道徳で、メディアから日本人を守る | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立


道徳で、メディアから日本人を守る

 

■我々に必要な道徳とは、「社会的背景を考慮すること」である。

 

 哲学界において最も重視されるヘーゲル哲学においては、皆さん全くそうは思わないでしょうが、自由や民主主義の上に道徳が来ます。
 たとえばフランス革命で、左派の弁護士だったロベスピールのように、「自由」や「法」の概念を絶対視、盲信して、バンバン人をギロチンにかけていては、自分もやがて「必ず」ギロチンにかけられることになるのです。
 つまり橋下徹のように「法がすべてだー」ではなく、小林よしのりのように「立憲主義がすべてだー」でもなく、そういった金正恩・北朝鮮のような「道徳のない観念」だけにとらわれて、改革開放路線の側近をバシバシ公開処刑するのではなく、「社会的背景を考慮して、道徳的になることだ」とヘーゲルは言っています。

(なにしろその北朝鮮のような全く道徳のない国にさえ、「日本が世界で一番道徳がない」と思われていて、その「道徳のない日本のバカ番組で放送する」という口実で、金正男(キム・ジョンナム)氏が、ああいう非人道的で、無残なかたちで暗殺されたのですから…)
 

 

  

 (2017年1月31日 フジテレビ「グッディ!」、2月17日 TBS「Nスタ」より)

 ピコ太郎のペンとアポーのアポーペンみたいに、千葉大生3人と東邦大出身3人の写真が合体してしまいましたが…。

 

 そして、私が千葉大や東邦大の医学生や、集団準強姦の若い医師たちの近くにいたら、間違いなくこのような事件を起こさせない教育ができたでしょう。
 すなわち彼らにも親があり、家族があり、社会的背景があって、被害に遭われた女性にもそれぞれ同様に親があり、家族があり、社会的背景があるのであります。

 現代においては、道徳を切り崩しただけのような性的な娯楽が、ありとあらゆる媒体、カテゴリーで、自由の名の下に氾濫、蔓延しており、男児ポルノと強制わいせつで6人が逮捕された事件もショタという市場、需要が創出されていますので同様ですが、そういう個のない人間が、誤った「裏の顔」を持って優越感に浸ろうとするよこしまな方向に、親などの社会的背景を切り離して、「未熟な個人のレベル」だけで突っ走りがちですが、レイプ事件の千葉大生にしろ、男児ポルノにしろ、20歳そこそこの大学生が逮捕されており、彼らの母親とて40代と、さして高齢ではなく、多くの女性にとっても、全く道徳のない社会に生きる我が子がどういう人間になるかわからず、全く他人事ではないと思われます。

 

 メディアや、あるいは文化と芸術の域に全く達しない、道徳を取り崩したというだけの、商業主義というだけの、哲学も何も知らない未熟な人が、表現の自由の名の下に作った、暴力や性的な刺激だけが突出した娯楽ばかりにほうけて、馬鹿げた、下らない、唾棄すべき性癖に没頭、没入するより、まず自分の親や家族について思いを巡らせたり、もしくは社会で生きていくならば、さまざまな人が生きる社会について必ず考慮しなければなりません。 

 

 ですから、多くの人たちの周りにいる大切な男性、若い男性がそういうあやまちを犯さないためにも、私の道徳に耳を傾けていただければと思います。
 そして、道徳教育と言っても、こういう理論的で明解な説明の仕方であれば、「哲学だから難しい」ということもなく、皆様にもご理解いただけるのではないでしょうか?

 

 

 

■「楽しい道徳」 道徳とは楽しいものである。
 自著に対するいろんな意見がありましたので、美輪明宏さんの本のような、真に若者向きな、批判の少ない、「楽しい道徳」というかたちで紹介する予定です。次回以降、投稿予定です。


 

 

■道徳とは、3つに分けられる。
①儒教道徳
 残念ながら、日本の道徳とはいずれの時代ももっぱら国民を支配するために利用されたものであり、それゆえ戦後のマスコミには道徳に対する反発、反感が根強く、その最たるものが儒教でした。
 私自身、儒教道徳の徳目はまさに男の美学であり、大好きですが、残念ながら徳川幕府の林羅山は権力におもねり、儒教を悪用して「士農工商」のくだらない身分制度を国民に植えつけさせて、国民を幕府に歯向かわせないようにしました。
 また、江戸時代の貝原益軒が著した「女大学(おんな だいがく)」には、「容姿よりも心根の善良なことが肝要」など、今の芸能界を見ていれば、参考にすべき道徳、美輪明宏さんの言う「人の道」もたくさん書いてありますが、「夫を天として服従すること」など、総じて「女性は男性に奉仕すべし」と論じており、男尊女卑がいっそう強まっていきました。
 但し、同時代は今と違って男性の方も武士であり、かなり道徳的、倹約的でしたので、良く機能していた面もありましたし、現にそれが日本の歴史であります。

