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今回は最近FBで知り合ったトーマイタルさんの記事をご紹介します。



この記事は個人的に気に入っていて、行き詰った時などに読み返したいと思い、当ブログに掲載させて頂いた次第です。



皆さんも仕事や人間関係が良好のときにこそ一歩下がる余裕を持ち、違った視点を加えながらさらに上を目指して行ってくださいw



こちらもチェックしてみてください。

【保存版】視点の高い人に特徴的な8つのこと  




神は弱さの中にあり


1/1/2016



あけましておめでとうございます!

今年も、よろしくお願いします。

 

 

さて、去年の10月に書いたアメブロの記事からの掲載です。

 

NHKで、素敵な番組を放映していました。

「こころの時代 ~宗教・人生」という番組でした。

素晴らしい内容で、引き込まれ、最後までみました。

その時のテーマが、「神は弱さの中にあり」でした。




同志社大学教授の木原活信先生という方のお話しでした。

木原先生の話を、簡単にまとめると、

「世の中は、通常、強いこと、物事を行う能力の高いことが、評価される。しかし、人間は、もともと弱い存在であり、その弱さを認め合うことで、生きやすい世の中に、多少なりともできるのではないか」

という内容でした。


木原先生は、長年、社会福祉に携わってきたそうで、その根底にあるのは、キリスト教の信仰だったそうです。

番組の中では、終始、

「自らの弱さを認める」

ということの重要さを、説かれていました。



私は、10代~20代にかけて、ずーっと、「強さ」を追求してきました。

それで、いきついたのが、究極の強さ比べである、「パワーリフティング」という競技でした。

その競技の選手として活躍し、いろいろな大会でも、勝ちまくっていました。

肉体もそうでしたが、精神的にも、とても強くなりました。


その時の信条は、

「人間は、強くなれば、強くなるほど、幸せになれる!」

でした。

だから、その対極にある考え方、

「人間は、弱くてもいい…」

というような人生哲学は、受け入れられませんでした。



しかし、それからあと、30代~40代で、さらに、いろいろな経験を積んでからは、

「人間って、あまり強くなりすぎても、ダメなんだな… 強すぎると、人の痛みや苦しみに、鈍感になるんだな…」

と、少し反省しました。


一時期、付き合っていた彼女から、それを、何度も指摘されました。

「トーマさんは、人の痛みに、鈍感ですね。私が気が付いたのは、その鈍感さは、強さからきているということです。皆、あなたほど、強くはないんですよ。誰もが、そんなに簡単に、逆境を乗り越えられたり、すぐに、立ち上がることなんて、できないんですよ」

何回も言われたので、さすがに、

「そうかな…?」

と思い、自分の行いを、振り返ってみると、たしかに、思い当たることが、たくさんあり、それからは、なるべく、弱い立場に立たされている人の気持ちにも、配慮するようにしました。


