元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか

1 由良の地名で有名なのは、和歌山県日高郡、京都府宮津市、兵庫県洲本市である。
(1) 和歌山県日高郡の由良
 その幻想的な風景は万葉集に読まれており、歌碑も設置されている。
妹がため玉を拾ふと紀伊の国の 湯羅(ゆら)の岬にこの日暮しつ
朝開き漕ぎ出て我は湯羅(ゆら)の崎 釣する海人を見て帰り来む
湯羅(ゆら)の崎潮干にけらし白神の 磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は由良ケ嶽の頂に虚空蔵の廟があるという。また、熊野三所権現社あり、とする。由良神社には神楽踊が奉納される。丹後国加佐郡旧語集に「由良ノ荘千軒ト云大村也」とある。
 古事記伝云う、「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門(戸)をわたる舟人梶をたえ 行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とある。
《加佐郡誌》「由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものである」とする。
 小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」 より
 由良という地名には、「波に押された砂が狭い 平地を平らにする」という意味があるという。
 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には『枯野を 鹽に焼き 其(し)が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある。
  伊豆の国から献上された「枯野」という船が壊れ てしまい、船材を薪として塩を焼くことにした。 焼け残った余りの材から琴を造らせて弾いてみる と、由良の瀬戸の暗礁にゆらゆら揺れて立つ水に 濡れた木のように、冴えた音色を出したので、天皇が上の歌を詠んだということである。
  「由良の門」とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある。

2 私見
(1) 和歌山県日高郡の由良
 「等由良」と表記する元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。万葉集に「湯羅」とあるからとするが、それが書かれた時代は奈良・平安時代(藤原時代)と思われる。
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は、虚空蔵の廟、熊野三所権現社、由良神社の神楽踊、加佐郡誌に「由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たもの」とあることより藤原氏の荘園として造られたものと思われる。虚空(そら)の当て字は藤原氏の専売特許であること、熊野三所権現は藤原氏が崇拝している準王一族(出雲神族)を主祭神としていること、神楽は藤原氏の踊りであること、荘園制度は藤原氏の制度であることなどからである。

 また、小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この説が正しいとすれば、由良川は葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。
 由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大御神の天孫族は南の関金から来たから、方見邑を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。青字は平定後の天孫族の位置関係である。
 丹波国風土記残欠に「由良港」とあるが、改ざんと思われる。713年に全国から風土記を提出させ多くは焚書にしたが、意図的に由良港を加え残欠として残したものと思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)にすでにあった地名とは思われない。
 古事記伝に云う「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門をわたる舟人梶をたえ行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とあるのも藤原氏による改ざんである。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地の比定地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」に、「日本書紀・応神天皇・三十一年の条には『枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある」とする。文献と由良とを付合させただけであり、応神天皇と関連づけるほかのものがない。のちに藤原氏が付けた地名と思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。
 また、「由良の門とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある」とする。紀淡海峡は門(戸)にしては大きすぎると指摘した者がいたので、すぐに別の場所(丹後の由良川)を挙げるのは藤原氏である。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(4) 鳥取県北栄町の由良
 鳥取県北栄町由良には「由良の地名は木花之佐久夜毘売が付けた」という伝承がある。「ゆら」の発音は女性の命名と思われる。
 鳥取県神社誌高江神社の由緒に「当社は天正19年(1591年)9月大山より勧請せりと云う。この以前は現今境内神社子安神社(祭神 木花之佐久夜毘売)、由良郷の總産土神なる由なる」とある。1591年以前は木花之佐久夜毘売(私見では弥生時代)だけが由良郷の總産土神であった。子安神社の祭りの飾り付けは代々竹歳家(全国では170軒しかないが、由良では一番多い姓)が行う仕来たりになっている。高江神社横の駐車場から弥生時代の住居跡が発掘された。創建が弥生時代に遡るような神社と思われる。
 右の境内社が木花之佐久夜毘売を祀る子安神社である。今、立っている場所も神社の敷地内であり、ゲートボール場にするため造成中に弥生時代の住居跡数遺構が発掘された。あるのは駐車場の看板だけであり、案内板もなく、宣伝もしない。発掘調査報告書もどこにあるのか埋もれたままである。
 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には「枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや」という歌の記述がある。北栄町由良宿に近い青谷上寺地遺跡より弥生時代中期後葉の状態の良い琴が発掘されている。由良の門(戸)とは橘の小門と同じで入り江の入り口のことと思われる。応神天皇の時代(354年~394年)、由良に入り江があった。紀元前2世紀頃は海面が海抜4mくらいにあったので紀元4世紀頃は海抜2mくらいに海面があったと思われる。海抜2mくらいに海面があった鳥取県北栄町由良宿の地形を見ると現在の由良宿内に入江が確認できる。由良の門(戸)とは紀淡海峡でも丹後の由良川の河口付近でもない。北栄町由良宿にあった入り江の入口が由良の門(戸)であったと思われる。応神天皇の時代、鳥取県中部には軽の坂上の厩と軽島明之宮の比定地が確認できる。

 仁徳天皇(第14代)も応神天皇(第15代)も武内宿禰天皇(第13代)の皇子であったから鳥取県北栄町原で育った。船で対岸の由良の門(戸)にも渡っていたはずである。武内宿禰天皇(第13代)の時代よりもまだ海面が下がったので、2人とも東の東郷池(難波津)の近くに皇居を建てた。
 「等由良」を「豊浦」とし、「由良」がキーワードだと悟られても、由良の比定地を全国に複数作り、その中でたらい回しにして迷宮入りにさせ、本物が見つからないようにする手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。
 昭和38年の合併で由良町は無くされた。由良育英高校も無くされた。北栄町の由良は行政に時間をかけて消されていく方向にあるように思われる。父(蘇我馬子天皇)や子(天武天皇)の皇居の比定地も鳥取県中部に確認できるので「等由良」の本当の「由良」は鳥取県北栄町の由良と思われる。