心も体も病んでるけどとりあえず生きてる ~腐女子だヨ!全員解散~

うつ病と指定難病でせっかく現役で受かった多摩美を辞退。現在無職。クソみたいな四コマエッセイで昔のことや今のフラストレーションを発散します。過干渉親持ち。

多摩美諦めました。

いきなりなタイトルですね。 数日前には絶対あきらめないとか言ってたくせに。

夢から醒めました。

金です。金の話です。

実は自己推薦を狙ってシコシコポートフォリオを作っていたもや子氏。

夢から目覚めたように気づきました。

「4年で800万とか、無理に決まってんじゃん」。

なんで今まで気づかなかったんでしょうね。

現役受験当時学費生活費その他諸々のことなんて全く頭にありませんでした。つまり馬鹿でした。

ただ「多摩美工芸学科に入ってガラス工芸家になるんやー!!」という一心しかありませんでした。馬鹿ですね。

 

私は結局子どものままだったんです。宇宙飛行士やCAを目指した子供が、いずれ現実を見て工場に務めたり、事務員になったりする。「成りたかった夢」から卒業して、大人になる。私はずっと、幼稚園児のころからの夢が叶うと信じてやまないだけの子供でした。

 

うちは親の年収が二人合わせて200万も行きません。私も体が弱いのでバイトが出来るかわかりません。奨学金を無利子・有利子併用したところで余裕で足りません。

どうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんでしょうね。生まれた環境からして、最初から無理だったんです。

「あ、無理じゃん」気づくのはあっさりでした。現世じゃもう無理。

私はこれからどうなるんでしょうね。生きていること自体が苦痛なので若くて比較的綺麗なうちに死のうかと思っています。

夢が叶わないなら死んだ方がいいと思ってるので、ヘリウム自殺を考えています。(眠剤+溺死、眠剤+首吊りは失敗済み)

クソババアって言ってみた(初級編)

父の運転で二時間かけて通院。当然のように母も同行。

電子カルテの件以来、私は母を一切信用しないどころか虫酸が走るようになったので診察室まではなんとしてでも来させませんでしたが。

以前記事に書いた通り、私は病気のせいで異常に体力がなく車移動中ずっと寝ていたにも関わらず家に着くと口も聞けない・車から降りられないレベルにグッタリ。

それを知っているはずなのに「病院と薬局のレシート出してよ、精算するから」「先生なんて言ってたの?」「お母さんが前回聞いたこと、先生答えてくれた?」「薬変わったの?なんで?」「入院の件は?次の予約は?」矢継ぎ早に聞いてくる母。

空気読めよ。

 

んで、口に出して言ってみました。私の中で禁忌のように封じ込めていた言葉。「クソババア」って。

もちろん面と向かっては言えなかったので逃げ込んだ自室で。

ぶっちゃけスッとしました!!

 

いままでずーーーーーーーーーーーっと、「子供は親に反抗してはいけない」

と信じて生きて来ましたが、逆らってみました。

「親子の絆っていうのは何があっても最後まで残るんだよ~」

「(少し反論すると)子供が親に向かってそんなこと言って!!!」

幼い頃から母に染み込まされた教育論でした。

 

母の中では私と母はあくまで『母⇔娘』『親⇔子』でしかなくて、

『人⇔人』ではなかったんです。

ずっとそれが普通で、それが正しいと思って生きてきました。

『人⇔人』で考えたら、ムカついたりしたら反論するのが普通です。

その発想がずっと私には欠けていたように思えます。

自分で言うのも変な話ですが、私には反抗期がありませんでした。

『親に反抗すること=なぜだかはよくわからないけど絶対にしてはいけないこと』

という考えが植え付けられていたからです。

 

遅れてきた思春期ですかね。最近部屋で一人で母親へのイラつきを口に出しています。

少しストレスが減った気がします。

 

