを育てるために物乞いをし、虐げられている現実を見る―。

 しかし、日本の大半の女性とは、重たい話がお嫌いであり、そのような現実を直視する報道は見ず、年末年始のイロモノ芸人たちのバカ騒ぎ番組ばかりを見ているのである(その大部を占める大音量のCMで頭を焼かれながら)―。

 

 ポルトガルで現実に起こった聖母マリアの顕現で、複数の子供たちが見たという「実在する地獄」へ行くという、邪悪な人たちとは果たしてどのような人たちのことなのだろうか。

 だが宗教は違っても、サウジアラビア、スーダン、ナイジェリアの女性たちがことごとく天国へ行くと私は確信する。

 

「あまりの陽気さをたたえた精神は、弛緩した(気のゆるんだ)精神であって、もっぱら衰微をたどる民族にふさわしい」 デュルケム

 ただ日本のテレビの世界は、私には悪夢に見える。

 そして生まれてこれなかった命、全く報われなかった団塊ジュニアの男たちの虚しい人生もこの国にはあまたある―。

 

 「天の力は微なり」 司馬遷

 

 容姿に自信のある80年代生まれの女性たちが、乙武くんや宮崎議員と不倫するというのは、ひとえに「高収入の有名人と寝た」という優越感によるものであるなら、日本のテレビの世界、女性の世界のようではない、「人の先に立たない」老子のような生を。

 

 また、このような日本の女性を見ることのできない辻井伸行くんが奏でる音色が、この国で「唯一」神々しく感ずるのは私だけであろうか。

 

 高橋まつりさん、葛西りまちゃん。 

 確かに唾棄すべき、見下げ果てた今の日本では、天国の方が美しい女性に会える気がする。

 

 我々は最も道徳の破壊された、自殺者の多い、最も自殺したくなる国に生きている。

 そして今の私には怒りの感情、虚しさの感情、失望の感情、無力感の感情、いらだちの感情しかない。

 私の正月は決してめでたくはない。

 私はまつりさん、りまちゃんに象徴される日本の若者の多くを救うことができなかった。

 

 しかし、ただ私の前にあるものは、今の日本を「忘却(oblivion)」のものとして、数少ない理解者と共に道徳のある国であろうか。