正確には、その後、自分も、そういう弱い立場に立たせるという体験をして、初めて、そういう人たちの気持ちが、わかったということです。

さらに、自分が、「強さ」に、とても憧れて、追い求めていたのは、心の奥底に、「弱さ」が、あったからだとうことにも、気が付きました。


あるチャネラーさんからは、

「トーマさんは、誰よりも、弱いんですよ。魂の奥底に、一番弱い部分があるから、誰よりも、強くなれたんですよ。一番弱いから、一番強くなれたのです」

と、言われて、

「なるほど…」

と、思いました。




番組の中でも、木原先生が、話していましたが、たしかに、人間というのは、調子のいい時や勢いのある時、それから、なにもかもが、うまくいっているときには、

「自分は、万能だ! 天才だ! 無敵だ!」

と、自信に満ち溢れているものです。

でも、人生において、こういう状況が、ずーっと続くことは、あまりないと思います。

どこかで、思ってもみなかった事態に、遭遇したります、

それが、病気だったり、事故だったり、事件だったりします。

その時に、絶対絶命のピンチに追い込まれ、自分の力だけでは、どうしようもないと思ったとき、初めて、

「神様、仏様、助けてください…」

という気持ちが、湧き上がってくるのです。

その時は、自然に、両手を合わせて、拝むような姿になることが、多いです。

場合によっては、勝手に、ひざまずき、首を垂れる姿勢になることもあります。


この無力感を、感じた瞬間に、謙虚になり、自然に手を合わせる行為が、本来の「信仰」なのかもしれません。




人間という存在は、全てがうまくいっていて、何の問題もない時には、「神」を、必要としないのです。

結果として、信仰心は、生まれないのです。

何もかも、やりつくしして、

「もうダメだ…」

と思った時に、祈りたくなるのです。

そして、そういう時こそ、本当に奇跡が起こったりするものなのです。



アメリカに住んでいた時に、特に、それを感じました。


ご存知のように、アメリカは、日本と違って、犯罪も多いです。

ある時に、真夜中に、ロサンゼルスの一番ヤバイ場所で、車が故障した時がありました。

周囲に、黒人などのギャングのような連中が、たくさんいて、こちらに、近づいてくるのがわかりました。

どんなに、私が、腕力が強くても、拳銃には、勝てません。

「今夜、ここで、死ぬかもしれないな…」

と、覚悟した時に、目の前に、車が停まりました。

やさしそうな白人のカップルでした。

「こんな時間に、そこで、何をやってるんですか? 車が、停まった? 危ないから、はやく、この車に乗りなさい! 家まで、送っていってあげますよ」

こう言ってくれたのです。

そのカップルは、ちょうど、親戚の家に、向かうところだったようですが、住所を聞いて、ビックリしました。

なんと、私の家の隣の隣くらいの住所だったのです。

それで、無事に、家まで送ってもらいました。


あの時に、そのカップルの車が、助けてくれなかったら、ギャングたちに、撃ち殺されていたかもしれません。

その車の目的地が、私の家の近くだったなんて、

「神様が、助けてくれた」

これしか、考えられません。

その時は、家に着いたとたん、自然に、手を合わせて、神に感謝していました。



こういう経験は、長く生きていると、誰でも、一度や二度は、経験すると思います。

そして、その時だけでは、「神」に、感謝するのです。

その後は、しばらくすると、

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」

という格言通り、その出来事を、忘れてしまいます。

まあ、それでも、いいのかもしれませんが、たまには、そういうことを思い出し、神様への感謝の気持ちを、忘れないようにすることも、大切だと思います。




番組の中では、他にも、心に残る話がありました。

木原先生は、ある時期に、

「どうしても、人を愛せない…」

と思って、苦しんだ時期があったそうです。


おそらく、キリスト教の「隣人愛」の教えを、実践しようとしたのだと思います。

キリストの教えでは、全ての人を愛することが、良いことだという意味の教えが、たくさんあります。

しかし、これは、本来、「理想」なのだと思います。

現実社会では、全ての人を、好きになれたり、仲良くできたり、愛することは、人間には、難しいのです。

その時に、木原先生が、気づいたのは、

「愛することができない」

という自分の本質の部分だったそうです。

それから、まず、そういう自分を、愛そうと思ったのだそうです。

つまり、

「愛せないというダメな自分を、なによりも先に愛そう」

こう思ったそうです。



これは、私も、悩んだことがあったので、とても共感しました。


スピリチュアルなことを、たくさん学んでいると、誰でも、大きな愛をもった人間に、なりたいと思うと思います。

しかし、世の中には、それに反して、どうしても、愛せないような酷い人間が、山ほどいます。

その時に、

「自分には、こういう人たちを、愛することができない。自分は、なんて、ちっぽけな人間だったんだろう…」

こう思って、ショックを受けたことも、何度もあります。

その時に、まずやることは、

「なによりも先に、そういうちっぽっけな自分を、愛してあげる」

ということです。

これで、だいぶ気持ちが、楽になります。

必要以上の罪悪感に、縛られなくなるのです。




「愛する」を、「許す」に、言い換えてもいいと思います。



今でも、たまに、学生時代やサラリーマン時代の嫌な思い出が、蘇ってくることがあります。


魂の奥底では、全部は、まだ、清算できていないのかもしれません。

未だに、

「あれは、まだ、ゆるせないな…」

と思うことも、あります。

そういう時は、無理やり、

「いや、もう、あれは、終わったんだ。ゆるしてやろう…」

と思っても、ますます、ゆるせなくなったりします。


そういう時は、まずは、自分から、ゆるすということです。

特に、

「ゆるせないという気持ちを、自分が、もってるという事実。そして、人を、ゆるせなくてもいいんだという気持ちを、まずは、ゆるそう」

と思うことです。


「ゆるせない」という自分の意識を、まずは、ゆるすということですね。

「ゆるし」は、ここから、スタートすると、いいみたいです。


「ゆるせない」という醜くて、ちっぽけな自分を、まずは、ありのままに受け止め、認めてあげる。

そして、

「でも、そのままでいいんだ」

と、ゆるしてあげる。

そうすると、だいぶ気持ちが、楽になるのです。



「ゆるす」の語源は、「ゆるます(緩ます)」なのだそうです。

人を、ゆるせると、人生そのものが、ゆるくなり、呼吸も楽になり、生きやすくなります。

そして、それには、まず、ありのままの自分を、ゆるすのが、コツだということです。

「ゆるすと、自分の人生がゆるみ、楽になる」

というこです。



これは、逆も、できると思います。

つまり、

「心がゆるむと、身体もゆるむ」

のであれば、

「身体をゆるませれば、心もゆるむ」

ということです。


身体を、温泉、マッサージ、ストレッチ、ヨガなどで、ゆるませると、心も、リラックスできて、相手や自分など、いろいろなことを、ゆるせるように、なってきます。

ぜひ、日常の中に、身体や心を、「ゆるませる」という機会を、たくさん、つくってみてくださいね。




ほとんどの大企業や大きな組織では、人間の仕事の能力だけを重視し、

「あいつは、仕事ができねえ! あいつは、使えない!」

などと、酷い言葉で、一人の人間の存在を、全否定したりします。

これは、「地獄の世界」、もしくは、「修羅の世界」です。

こういう弱肉強食の世界では、強くないと生きていけません。

これも、この世界の一面の真実だと思います。

しかし、人間は、こういう世界を、変革するために、この時期に、地球に生まれてきたのでは、ないでしょうか?



