一日1章を目標に読み進めてきた、
村上春樹氏の「海辺のカフカ」
ようやく読破できました〜
4/23の記事で宣言してた→☆☆
村上作品の中でも
一番印象的で、一番好きな作品だと思っていました。
以前読んだのが現役大学時代で
かれこれ10年近く前だったので
(その後もちょいちょい読み返したけど)
作品の詳しい内容はあまり覚えてなかったんですが。
その作品が持つ印象はすごく残ってた。
改めて読んでみて、
どうして自分が、こんなにこの作品に惹かれていたのかを
自覚できたのは、
良いことでした
*
作品の内容は端折りますが
大まかにいうと↓
主人公の青年は15歳。
幼少期に自分の母親が、
ある日突然、何も言わず捨てるように
去っていき。
父からの愛も受けられず、
受けたのは予言だった。
「父なるものを殺し、
母と姉と交わる」
↑これは「オイディプス王」と同じ予言
青年は「世界でもっともタフな15歳」になるべく旅に出る
。
。
というもの。
*
成長期における多感な時期に
「自分とはなんぞや」という
自身への問いかけは、
誰しも通る道だと思う。
目に見える身体の成長と
目に見えない精神の成長のバランスが
最も難しい時期だからこそ、
起こってしまう歪みが出てきたり、美しさもあったりで。
目に見える部分に関しては、
身体の成長は一定のところで止まる。
(後は死に向かっていくのみとも言える)
社会的に
”子供”というカテゴライズから
”大人”へと強制的に移行させられる。
けれども、
私たちの精神は?
・
この小説を読み進めていくと、
青年は旅によって様々な人と出会い、
打ち解けていき、
たくさんのことに気付いていく。
また、孤独に身を包み、
そこで自分というものと向き合うことで
見えてくるものがある。
・
物語は
自分の知る範囲に及ばないところにも存在している。
それらは自身の一部であることに気付いているものの
自覚はない。
ただ、
そういうものが存在することを予感しつつ
やがて運命的に交わることになる。
小説の中で何度も出てきた
・予言
・運命
というキーワード。
ギリシャ悲劇の代表作と言える「オイディプス王」のテーマとも同じ
”逃れることのできない運命”というもの。
予言=運命に、どんなに抗おうとも、
現実的に超えたと思っていても、
運命という、大きくて絶対的な波の上では
人の意志なんてものは
濁流に飲まれ
無いに等しいんじゃないのか。
・
旅を終える頃には
青年は以前の自分を超えたものになれたかもしれない。
けれど旅の動機になった
初めから失われてた”何か”への感覚や
渇きというのは
一生無くならないし、
ただ”許し”続けることしかないのだと。
”許して”いくことを”知る”ことが
大人になることかもしれない。
そしたらば
15歳で経験した”気づき”を
人生の中で繰り返していくことになるのではないか。。。
↑
となると、
ニーチェの「ツァラトゥストラ」の永劫回帰に繋がって行きそうな予感。
ニーチェはギリシャ悲劇について論じてる。
*
主人公が15歳の青年でありながら
その倍を生きた私にも
とても心に響くのは
そういった”許し続けなければならない運命”というものを
少なからず内包していて
刺激されるからかもしれませんです。
いやはや、
ある意味、それって古代からのテーマじゃないですか!
人類ってホント考えてることも
やってることも進化してるようで
ちっとも変わらないわ〜〜
だからこそ、
古典が今も読み継がれてるのでしょうけれど。
*
てなわけで、
久々に読破した「海辺のカフカ」に
すっかり心奪われたミッチでありました
しばらく余韻に浸れます。笑
感想・考察は
ブログに全然書ききれないですが。
長々とした感想にお付き合い頂き、
ありがとうございました
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カフカ、やっぱり好きです
これも、運命?笑