10月11日 東名高速死亡事故と客観普遍な道徳の必要性について /音喜多都議離党ほか | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

■東名高速の夫婦死亡事故と、客観普遍な道徳の必要性について
 

 
 (10月10日 TBS「ひるおび」、日本テレビ「news every.」より )

 

 パーキングエリアの出口を塞いでいた車に注意をしたところ、夜の高速でしつこく追尾され、追い越し車線に車を止めさせられて、胸ぐらをつかまれ、後ろを走行していたトラックが衝突し、幼い姉妹の前で両親が死亡した(6月5日)。
 逮捕されたのは25歳の一見して悪そうには見えない若者だ(写真、左上)。
 派手に髪を染めていたりだとか、ピアスやタトゥーなど、見た目的な脅威や反社会的な雰囲気もなく、ごくごく普通の男性である。
 だが、見た目が普通だからといって必ずしも普通の性格であるとは限らないのが、社会学者の宮台真司が言うところの「ヘンな人が多くなったのが成熟社会」であり、今の時代の恐いところである。
 先日私の知人も、車を運転していたところ、全く過失がないにもかかわらず、バイクに乗った若者からしつこく追跡されて、「さっきぶつかりそうになっただろ」と因縁をつけられて、その場で車に傷をつけられたことがある。

 「若者が重大な犯罪を起こすのを待ってから、道徳を教育するのでは遅すぎる」という「自由論」で有名な社会思想家J.S.ミルの言葉を思い出す。これからの日本は「道徳のない若者は一切車を運転してはいけない」である。無免はもちろんダメだけど、そんなやつらに免許なんか取らせるなと。

 

■追記 (10月13日)
 その後のニュースでも周知であるが、この男は、過去にも進路を塞いだり、急激に減速して後続の車が追い越そうとしたときにわざとぶつけたり、他の車を止めさせてドアを蹴ったりしていたそうである。
 …であるから、事故の直前にパーキングエリアで進路を塞いでいたのも、あえて注意されるために、わざとやっていた可能性が高い

 そうなってくると、事故に遭われたご家族は、この男によって、意図的にご夫婦が殺害されたといっても過言ではなくなる。

 そしてこの男はゆくゆくは保険金をせしめようとして、この手のことを生業(なりわい)にしようとしていたようである。
 近年は高齢者事故が相次いでいて、さすがに高齢者の運転能力の低下は、私とは関係ないテーマであり、最近は高齢者事故の報道がなくなったと思ったら、今度は非道徳な若者、成人男性による危険運転が社会問題となり、これまた、私の道徳の領域にドーンと入ってきてしまった…。
 つまりは不祥事の多い福岡県警で、警察官の皆さんを相手に道徳講習をやりつつ、運転免許を取られる男性にも道徳講習をやらなければならない…そんな使命感が湧いてきた。
 無論、それが可能かどうかは別として。
 また、後述しているように、日産、神戸製鋼、電通の問題も、完全に道徳の領域である―。
 無論、今は法で縛るしかないと考えているかもしれないが、何でもかんでも法では縛れず、私の説く、ソクラテスが重視したような普遍的な道徳を実践する時期に来ている。

 とりあえずはダメ元で提言でも送ってみるが… (以上10月13日)。

 

 ところで、サウジアラビアの「女性は車を運転してはいけない」という法律は、日本では全く逆の状況であり、事実、今日(こんにち)のひったくりや通り魔殺人、変質者の多い日本では、女性は車を運転するべきであるし、私が生まれたときから仕事のために車を運転し続けている私の母も、そういった事件に遭ったことは一度もない。 

 確かに「悪いやつなんてどこの国にもいる」という、団塊左翼世代の気のない返答が聞こえてきそうだが(事実、私の父の言葉)、10月6日には、32歳の夫が妻と5人の子どもを殺害する事件も起きたばかりだし、10月7日には、25歳の夫が妻の首を切って殺害した事件も起きたばかりである。つまりそのような「悪いやつ」は成人し、結婚した一般家庭の中にも広まりつつある。