人間は、この地上で、様々な経験を通して、

「自分は、弱い存在だったんだ」

と、気づいた時に、初めて、神様を、感じることができるようです。

ある意味、この意識が、成熟した大人の魂と、呼べるのかもしれません。

自分の中の弱さに気がつくことで、他者の弱さにも、気がつくことができます。

皆が、お互いの弱さに気がつき、全員が、それぞれの苦しみを、共感しあい、助け合い、励ましあう世界が、「神の国」と表現される社会なのだと思います。


私は、いつかは、この地上も、そういう世界になるだろうと、信じています。




キリスト教の「神の愛」というのは、

「一番強い者の気持ちに、目を向けるのではなく、一番弱い者の気持ちに、寄り添う」

そういう愛のことみたいです。

神は、一番弱い存在を、一番かわいがってくれるのです。

人間には、そういうことは、できません。

もしかしたら、今の段階では、人間は、そこまで、やらなくてもいいのかもしれません。

だからこそ、その愛は、「神の愛」と、呼ばれるのです。




オマケの話です。



何回か、紹介したことがありますが、大学4先生の頃、生涯の師匠だと思える、素晴らしい先生との出会いがありました。

宮城先生という方だったのですが、木原先生の話を聞いていたら、久しぶりに、宮城先生のことを、思い出しました。



新学期が始まって、しばらくした頃、宮城先生が、講義の時間に、こう言いました。

「私の講義では、必ずコンパをすることにしています。全員出席を強制します。これは義務です。来なかった生徒には、単位はあげません。」

初めて聞く、「教師による強制コンパ」でした。


疑問に思いながらも、当日の夜、大学の近くの居酒屋に行きました。

先生をはじめ、全員集まっていました。


私は、どうしてもこの「強制」という言葉が気になったので、先生に質問しました。

「先生、このコンパの本当の目的は何ですか? どうして強制してまで、コンパなんかやる必要があるのですか? どういうことですか、これは?」

すると、先生は、やさしく微笑みながら、こう答えました。

「トーマ君、いい質問だ。君は、学生が、講義に来なくなる本当の理由が何か、わかりますか?」

こう聞くので、

「わかりません。授業が面白くない。もしくは、授業についていけないからではないでしょうか?」

こう答えると、先生は、首を横に振って、

「違います。それもあるのですが、講義に来なくなる生徒は、その講義のクラスに、友達がいないというのが、一番の理由なのです」

続けて、

「そういう生徒は、最初は、後ろの席に座るようになります。そして、遅刻をしはじめます。それから欠席しがちになり、そのうち講義に来なくなります。私は、そういう生徒のために、このコンパをつうじて、なんとか友達をつくってもらいたくて、それで、全員出席にしたのです。私は、こういうことが、実は、一番大切なことだと思っています」

こう言ったのです。

その時の感動は、25年以上たった今でも、覚えています。

「なんて、高いところから、教育問題を考えている先生だろう!」

こう思って、感動しました。

本当の「やさしさ」をもった人物でした。


今、考えると、これこそが、「キリストの愛」だったのですね。

宮城先生は、いろいろな人生経験を経て、キリストの意識に、到達していたのだと思います。






「これらの小さな者を、一人でも軽んじないように、気をつけなさい。人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたは、どう思うか? ある人が、羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を、山に残しておいて、迷い出た一匹を、捜しに行かないだろうか? はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを、喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が、一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」


「マタイによる福音書 18章10-14節」



以上。






いかがでしたか?






僕自身、正義感が人一倍強いため20代のころは強さを誇示したりしていて、女性がとても苦手な存在でしたw





しかし、30代になってカミさんと出会ってからは、少しずつ克服できてきた様に感じます。





弱い自分自身を思い知らされ、ありのままの自分を受け入れるのにとても時間がかかりました。





今でも自分の弱さを素直に認められずつい強がってしまう自分がいますが、ありのままの自分を受け入れてくれたカミさんには本当に感謝しています♪





お陰さまで弱い部分を受け入れられなかった器の小さかった自分をようやく受け入れられる様になり、軌道修正ができるようになりました。





それでも自分を見失ったときには当記事を読み返して原点回帰したいと思いますw





最後までお付き合い頂き、感謝



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