新年あけましておめでとうございます。
昨年は御訪問いただき、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。 画像は、世田谷区野毛に所在する「野毛大塚古墳(西岡8号墳)」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号127番に登録されている古墳です。
この古墳は、多摩川の下流域左岸の武蔵野段丘上に所在する古墳で、現在も玉川野毛町公園の一角に保存されています。全長82mという全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部が付設されています。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104mで、後円部の高さは10mです。5世紀初頭に築造されたと推測されるこの古墳の墳丘は3段に構築されており、全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされていました。(実はこの画像は何年か前のもので、復元された円筒埴輪が古墳の周囲を巡っていましたが、現在はこの円筒埴輪は撤去されて存在しません。)
この古墳は古くから知られていたと考えられ、江戸時代後期の地誌である『新編武蔵風土記稿』には「東大塚」の名称で取り上げられており、
東大塚 字原ニアリ、小山ノゴトク丸石ニテ築アゲ、高二丈許ナリ、此邊ヲスベテ古壘ノ跡ト云傳ル所ナリ、サレバ村民等ヲリトシテハ、布目瓦ノ如クナルモノ、瀬戸物ノカケ、又ハ何モノトモワカネド、ウズ巻ノカタアル土器ナド、掘出セシコトモアリシト、此所スベテ臺ノ上ナレバ、多磨川ヲ眼下ニ見下シ、又塚ノ上ヨリ望バ、品川沖ノ海原ヲカケ、遥ニ安房上総ニ及ベルサマ、絶景ノ地ナリ、ハタ要害ニモナルベキ所ナレバ、土人ノ古壘跡トイヒ傳ルモサモアルベシ、サレドソノ事實ハ詳ナルコトヲ知ベカラズ、
と書かれています。
同書の「小山ノゴトク丸石ニテ築アゲ」とは、当時まだ墳丘が葺石で覆われていたようすが、また「布目瓦ノ如クナルモノ」は埴輪のようすが書かれているとされ、、また「ウズ巻ノカタアル土器ナド」とは縄文土器が示されていると考えられているようです。また、「土人ノ古壘跡トイヒ」と、この大塚古墳を古代の墳墓ではなく、砦などの古壘であると考えられていたあたりは、とても興味深い記述です。
画像は、西側から見た野毛大塚古墳の後円部のようすです。古墳の西側には、「都史跡 野毛大塚古墳」と刻まれた石碑と、東京都教育委員会による説明板が設置されており、説明板には次のように書かれています。
東京都指定史跡
野毛大塚古墳
所在地:世田谷区野毛一ー三十六
指 定:昭和五十年二月六日
野毛大塚古墳は全長八二メートル、後円部の高
さ一〇メートルの帆立貝式の前方後円墳で、前方
部に近接して小さな造出部が付設されている。墳
丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠
を含めた全長は一〇四メートルである。三段に構
築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪
がそれぞれの段にめぐらされている。
後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に
粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、
北西側に二基の箱形木棺が納められている。割竹
形木棺からは甲冑,刀剣,鉄鏃などの武器・武具類,
鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛など
が、箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造
品などが、二基の箱形木棺からは、刀剣、鉄鏃、
鉄鎌、石製模造品、玉類などがそれぞれ出土して
いる。
野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表
する五世紀前半に築造された古墳である。出土し
た多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳
が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。
平成5年3月31日建設
東京都教育委員会 その後、明治30年(1897)5月頃、好奇心に駆られた地元の3人の青年が墳頂部を掘り起したことにより、野毛大塚古墳は一躍世間の注目を浴びることとなります。
地元下野毛の青年が古墳を掘り起こしたところ、その青年が奇妙な死に方をし、たたりにあったと言う噂が広がりました。また、一人の青年は血を吐いて死に、もう一人は狂ってしまったそうです。死んだ青年の弔いに立ち会った者までが、頭痛を訴えて寝込んでしまったそうです。
次の朝、新村の世話役で名主の兵衛が、思い当たることがあって大塚へ行ってみると、狂った青年がそこで汚れた手を合わせて何かさかんに唱えていたそうです。近づいてみると、塚から血のような朱がべっとりににじんでいるではありませんか!「ばちあたりめ、塚を掘ったな!」と新兵衛が言うと、青年は正気に戻って「おらだけでない、死んだ平吉も掘ったんだ」と答えました。「盗んだものをもとに戻したのに赤い血が吹き出て、土をかけてもかけても、止まらない。だからお祈りしていたんだ」と言ったそうです。新兵衛が塚の穴を土で固めると、赤い血は止りました。しかし、青年は血を吐いて死んでしまったそうです。
