今日は久しぶりに「宗教」について語ります。とりとめもない話しです。

宗教っていうと、現代日本では、「危ないもの」という認識がすっかり定着しています。正確にいうと、「初耳の〜」「最近の〜」は危ないという印象でしょうか。

まあ、オウム真理教以来、たまに週刊誌とかに出てくる情報をみていると、そういう印象しか持たないよね。

が、これが欧米圏に出て、「無宗教です」という逆に警戒されます。

これは「宗教=戒律」だったからです。

・◯◯してはいけません。
・△△してはいけません。
・××してはいけません。

・・・・・

この「〜してはいけないリスト」を持って、それを厳格に守る人が、宗教を信じている人でした。

この「〜してはいけないリスト」は道徳的なものであり、このリストを守る人は「安全な人」。

無宗教ということは、この道徳的な「〜してはいけないリスト」を持っていない、守る保証が無い人ということになる。

だから「無宗教です」は、日本の外に出ると警戒されるのです。

治安維持や人心の安定に、宗教は役立ってきた歴史「も」ある。世界的には一定の信頼・信用資産が築かれているわけですね。

同時に、日本においてはおそらく宗教を信じている人とは、

「非道徳的な」リストを持っている人

というイメージなのでしょう。

それも

「〜してはいけないリスト」では無くて、

「〜するリスト」を持っている。

だから、「自分たちの安全をおびやかすんじゃないか?!」という警戒がわいてくる。人心の安定を乱すことになる。

そんな所でしょうか。

いま現代社会で、サラリーマンが「安全な人達」という意味での一定の社会的信用をえているのは、

「〜してはいけないリスト」を沢山持っているから。

なので、その行動の予測がしやすい。一定の範囲から出る事は無いだろうと予測できる。

だから、住宅ローン35年も組めてしまう。

欧米圏における「宗教の信仰」と同等以上の信用をえる方法は、ここ日本においては「中堅以上の企業・行政に所属」することなのでしょうね。

そう考えると、「大企業の社員や公務員になれば安泰」という考え方は、立派な宗教です。

ここ日本においては、欧米圏におけるキリスト教のような、特定組織が提唱する「ひとつの道徳体系」はありません。

しかしながら、人々にいつの間にか共有されている、ひとつの道徳体系がありました。「大企業の社員や公務員になれば安泰」というのは、その道徳体系の中のひとつ。

それ以外にも、「◯◯らしさ」という名の下、ひとびとに共通の道徳体系があるでしょう。

考えてみたら、なぜ日本において、こんな「ふわっとした形」で、共通の道徳が広まってしまったのか、不思議です。

キリスト教でも仏教でも、特定の人・特定の集団が「布教」したからこそ広まりました。

日本においては、ひとつの道徳体系を、誰がどうやって広めたのでしょうね。

教育やマスメディアが、それを広める主な媒体になったのでしょうけど、彼らも、政治的にいえば、左派・右派のように、考え方の違う人達がまざっています。道徳体系を人知れず統一、なんてできるのでしょうか?

欧米圏における「教会」のような、「ここが発信源だ!」っていうのが、よくわからない。

それが国際社会からみた日本の不思議で、海外の人から見て、その戦略が「わかりにくい」。誰が、どうやって決めているのか、不透明なのです。

日本の中にいても、大人になっても、僕自身よく分からないですからね。

【著書】

26万部突破♪『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』(八木龍平・著/サンマーク出版)



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