(10月8日 TBS「Nスタ」、10月7日 テレビ朝日「スーパーJチャンネル」より )


 私は大島あつしなど、民進党議員のように、「小中の道徳教育に反対」ではなく、むしろ中学2年はいじめが多いので、主観的ではない、理性的な道徳教育をすべきだが、「社会人に対して客観普遍な道徳を啓蒙する機会を設けるべきである」という提言を文部科学省や東京都、埼玉県(上田清司)に行ってきたが、残念ながら返事は全くなかった

 こういった日本国中に蔓延する道徳観の欠如、ことに魔が差したり、感情が行き過ぎたりして、大きな事件を起こしかねない、20代・30代の男性を客観普遍な道徳で徹底的に教育したいが、今の世の中に道徳を行き渡らせるのは雲をつかむような話であり、ローマ帝国時代のパウロによるキリスト教布教であるとか、あるいはムハンマド、日蓮上人のように、宗教の力を使って、全体的かつ半ば強引に広める以外ないのが現実である。

 また、なぜ私が言うような道徳が必要かというと、今の世の中は、道徳的だったころの小林よしのり氏がよく言ったように相対主義が蔓延しているためである。
 「相対主義」とは、絶対主義の反対であり、「あれも良ければ、これもいいよね」という、つまり公共的で普遍的な価値基準を全否定して、「違法じゃなければ、人に迷惑をかけようが何をしようが、最大限何をやってもかまわない」という戦後のメディアで支配的な考え方である。

 日本で言うなら、30代の女性が後ろに行列ができているATMで、複数の作業をして20分粘った後で、後ろの人たちに頭も下げずに平気な顔で立ち去ったり、20代くらいの見た目に気を遣っている、事実きれいと言われていそうな女性が電車の中で周りにいる人を意識的に排他的な態度を取ってメールをしたり、男子高校生が他人とすれ違いざまにペッとツバを吐いたり、老婆が鳩にエサをやって、近隣の家や乗り物を鳩のフンまみれにしたり…そして、道徳に否定的な団塊世代が70前後となって、高齢者までもがクラクションを頻繁に鳴らして猛スピードで野蛮な運転をする軽トラが多かったりと、高齢者犯罪の激増と相まって、今の時代は完全な「非道徳時代」である。

 また、相対主義の時代とは、テレビやマンガなどの娯楽産業も、大半は暴力や性、あるいは冷笑主義的なもの、ただ単に「道徳を切り崩しただけのもの」であり、芸術や創造とはほど遠い、あるいは松本人志の言う「垂れ流し番組」しかない、おおよそ「評価すべきものがない時代」のことである。

そして、この相対化をふせいだことによって、確固たる哲学者となったのがソクラテスである。
「ソフィストは、…道徳までも相対化してしまった。道徳の相対化は、ポリスという…社会生活の単位を混乱におとしいれることになった。
ソクラテスは、このような道徳の相対化を克服し、社会の混乱を救おうとしたのである。
ソクラテスは道徳を人々の思わくや社会の変化に左右されることのない、絶対・普遍なものにし、…真によいポリスの生活を築こうとしたのである。」
(「精説 倫理・社会」数研出版より)


 高い志を持って出された客観普遍な私の道徳本の売り上げは未だ1,000部以内であり(泣)、頂いた感想も女性からだけであり、一番読んでもらいたい成人男性にはほとんど手にとってもらっていない。

 社会を変えるには、それこそ私が池上彰や林修の倍くらいはメディアに出て、とにかく社会人に私の名前を覚えてもらって、道徳の必要性を訴えたいが(メディア批判は今まで長々としてきたので省略するが)なかなかその機会は訪れないだろう。

 依然として道徳講演、道徳セミナーを企画中であるが、私に対してそのような要望は一切聞こえてこない。
 道徳とは、小学校や刑務所の標語のように陳腐なものと捉えられてはならず(デュルケム)、そのような押し付けは完全に逆効果であり、むしろ反抗を生むので、デザイナーズブランドのように価値のあるものというのは言い過ぎかもしれないが、イスラム教ですらそうであるように、安売りや押し付けは当然できないし、またヘーゲル哲学的にも、道徳とは非常に深いものであるので、私の方から、どうこうというの差し控えたい。