 かの三島由紀夫も、「マルクス主義にも修身道徳にも全く興味がない」と明言しております。
(この点から見ても私は、「男女平等」を前提とする、哲学による客観的な道徳を提唱しているのが、それでも見識がなく、心のない一部の女性から、いわれのない誹謗中傷のレビューを受けているのが現実です…)
 

②宗教倫理
 キリスト教もイスラム教も偉大な宗教であり、「神への感謝(Shukr)」という点で大好きですが、聖書やコーランや言行録の解釈の問題や、時代にそぐわない具体的な戒律がたくさんあるため、まず日本向きとは言えません。
 そもそも清水富美加さんのように、一若者が宗教を信仰しただけで日本では連日、マスコミで騒がれ、奇異の目で見られ、日本では宗教は無理解です。
 たとえばキリスト教では、離婚や中絶はダメですが、今の時代に強姦されても中絶がダメというのは女性にとってはかなり殺生(せっしょう)な気がします。
 さらにイスラム教においては儒教と同様、我々の社会から見れば、極度な男尊女卑が前提となっています。
 無論、ムハンマドほど女性思いの預言者はいないのですが、その前の時代の砂漠の民ベドウィンが「女の子が産まれたら殺す」など、さらに女性に厳しい社会ですから。
 また、そもそもイスラム法とは、日本の国のような法律では全くなく、「人生のすべて、日常のすべて」がイスラム教であり、イスラム法なのです。
 ただ、戒律が厳しければ厳しいほど、動物的な戦後日本のメディアのような、野蛮な欲望の状態から遠ざけられて神的となり、心身が清められるのは間違いなく、そのような献身的で崇高な生き方が天国に近いのは疑いようがありません。
 また宗教とは、このように「内心」のものであり、それとは正反対の「社会性」としての道徳とは異なる側面もございます。

 そしてキリスト教やイスラム教のような具体的な戒律は、形骸化する問題点をはらんでおり、事実、両宗教とも、無数の宗派に分かれて相い争っていますが、卓越したヘーゲルやデュルケムのような哲学、社会学においての道徳とは、完全に融通の効く、「自由自在の道徳」と見て間違いありません。
 また、あえて具体的な教義や戒律を置かなかった、自然を崇拝する汎神論(多神教)の日本の神社神道は、哲学的にも道徳的にも理想的であり、完璧と言えます(私の前世である一神教嫌いのスピノザ?も、喜んで日本の生を選んだのでしょう。ですから、日本ほど、(日本人が大嫌いな)哲学と道徳に向いている国も、私にとってはないんですね)。


③哲学、社会思想、社会学で語られる客観的な道徳。
 聖徳太子の十七条憲法も、豪族を支配するための道徳であり、林羅山の儒教も「士農工商」で、国民を支配するための道徳であり、戦時の修身(儒教)もまた、一般国民を戦争に駆り出すものであって(三島由紀夫も「興味がない」と言うほどであり)、過酷な道徳でした。
 

 それに対して、ヘーゲルやデュルケムを始めとする(私なんかは「自助努力」的な観点からニーチェも入れていますが)、哲学、社会思想、社会学の道徳とは、一言で言えば「社会性」であり、個人の観点からも、社会全体の観点からも、「人を支配する道徳」ではなく、「人を成長させる道徳」、また「人を生かす道徳」と言えるでしょう。
 無論、高校の倫理科で、「暗記モノ」として、うわっ面のうわっ面の表面だけを学ぶことはできますが、日本の学校教育が行う「試験モノ」としての倫理科は、たとえば哲学や社会思想と密接に関連する社会学は丸々抜け落ちていますし、イスラム教の一般教養もないですし、要領を全く押さえておらず、国語科以上に読解力が必要な教科が、歴史科と同じであり、私から見ればほとんど内容がないと言ってよいでしょう。


 また、朝日新聞、日本共産党、小林よしのりを始めとする日本の戦後言論では、「道徳=内心」という誤ったドグマを広め続けてきましたが、ヘーゲル哲学によればこれは完全に誤りであり、このような戦後言論は無学よりもはるかに始末が悪く、戦後の社会衰退を加速して、現実的に多くの日本人の人生を台無しにして来ましたし、ましてやヘーゲルの影響を受けたマルクスのマルクス主義を標榜しているなら、一からではなく、徹底的に「自己批判」して、完全にゼロから勉強し直すべきと思います。

 