世のお母さん方からは『母親にクソババアなんて!』とか非難されそうな記事ですね。

でも、子供が親にある程度反抗するのは正常に育っている証拠だと思います。

親子である以前に人対人としての交流ができている証拠ですからね。

反抗できないと、私のように親へのフラストレーションの溜めすぎで鬱になってしまうと思います。子供の人生ぶち壊すより一時的に反抗されたほうがよっぽどマシじゃないでしょうか。

 

今回はクリックしても大きくなりません。

20150822075252

 

自分を褒めて、認めて、許すこと。

多摩美を再受験することに決めました。

自信はありません。

予備校も通ってない・現役生でもないから学科(国語は正直得意だけど英語が壊滅的)の強みもない・そもそも体が貧弱すぎる(半日出歩くと翌日~翌々日は寝たきりになる)上に特定疾患の薬の量も安定してない。

でも、受けます。

母から逃げたいからっていうのもあります。でも何より、夢を諦めたくないからです。

ずっと後悔したまま生きて行きたくないからです。

まあ今の時点で入試を考えて不安で不安で眠れないんですけど!!

 

一週間だけ直前の冬期講習で通った予備校のHPを、8月になってやっと見ました。(それまで見る気分になれなかった)

2015年合格実績に、私のことが書いてありました。

いまさらになって、「受かってたんだなぁ」って実感して泣きました。

「辞退が悔しい」という気持ちもあったけど「こんな自分が、本当に受かってたんだなぁ」って感慨深さに泣きました。

 自分が相当頑張っていたってことに、辞退して数ヶ月経って初めて気づきました。

私が多摩美の受験を決意したのは高3の冬になってからでした。毎日体調不良で高校は留年寸前、イーゼルの前に座るのは2~3時間で体力が限界。難病の影響で鉛筆を持つ手の震えが止まらない。抗鬱剤抗不安剤の副作用で勉強も頭に入ってこない。

そこから現役で、田舎の普通科高校から受かったって、もしかしてすごいことだったんじゃないか?

 

私は今まで自分に厳しくしすぎていたのかもしれません。

「受かったのに辞退して、それを過干渉の母や家の経済状況のせいにして、自分は本当にクズだ」ずっとそう思っていました。

でも、受かった自分を褒めてあげることにします。自分の努力を認めてあげることにします。辞退した自分を許してあげることにします。

 

もし受かったら家族の中で唯一好きな姉が一緒に上京して同居してくれるとのことで、一人暮らしよりはよっぽど心強いです。

受かるかどうかなんてわかりません。正直怖いです。落ちたらと思うと、怖くて怖くて仕方がありません。一度受かっているからなおさら。

でも、頑張ります。もう逃げません。絶対に逃げません。

 

なんか痛くてすみません。クリックで大きくなります。

20150817042029

 

私と「過干渉」の出会い

過干渉という言葉を知ったのは中学のころでした。

それまでは「これがお母さんの愛だからしょうがない」と思っていました。

しかし中2デビューし今までより活発になった私への干渉具合、なにかがおかしい…?

(※中学デビューではなく中2デビューなのは、中1までは小学校の孤立を継続してしまい「こんなんじゃ小学校の二の舞いになる」と中2のクラス替えと同時に根暗ガリ勉→明るいバカキャラにキャラ変更したため)

 

もや子・赤、母・目にやさしい緑でお送りします。

「今度の土曜◯◯ちゃんと遊びにいくんだー」

「どこに?だれと?何時の電車でいって何時の電車で帰ってくるの?何しにいくの?お昼はどこで食べるの?」ここまではまあ慣れっこ。またの名を感覚麻痺。

「◯◯ちゃんとカラオケに行k「カラオケ!!??!?!あんた何いってんのダメにきまってるでしょカラオケなんて!!!不良の溜まり場なんだから!!カラオケはお母さん絶対許さないからね!!!」お母さんはカラオケで刺されたことでもあるのでしょうか?