 事実、少子化や児童虐待の温床(おんしょう)である団塊ジュニア(70年代生)から子ギャル世代(80年代初めから半ば生)を経て、今20代後半の世代の子連れの女性が私にあいさつをしてきて、「そのような立派な女性が日本にもいるのか」とビックリしているが(私より15歳くらい年下になってようやく…泣)、無論都市部ではない(都市部の女性が子どもを全く産まないというのは、三橋貴明氏ですら言い始めている)、出生率が比較的高い西日本の女性(それでも1.6では全くダメなのだが)はごく普通に接してくれるが、私に対してあいさつをして下さったり、私の言うことに関心があるような、寛容で洞察力のある、心ある方々よりも、全く道徳に関心がない層に対して、かつての三大宗教のように社会全体に語りかけなければならないのであって、そうなるとテレビに出ずっぱりになるくらいやらなければならないのであるが、むしろ、「すべての人には得手不得手がある」ことを理解せず、直接的な行動を取らない私を非難する声も聞こえてくるが、完全に孤立して社会的に影響力のある著名人や組織に全く賛同者のいない私には、それも難しいと考えている。

[あと、こんな文章を書いている私のことを「気難しい道徳家」と考えている人も多いと思うが、性格的には全く逆であり、まれにそういう道徳的インスピレーションを受けているだけである。ビートたけしさんが「新しい道徳」という本を書かれ、最近では映画「アウトレイジ 最終章」の監督や恋愛小説を書いたりしているが、この人よりも圧倒的に私の方が振れ幅は大きい(具体的な事情は控えるが)。
だから、私はそういうインスピレーションが来なければいくらでもブログを放置しても全く問題ないという危険性がある。「そんな高澤はニセモノだー」と思われる人もいるかもだが、事実、完全に道徳的な存在とは死体(死)であって、道徳とはまさにそういうものであるから―。]




■ラスベガス銃乱射に見る世界的な非道徳の兆候。

 

NRA(全米ライフル協会)は『銃ではなくて人が人を殺すのだ』と言っているが、日本では一人の人間の気が狂って人を殺そうとしても、一人で58人も殺すことはできない」とCNNにツイートして、一部のアメリカ人から心ない反論があった。

「オマエらもサムライが刀を持って人を殺しているだろ。米でも食ってろ。」
 だが当然それは100年以上も前の話であって、現代に日本刀を携帯している日本人なんて一人もいないし、我々は社会の中で互いに殺し合うのをやめて働き始めた。
 「君たちはなぜ日常生活で未だに拳銃を持っているんだい?」「なぜ君たちは変わろうとは思わないのか?」と反論してやりたかった(ツイッター上で、こちらは実名・顔出し、向こうは匿名・顔無しなので反論はしなかった)。
 イスラム国による宗教的・民族的なテロではなくて、一アメリカ人がアメリカ人を大量殺戮しているにも関わらず、若くて無知なアメリカ人とは、微塵の哀悼の気持ちもなく、この程度の認識である。
 しかし、いかんせん利己主義的な欲望が蔓延するNRA寄りのアメリカ人にとって、「もしラスベガスで後ろから撃たれて脳みそが飛び散ったのが自分だったなら」とは微塵も思わないのだろう―。
 事実、アメリカには(道徳家の私が重視しないJ. ロックの思想の)「革命権」というのがあって、体制は自分たちで変えられるし、かつ自分たち家族の安全を自分たちで守るために銃を持つことが国民のアイデンティティになっている。
 悪く捉えるなら「自分たちさえ良ければ、他人はどうなっても構わない」という「マフィア脳」の自己本位主義だ。
 無論、新大陸を銃の試し撃ちの場(シューティング・ギャラリー)と化して、大地を無数の血に染めた彼らの考え方と、私が重視する原始キリスト教の内面的な道徳倫理とは完全にかけ離れたものだ。
 