■道徳で、メディアから日本人の人生を守る。

 文部科学省、鳥越俊太郎、NHK弦本記者、乙武さんは対照的に「五股不倫」でメディアから道徳的に非難されることのない不倫女性…。
 私は一日に多い時で何百ものブログを見ていますが、アメブロをやっている女性の大半は道徳的に大丈夫です(初見の男性のブログは、申し訳ありませんが、多くの場合は判断がつかないです)。
 ですが、日本の道徳退廃による社会衰退はピークに達しており、加害・被害問わず多くの人生が台無しにされ、全国のできるだけ多くの人に、道徳的な知識を持ってもらうことで、退廃した空気を変えて、社会の潮流を良くしていくしかないと思います。

 

  

 (2017年2月20日 NHK 「ニュース7」より)

 

 たとえばNHKは、障害者殺傷事件で容疑者に「自己愛性パーソナリティー障害」という鑑定が下されたことを強調することで、国民に「道徳の必要性を隠す」報道をしています。
 しかし、NHKはNHKで働けている時点で障害がないであろう弦本記者が逮捕されたことへの総括を一切していません。
 そして、果たして「障害者を襲った植松容疑者も障害者だった」という一事で片付けられて良いものでしょうか?
 仮にそのような「みずからを特別な存在と考える障害」として、都知事選に立候補した外山恒一氏など、そのような傾向にあるすべての人を「人格障害がある」として、「障害者施設を襲うかもしれない」として、精神病院に入れるには無理がありますし、そういった人にこそ最低限の社会性である道徳教育をすべきと私は考えます。

 すなわち、私が植松容疑者に道徳を教えることは可能ですし、社会がそれをすることも全然可能ですし、「道徳全否定」の全共闘世代、団塊世代が支配する日本のメディア、官僚、政治家、学会などの社会が道徳の重要性を理解していれば、このようなことは起きなかったのです
 現にマルクス主義によって道徳が廃されなかった他の国では起きていません。

 逆に言うなら、NHKのような、戦後一貫して道徳を隠してきたマスコミの姿勢こそ、障害者殺傷事件や弦本記者を生み出してきたのではないでしょうか?
 しかも未だにそれを総括せず、朝日新聞もNHKも全く自己批判できず、逆に姑息(こそく)にも、今こそ必要である道徳を国民の目から隠そうとしています。

 

 そういう意味において、道徳家である私が、社会において理解を得られず、道徳に理解のないマスコミや官僚、学会に相手にされず、完全に孤立していたため、それら道徳を隠してきた日本の戦後のマスコミから相模原の障害者やNHK記者に襲われた多くの女性を守れなかったことに忸怩(じくじ)たる思いを持っています。

 

 

  (2017年2月9日 NHK 「ニュース7」より)

 

 NHKは弦本容疑者を懲戒免職にすることで、今まさにトカゲの尻尾(シッポ)切りを図ろうとしていますが、NHK全体の倫理教育の欠如が問題なのであり、「クローズアップ現代」の出家詐欺やらせ問題などもありましたし、市場競争にさらされる他の企業では風評被害や信用問題に発展して、そんなことでは済まないはずです。

 また、NHKを始めとするマスコミはすでに国防の問題、安保法制に反対する世論醸成の目的で、岸井成格など、反対する側の報道だけを一方的に行って放送法やフェアネス・ドクトリンの精神を踏みにじっており、つまりすでにして「中国共産党に利するかたち」で、日本人の平和と安全を脅かしています。
 しかし、これは一部の偏ったメディア権力による議会制民主主義の否定であることは言うまでもありません。

 中国は、日本固有の領土である尖閣諸島の領有権を突然主張して、尖閣近海に軍艦を寄こしてきています。最近は空母「遼寧」を太平洋にまで送り込んでいます。また、中国の国防費は日本の5倍と言われ、かつ人民解放軍は日本の自衛隊のようには一切法に縛られず、かつ人権がありませんので、何人戦死者が出ても国内的に全く問題なく、核兵器も持っていますし、「反日」が国是であり戦意も高く、ハナから勝負にならないのです。

 まして脱原発を叫ぶなら、シーレーンを守るために集団的自衛権は必要不可欠なのですが、「日本そのものの解体」を目論む(グローバリズムの流れも災いして)、団塊・全共闘世代が支配する在京メディアによって、日本の世論が不当に煽動されてしまいました。

 

 また、NHKでは54年も続いている「大河ドラマ」において頻繁に放送される戦国時代や江戸時代などは、完全な「男尊女卑」の儒教が支配的であり、つまり故意に、女性がほとんど活躍できなかった時代ばかりに焦点を当てて、あたかも女性が活躍した時代だったように一年中誇大妄想を創作していますが、本来は「彼ら日本のマスコミが日本国民に教えたくない日本の歴史」、推古天皇などの古事記や日本書記、またその両方にすら記されない、謎の女王、卑弥呼(紙幣や切手にもなった神功皇后という説もある)の時代こそ女性が輝いていた時代であります。