騒ぎが収まった頃、村人たちは祟りを恐れて古墳の頂に祠を建てて鳥居を作り、「吾妻神社」を祀りました。その後、日露戦争のころにはこの神社は靈驗あらたかな弾よけの神様として評判となり、盛況を呈したそうです。
画像は、野毛大塚古墳の墳頂部のようすです。現在は、整備が行われたことにより、埋葬施設の位置や出土した遺物のようすがわかるようになっています。
前方部と造出部のようすです。
昭和6年(1931)には、当時の目黒蒲田電鉄が大塚を中心としたゴルフ場を開設。野毛大塚古墳はゴルフ場の築山となっていたようです。昭和10年(1935)に発刊された『武蔵野』には、後藤澄氏著「等々力ゴルフ場内の古墳」という野毛大塚古墳に関する論文が掲載されており、この中で「コースの邪魔になりますから取り潰す筈で御座いましたが、請負つた者に病人が出たり亡くなつたりされまして工事をやりかけてそのまゝにしてあります。」と、昭和の時代に存在した祟りの伝説について記されています。
その後、戦争の激化に伴い、ゴルフ場は廃止。戦中から戦後にかけては畑地転用され、古墳の墳丘は八段もの段々畑となってイモが植えられていたといわれています。墳丘を覆っていた葺石はこの時期に取り払われてしまったようです。
画像は、世田谷区郷土資料館に展示されている、組合せ式の箱形石棺のレプリカです。明治時代に地元の青年たちにより掘り起されたのがこの石棺ですが、墳頂部の中央ではなく東側に位置するこの主体部が掘り起されたということは、この時期には主体部の一部が露出していたのではないかと考えられます。
古墳は、墳丘の復元整備に伴う発掘調査が平成元年から4年間かけて実施されています。埋葬施設は、この組合せ式の箱形石棺(第2主体部)のほかに、中央部にほぼ主軸と重なり合う形で粘土槨と割竹形木棺による第1主体部が、それに平行する形でその北西側に箱形木棺による第3主体部が、さらにその北西に隣接して木棺による第4主体部が確認され、合せて4基の存在が明らかとなっています。特に第1、第3主体部から出土した武器武具類は、関東全域においても群を抜く豊富なもので、こうした大量の武器武具類を副葬品とするのは、百舌鳥・古市古墳群を中心とする畿内政権が造営した古墳の特徴であるとされています。
「野毛大塚古墳(西岡8号墳)」その2に続く。。。
<参考文献>
世田谷区立郷土資料館『国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展』
世田谷区郷土資料館『資料館だより No.65』
野毛郷土史編集委員会『野毛の昔話 明治後期~大正初期』
現地説明版
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- 2018/01/01(月) 00:00:00|
- 世田谷区/野毛古墳群
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| コメント:6
ご~ご~ひでりん様
明けましておめでとうございます。
昨年も楽しくブログを拝見させていただきました。
今年も東京周辺の古墳の状況を詳細にご報告いただけるブログを楽しみにしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
路傍学会長拝
- 2018/01/01(月) 17:14:03 |
- URL |
- 路傍学会長 #-
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明けましておめでとうございます。
現存する古墳のみならず、古墳跡までも取り上げられているのはすごいことだと思います。
本年も宜しくお願い致します。
- 2018/01/01(月) 18:26:23 |
- URL |
- kame-naoki #-
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路傍学会長さま
あけましておめでとうございます。
『路傍学会』にて昭和の風景の痕跡を見るのは楽しみの一つです。
今年も楽しみにしています。よろしくお願いいたします。
- 2018/01/04(木) 12:17:26 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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kame-naokiさま
あけましておめでとうございます。
これから古墳跡ばかりになってしまうかもしれませんが、頑張ります。笑。
たくさんあるネタの公開、楽しみにしています。
本年もよろしくお願いいたします。
- 2018/01/04(木) 12:22:30 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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紅一点さま
あけましておめでとうございます。
野毛大塚は、なんだかんだと10回くらいは行ったかもしれません。笑。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
- 2018/01/04(木) 12:25:58 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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