 しかし、時代は移り変わるものであって、そんな300年前の建国思想が、今の時代も当然絶対であるはずもなく、銃をたくさん持ちたい連中は崇高な建国の思想を、ただ単に自己正当化に利用しているに過ぎないし(キリストやヘーゲルは、道徳のない、「概念による自己正当化」を厳しく批判している)、事実、殺された58人、負傷した489人は、革命を起こされる支配者側の人たちでは全くないわけである。
 

 そして、トランプやNRA寄りの人間が、もしそのような時代を続けたいなら、日本みたいな平和前提の社会をやめて、我々から見てイスラム国に近い、戦場のような、市街戦の社会に変えたらいい。

 むしろその方が、犠牲となった58人は、常に二人一組で行動して、死角を作らず、屋外にも極力出ないようにして、防弾ガラスのついた車だけで移動し、そのような危険な屋外イベントも絶対にありえないし、死なずに済んだかもしれない。もちろんMLBやNFLの試合もほとんどできなくなくなるだろう。

 そしてもしアメリカがそんな社会になっても日本にはたくさん移民してこないで欲しい。それは中国人も全く同じであり、なぜならこちらが銃の犠牲者を出さないために平和的な真実を言っても全く聞く耳はなく、そして当然アメリカの内政には全く干渉できないわけだから。自分たちの国のことは自分たちで解決すべきである。


 だが突発的にパドックのような、今のアメリカを象徴してしまっているクソ●違いのサイコ野郎が出てきて、その動機の解明に手こずっているという。
 パドックは64歳の無類の金持ちであり、「人生最後のぜいたくとして、人をたくさん殺してみたかった」というだけの話である。少し考えればわかりそうなことだ。
 そういう「人を殺したい」という欲求は一部の狂ったアメリカ人やイスラム国に限らず、さきほど述べたような、道徳を教育されていない日本の若者も当然持っている。
 三島由紀夫はかつて「若者は死の衝動を持っている」として、バタイユに傾倒し、自らも武士道のうちに死を美化して、割腹自殺を遂げたが、それは半分間違っていて、「死んでもかまわない」というのと同時に、「人を殺したい欲求」も持っているのである。
 そして、我々日本人も、アメリカ人と同様に道徳倫理のない自己本位的、利己主義であって、たとえば、32歳の夫が妻と5人の子どもを殺害した事件について「もし我々が5人の子どもだったら」とは微塵も考えない(少なくともメディアは)。

 私は日本を「アメリカさん」(向こうから見れば私は他人、異邦人なので)みたいにはしたくないので、そうした意味で普遍的な道徳を社会に広めようとしているのである―。
 
 



■神戸製鋼の性能データ改ざん、日産の無資格検査、産業界の道徳退廃

(9月22日 テレビ朝日「ANN NEWS」、10月8日 TBS「Nスタ」、10月6日 TBS「ゴゴスマ」より  )


 ソクラテスの時代と同様に、今日(こんにち)の日本も、相対主義が道徳的価値観を破壊して、社会に混乱を巻き起こしていることは疑いようがない。
 たとえば、空から航空機のパネルやヘリコプターの積荷の石材が落ちてくる時代になった。
 加えて、神戸製鋼が強度の性能を改ざんしたアルミ製品を、自動車や航空機にも使用しているという。
 無論、これは企業倫理の問題だけではなく、三橋貴明氏の指摘されるように、全体的なデフレが背景にあって、その中での企業による人件費の削減、コストカットという経済的な要因もある。
 車や航空機の安全が、部品と検査の両面から脅かされている。
 相対主義による社会全体の道徳退廃と相まって、財務省の緊縮財政、デフレ対策の放棄による、価格競争、コストカットとそれに伴う品質低下で、日本の産業界は危機に瀕している。

 企業倫理の低下の問題も、デフレなど、経済的な要因もからんでくるが・・・、

 しかーし!