挙句の果てには「今から◯◯ちゃんに電話して遊びにいくの断りなさい!!」

子供の世界にも付き合いってものはあります。そんなんしたら「もや子ちゃんって付き合い悪いよねー」「マジないわー」→暗黒の孤立時代、再来。なるに決まってるやろ!!

「あれ…?なんかうちのお母さんって、変…?」

教えてグーグル先生。[親 過剰 干渉]で検索。そうして私は「過干渉」を知りました。

興味を持ち、調べ続け、確信。

「ああ、これ、うちのお母さん(と、私)だ………」。

 

 

相変わらず汚く小さく読みにくい字ですね。クリックで大きくなります。

20150814181359

過干渉は子供の人生(と精神)をぶち壊します

こちらの記事で母の過干渉について書きました。

moyax2zone.hatenablog.com


今回は最後のほうで仄めかした「私が念願の多摩美を入学辞退した理由と親による過干渉の関係性」を書きたいと思います。(あくまで私の個人的な体験による考えです)

 

合格発表。センターにも一般にも番号が!!驚きのあまり真顔になる私(絶対落ちると思ってた)。泣いて喜ぶ母。善は急げと次の日賃貸を決めに東京へ。

しかし私は重大なミスを犯す。コートリルを服用し忘れました。

これは完全に私のミスなので母は関係ありませんが。

(※コートリルとは、持病のACTH単独欠損症の薬。出てこないホルモンを補填します。

一回でも飲み忘れるとどんどん具合が悪くなります。)

 

不動産屋の車で候補の物件を次々回る私達。はしゃぐ母。どんどん具合が悪くなり立っているのがやっとの状態の私。

ぐーるぐるーぐるぐるぐるるーぐる……頭のなかではずっとcali≠gariのマグロが流れていました。あまりの具合の悪さにトリプってたんでしょうかね

貧乏性のうちは当然日帰り。帰りの新幹線で死ぬ私。

「ちょっと大丈夫なの?」大丈夫に見えるか?

「そんなんで東京で一人暮らしなんてムリなんじゃない?お母さん心配」………。

口も聞けないほど具合の悪い私に話しかけ続ける母。空気を読め。

 

 

ここで大事なことは、過干渉に育てられた子供は「お母さんができないって言ったら私は出来ない」という洗脳が根底に埋め付けられているということです。

 

「大丈夫なの?」「都会で一人暮らししていけるの?」「今まではお母さんとかおねえちゃんが病院連れてってたけど、体調悪くなっても一人なんだよ?」「正直もや子が孤独死しちゃわないかお母さん心配」

⇒これらの言葉は全部私の中に勝手に入ってきて「お前は大丈夫じゃない」「都会で一人暮らしなんてムリ」「お母さんが居ないとお前は一人じゃ何にもできない」と変換されて勝手に吸収されていきます。

 

「お母さんがいないと私は一人じゃ生きていけない」。

こんなこと思いたくもありません。大学合格なんて母親から逃げ出せる絶好のチャンスじゃないか。

でも、脳が勝手にそういう結論をだしました。

『あんたは、お母さんが居ないとダメなんだよ~生きていけないんだよ~』脳内でお母さんがトドメを刺します。

私は泣きながら入学の辞退を決めました。

娘としてわがままを言えるなら、私は母に背中を押して欲しかったのです。

私は母から逃れ、夢を叶えるチャンスを捨てました。

 辞退を決めた私に母が言いました。「お母さんほんとは心配でね、もや子には大学行かないで家に居て欲しかったんだよ~!」。

…………もはやなにも言うまい。

 

 

話は若干逸れますが、私が母の干渉具合にドン引きしたエピソードナンバーワンを書きます。

何気なく覗いた母の手帳に私についての観察日記をつけられていたことです。

「私が言ったこと、やったこと、様子」…全部事細かに書かれていたのです。

そりゃあ人の手帳を見るなんて最低!自業自得!という批判もあることでしょうが、母は普段それを買い物メモに使っていました。まさか私の観察日記が書いてあるとは。ワハハこいつは一本取られた。

幼児や赤ちゃんに対してならまだわかります。「何時にミルクを飲んだ」とか「ママって喋った」「今日は初めてつかまり立ち」とか大事ですもんね。私、当時18才でしたが?母の中では私は幼児か愛玩動物の位置にあるのでしょうか?