 私の立場なら、三橋貴明氏や、あるいは障害者施設殺傷事件で、「日本中の障害者施設の監視カメラの数を増やすべきだー」と言って、朝日新聞と同じでホント何もわかってない渡辺哲也氏を向こうに回して、「電通でまつりさんが自殺したのは、デフレではなく、企業の悪しき慣習、クソマニュアル主義、道徳のない企業体質の問題であって、お金だけの問題ではなーーーい!」と言いたいし、事実不祥事を起こしている大企業には、内部留保を溜め込んでいる企業も多いわけだから(電通がお金ないわけないよね?)、これまた、完全に孤立無援の私一人で一体何ができるかである!

 

 つまり日本の言論界に一石を投じている「おはよう寺ちゃん」ですら、みんな私とは反対の立場であり、まったく何(なーーーーーんに)も知らない経済評論家ばかりで、私の言うことに聞く耳を持つ人なんていないのであるが―。でも、私もまつりさんの死にはひどく心を痛めているので、「全く理解者がいない」という状況ではあるが、企業倫理のためにもぜひお役に立ちたい気持ちは人一倍ある。しかし、忸怩(じくじ)たる思いがすべてのような、メディアの誰一人も全く聞く耳を持たない、わが人生ではあるが…。
 

 

 

 

■音喜多議員の離党に見る、老獪の邪心と政界のうねり

(10月10日 日本テレビ「news every.」より。

 自民党は選挙戦の街頭演説での小池批判を控える方針のはずだが、「親小池」である小泉進次郎氏にわざと小池批判をさせておいて、それをメディアに取り上げさせることで、テレビでの露出を増やしているという「炎上型政治」が行われていると指摘する人もいる)


 だいぶ前にブログで、築地豊洲両立案に関して、「小池百合子の化けの皮を剥がすべきだ」と、誰よりも強い調子で書いて、一人で熱を上げていた感があり、自分で書き過ぎとも思ったが、それを訂正しない自分もいた―。


 

■追記 (10月13日)

(2017年10月12日「日刊スポーツ」1面の広告より)
 この記事を投稿した翌日に、週刊文春が私と同じフレーズを使った。奇遇だなぁ。
 まぁ、私の本も道徳がテーマということもあって、具体例を出さねばならず、文春ネタが多い。

 私も小池さんを批判し過ぎた感があるけど、百田さんの言う通り、彼女は日本の政治をめちゃくちゃにしてしまったー。
 本来なら、「グローバリズムVSグローバリズムの軌道修正」、「移民推進VS移民制限」、「緊縮財政VS積極財政」、「増税VS減税」、つまりは国民を貧しくしてきた増税・緊縮の麻生太郎ら自民党・財務省や小泉進次郎に代表されるグローバリズム政治家との戦いをしなければならないのに、たった一人の私利私欲によって、「安倍VS小池」の構図に持ち込んで、大事な政治的選択を国民に一切させなかった―。
 したがって舛添さんとは比較にならないくらい、都に与えた豊洲移転延期の損害も、都知事にも関わらず国政に行って、国民に対する重大な政治的選択をさせなかった罪も断然大きい。

 なぜなら三橋さんが言うように、希望の党も自民党と全く同じ、グローバリズム・緊縮路線であり、対立軸がないから。希望の党は「消費増税の凍結」は謳(うた)っているけど、「減税」ではなく、かつ緊縮路線であり、「原発反対」も代替できるエネルギーが不明である。
 結果として、小池さんは昨年の舛添さんと全く同様に、激しいバッシングを受けている。
 また石原、猪瀬、舛添、小池と、都知事職に就いた知名度選挙の人は軒並みバッシングを受けており、これが浅野史郎など、まじめで地味な地方の知事ならこんなことはないから、「政治家の道徳の必要性」を改めて再認識させられる(以上、10月13日)。

 

 私はだいぶ前の記事で、「小池百合子の化けの皮を剥がすべきだ」と書いたが、現実は、おおよそ私が予想した流れに進んでいるようである―。
 10月5日に、小池百合子によるSNS・言論の統制と密室政治など様々な問題に抗議するかたちで、音喜多議員が離党会見を開き、東国原英夫氏も大いに音喜多議員を応援し、「都民ファースト」にさらなる離党を呼びかけた。
 そして、保守論客のすべてが自称保守の小池百合子を「総スカン(好かん)状態」である。

東国原英夫「(音喜多議員の離党は)大英断だと思いますよ。そりゃ批判もありますよね。『最初から小池さん自身を見抜けなかったのか』とか。僕はもうエールを送りますね。応援したいと思いますよ。この人たち(音喜多・上田都議)とだったら一緒に政治をやってもいいと思ったくらい。僕はもう都民ファーストは5人、10人、20人と抜けるべきだと思います。早めに抜けといた方がいいです。ろくなことはないです。みんな不満を抱えているんですね。こんなハズじゃなかったと。/僕は(小池氏は)組織ガバナンスができない方だと思います。」(ゴゴスマ/バイキング)

青山繁晴 「北朝鮮が核ミサイルを撃ち込むとしたら、99.99999%くらい東京なんで、避難訓練一つも、プランニングも…東京都の連携もほとんどできてない。で、なんで国政に奔走されているんですか? 国事に奔走という幕末の志士の話とは違いますよ。いわば私(わたくし)事、自分の力を高めることに奔走されている人といわざるを得なくて。」

竹田恒泰「ユリノミクス?? キモ。。。都政で何の成果もあげていないのが、何言ってんだか。…ただの言葉遊びに過ぎない。公約の中身はカラ。」(ツイッター) 

三橋貴明「小池さんの戦略はとにかくテレビに出ること。『そういうのでどうせあなたたち入れるでしょっ』て思われてるんですよ。(小池氏が小泉進次郎氏にあえて自分を批判させておいて、それに対して「キャンキャン言ってる」と言ったことについて)炎上を狙ってますねー。それで票を取れるんですよ、日本は。だから問題なんですよね。ナメられてますよ。完全に。」

藤井聡「10年前の都知事の感覚からすると(国政進出は)ありえない話。(小池氏は「安倍総理も総理と自民党総裁の二足のわらじ」と反論しているが)中学生の倫理政経を読み直してくれと。日本は議院内閣制があるから。いつから地方行政が議員内閣制になったんだ?と。…いわゆる炎上型政治ですよね。政治的闘争ありきで党が組まれ、一番不幸なのは国民と思いますね。…原発ゼロを憲法に明記するのは極めて危険。…政党は選挙のために存在するのではない。政策ありきが基本。」


百田尚樹「今回の選挙は、この日本の未来がかかった大きな選挙やったんですね。小池さんが出てきてその争点が無茶苦茶になってしまった。/民進党の議員を全部入れると、…自分の党やのに自分が追い出されることになるんですよね。『これヤバい』と思ったんでしょうね。小池さんは『選別します』。つまり自分に忠誠を誓う者は選ぶけど、忠誠を誓わない者は入れないと。私の足の裏は舐めれるかと。」

 

[ところで東国原さんに対して、音喜多都議が都民ファースト離党の件についてツイートしたところ、まさかのご返信をいただいた。忙しいさなかに恐縮の極みである―。それだけ東さんにとっても、健全な民主主義のあり方から大きく逸脱した、小池都知事の独善的な政治手法には納得がいかなかったのだろう。]

 

 最近は「ど真ん中のフェアウェーを行く」と言っているが、結局は竹田恒泰氏の言うように、「言葉遊び」ただそれだけであり、風ばかり見て何も決められず、「核武装で原発反対」という完全な自己矛盾、その場しのぎの人気取りにしか見えない―。
 また、「アウフヘーベン」だけを連呼して、ヘーゲル哲学の深遠さを何もわからないくせに小手先だけでヘーゲルの有名な哲学用語を利用して、人の高みに立とうとする姿勢も正直、辟易(へきえき)する。

■純粋すぎた若者、音喜多都議

(10月6日 TBS「ひるおび」より )