 

あと、実家にいることになってしまった私はついに自室に内鍵をつけました。古き良き掛金+南京錠スタイルです。というかそれしか自力でできそうになかった。

 

字が細かいですがクリックで大きくなります。

クリックしても字の汚さは変わりません。

20150814181638

私と不登校と両親

私の両親は正反対の性格をしています

父⇛静

母⇛動

といった感じです。(どちらにも暴力を振るわれたことはありません)

 

私に対しても正反対で、

父⇛無関心

母⇛過干渉

といった感じです。中間が欲しいところですね。

 

私に関心を持ち干渉することはなかった父ですが、一つだけ忘れられない出来事があります。

 

小学生の時の話。

絶賛孤立中&悪口言われまくりだった私はいつものように学校に行きたくありませんでした。毎朝行われる母との攻防戦(引きずってでも行かせようとする)。鬼のようでした。

中学高校なら行かなければ将来に関わるのでわかります。 小学校に行かないからなんなんだよ。行かなくたって卒業できるし、勉強だってせいぜい分数の掛割とか、ひろしくんが分速100mで歩いてお兄さんが15分後に分速500mのチャリで追いかけていつ忘れ物をひろしくんに届けるかとか、独学でどうとでもなるアホみたいな問題です。

情操教育?集団生活?その結果がこれだよ。

引きずってでも行かせようとするのは結局世間体を気にする・それか「学校は行くもの」という常識で頭がガチガチになった母のエゴだったといまでも思っています。

 

閑話休題。「学校行きなさい!」「なんで行かないの!」「絶対行かせるよ!」責め立てる母。頭がぶっ壊れそうでした。お母さん、お母さんがもし職場で毎日悪口言われて、ペアワークで一人余ってクスクス笑われて、出来ないことを犯罪でも犯したかのように集団で糾弾され、それでも職場に行きたいと思えますか?そんなことを考えていましたが、あまりの剣幕に口をはさむ隙すらありませんでした。頭のなかがパンパンになって爆発しそうだった私はこの一言に全てを込めました。

「学校行くぐらいなら死んでやる!!」

 

その瞬間、同じ座敷で興味なさげに黙っていた父に蹴り飛ばされていました。

「どうやって死ぬんだよ!言ってみろコラァ!!!」ドコドコと蹴りを続ける父。

普段静かな父が大声を上げて私を蹴り飛ばしていることが信じられず、体を丸めてひたすら蹴りと罵声が過ぎ去るのを待っていました。そこからのことは覚えていません。学校に行ったのか、その日も休んだのか。父はどうしたのか、母はどうしたのか。

 

ただしっかりと言えることは、「本当に死ぬほど登校が嫌だったこと」「死ぬ方法もちゃんと考えていたこと」。ちなみに死に方候補は①通学路にある踏切近くの野っ原に潜み、電車が来た瞬間侵入。②首吊り(定型・非定型やどう結び、どこを締めれば逝けるかもリサーチ済)。

お父さんは子供の軽々しいハッタリだと思い「どうやって死ぬんだよ!」と言ったんでしょうね。割と本気でした。勇気がないからまだ生きてるけど。

 

それ以来一度も父には暴行されたりはしていません。今の父はたまに冗談も言うし、買い物や病院にも連れて行ってくれる。

ただ、10年経った今でも父は私の恐怖の対象です。ODしたりして錯乱状態になっているとき、無意識に口から「お父さんごめんなさい」「蹴らないで」とか出てきます。

世の中のお父さんお母さん、小学生くらいの時に受けた衝撃的な出来事は大人になっても恐怖体験として根強く残ります。気をつけましょうね。

 

 

私の両親について。クリックで大きくなります。

20150813133303

Powered by RSSリスティング