[いてもたってもいられず、さきほど(10月10日の夜)音喜多都議にツイートしたところ、なんと音喜多都議本人から「いいね」された。忙しいさなかに恐縮の極みである。小池支持者による一方的な批判の返信が多くあり、ツイッターを見る限り、かなり追いつめられている感があったので応援のツイートをしたのだが。離党による心労もあるだろうが、東国原英夫氏と青山繁晴氏が音喜多氏の応援を明言している。音喜多氏の選挙区が、私自身が大学時代から2000年まで過ごした東京北区の王子ということもあるが―。]


 子どもを抱えた女性が単身パートで働いている格差社会と、子どもの貧困の現状の中、「妊娠したと嘘をついて1,500万円を騙し取った」とテレビで広言し、自分はグラビアアイドルにも関わらず独身で、年1,300万円余りの議員報酬を受け取る塩村文夏都議(無論、このような女性は、この世代には上西小百合はじめ、いくらでもいるが…)と共に行動し、「日本語なんていらない」といった類のグローバリズムの方向性に賛同する田原総一朗氏や、「(米モンサントへ売り渡すための)農協解体」の小泉進次郎ら、反日、日本解体の政治的なコミュニティーに身を投じた「みんなの党」時代の音喜多駿氏は、私にとっても批判の対象であり、あまりにも若すぎて何も知らなさ過ぎる青年だった―。

 そして、市民派の上田令子都議に対して、平均収入400万円である江戸川区の有権者に2万円の政治資金パーティーのチケットを買わせて、そのお金を徴収するノルマを課すという、庶民の生活や議会制民主主義を顧みない「政治屋」、小池百合子を応援し始めた時も。
 無論、当時の都民の敵はまごうことなく「都議会のドン」内田茂だった。
 そして、メディアや音喜多都議の活動によって、都民は妖怪の内田茂と舛添要一を追い出して、一件落着したかに見えた。
 

 しかし、舛添要一というセコイ妖怪を追い出したら、今度はこの世のものとは思えない、厚化粧のお化け、化け物が現れた!
 「やぶへび」とはまさにこのことである―。

 美輪明宏さんいわく、まさに「日本の政界は魑魅魍魎(ちみ・もうりょう)」。 
 その最たるものが無策・変節で、人として全く信頼が置けないため、自民党をお払い箱となっていた例のあの人である。

 舛添辞職により、自らパンドラの箱を開けてしまい(泣)、順当に「内田茂バッシング」で劣勢に立たされた自民・増田氏と、女性問題の鳥越氏という弱すぎる対立候補に勝って、都知事の座を簒奪(さんだつ)してしまった・・・。
 また、国政時代には移民議連の会長となって、移民政策が進められた結果、日本では年5,000人以上もの外国人技能実習生が行方不明となり(その多くが中国人)、日本は国民の民意を完全に無視して移民大国になりつつあり、石破茂・小泉進次郎ら、移民推進、農協解体の自民党の「政治屋」、「亡国」の新自由主義、グローバリズムの旗手、竹中平蔵と一心同体であり、これらの人たちとつながりを持ち続ける―。

 音喜多議員の離党は私から見てあまりにも遅すぎた。
 普通の若者だった優等生の音喜多くんがようやく得体の知れない化け物に、自分自身が取り込まれていたことに気づいたのである。

 真面目なだけでは奇奇怪怪の妖魔たちには勝てないのである…(泣)。
 私は昨年小池百合子が都知事に立候補するのを知って即座に憤激し、その足で都庁に行って、都知事選に立候補するための書類をもらってきたほどである―(その場にいたNHKの記者さんにも「小池百合子が立候補する危機感」を露わにしたが、感じ取ってはもらえなかった。しかし私の予想は的中した・・・)。
 私は音喜多くんが今になって知ったようなことを当初から見抜いていた。
 それは「ジョジョの奇妙な冒険」でスピードワゴンがディオを見て放ったセリフに近い。

 私から見て感じ取れることは、小池百合子が政治の世界で、人のために何かをすることは一切なく、すべては自分一人だけのための「ポイント(得点)稼ぎ」、パフォーマンススタンドプレー、全くの無策、ノンポリにも関わらず、空恐ろしい「自己顕示欲の塊」。
 「慇懃(いんぎん)無礼」、「権力ジャンキー」とは言わないものの、権力欲の権化(ごんげ)。
 「女性を利用している」とか、「厚顔無恥」だとかいうレベルではない。
 そして10月5日の音喜多都議離党会見で、完全に「化けの皮が剥がされた」のである。
  
 政治屋ヒラリー・クリントンが崇高でうらやましく思えるほどの、自民党の古いタイプの「政治屋」。
 そして結局は「ファーストペンギン」とまで言って持ち上げて、真面目で純粋に政治活動をする音喜多く
んを言論統制した上で「ポイ捨て」し、密室で自分の秘書であるイエスマンの荒木千陽(ちかげ)を代表に決めて、その父を衆院選で公認した―(もし希望の党が大勝したなら、百田尚樹氏の言うように、旧民進党の人たちが選挙後には数の力に物を言わせて、小池さんを早々に追い出してほしい)。


 つまりは都議会の健全な民主主義と二元代表制の否定というか、そのような音喜多くんが持つ真面目な政治理念や、真摯(しんし)に有権者に向かう合うことは、彼女にとってあくまで建て前であり、彼女にとってはそもそも民主主義自体がどうでもよく、重要なことは、密室で荒木千陽を代表に取り立てたように、自分に忠誠を誓うイエスマンを増やすことである。つまり小池氏が理想としている政治とは、小池を主(あるじ)とする君臣関係を前提とする封建制度なのである―。

 また、「都知事が二流のホテルに泊まりますか?」と言った舛添も小池と同じノリであり、封建制度のお殿様気分であり、「政治家が公のために奉仕する」という民主主義の根幹を理解していないのである。

 くしくもこの日(10月10日)に筧(かけい)千佐子被告に死刑が求刑されたが、我が身かわいさに他者を陥(おとしい)れてつかむ欲望という意味では、小池氏も何も変わらない気がする。
 事実、有権者に向き合う気なぞさらさらなく、都民ファーストの都議を使って、格差社会にあえぐ江戸川区の庶民に対して、政治パーティーの2万円のチケットを売りつけようとしていた。

 事実、豊洲の問題や五輪道路など、未だ何も為していない知事職を放り投げて、都知事の公務をキャンセルして、何の政策も持たずただただ国政に進出―。○もおだてりゃ木に登る。
 そんな「権力欲だけの人」を見抜くのが遅かったとも思うが、向こうも音喜多くんのように真面目に働く人たちをたらし込むプロ中のプロであり、今の若者とは私から見てそんな感じである。

 私なら絶対に引っかからないような振込詐欺被害がなくならないわけもわかる気がする。

 都民ファーストであるとか、エドはるみさんに代表される小池政治塾の人たちには、何かの大きな陰謀を持つ組織に騙された被害者の会の人たちの雰囲気に共通する、何らかのいかがわしい意志によって利用されてしまうような真面目さ、純粋さ、一途(いちず)さが感じ取れる。

 なにしろ講師が、時代遅れの新自由主義とレントシーキングの竹中平蔵という時点で。
 事実、三橋貴明氏「ですら」、小池都知事就任時は応援していて、私はそのことに大変違和感を持ったのだから―。
 2012年に434万票という大多数の民意を得て猪瀬直樹が当選した。
 しかし、その栄光も長くは続かず、434万都民の負託を受けた猪瀬直樹をイジメて失脚させた都議会自民党のドン内田茂、そして内田の傀儡だった政治資金公私混同の舛添要一、さらには音喜多イジメと、国民を愚弄するような炎上型政治を駆使する小池百合子という「東京三妖怪」によって、豊洲移転延期や五輪道路の問題と、都政は大きく混乱したのである―。

 「政治家にも道徳は必要である」と私は自著で説いたが、平成の都政には全く皆無であった。
 

 434万都民と共に、都政を担うことのできる能力を持つ猪瀬直樹氏の帰還の時を待ちたい―。

(また、政治に多くを割いてしまった。今度は私が政治の話をしなくてもいいくらいまともな世の中になってもらいたい。)

 

 

 

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