古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀の諺、「鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあわせ)の随(まにま)に」について 其の二

2018年01月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 この話の集結点に、諺を引く形になっている。牡鹿と牝鹿との会話を野宿する旅人が耳にし、不思議だなあと思っていたら、その会話のとおりに狩人に射殺されたというのである。秋の発情期の鹿鳴の本来に近づけて考えると、威嚇のために鳴いて居場所を狩人に知らせやすい鹿ではないのに、めす鹿の夢合わせのとおりに人間に射殺されてしまう、ということになる。しかし、自然の摂理として、鳴き声をあげなければ余所者を排除して自らの遺伝子を残すことができない。本能的に鳴き声をあげているのであって、鳴かないで静かに狩人に見つからないようにしているオスジカは、そもそも自ら「牡鹿」であることを放棄したオス個体である。高齢のオスか、病弱のオスか、子どものオスということになる。何を言わんとしているのか、理解不能に陥る。
 真相は、このような仮定をとり上げるところにも見えている。牡鹿の鳴き声は、他の牡鹿を排除するために発せられている。テリトリーに入って来るなという意思表示である。「障(さ)へ」の話だから、佐伯部が必然的に登場しており、「移郷」、すなわち、テリトリー外の余所へと送られたのである。鹿鳴の本能について、古代の人はよく理解していた証拠である。では、この諺譚について、どのように考えれば了解可能となるのか。それにはまず、「時宿人、心裏異。」の意を理解しなければならない。野宿の人が「心裏異」と感じると表現してある点には、まず、「心裏」が卜占のウラに通じる点があげられよう。占いとは、ウラ(心)をナフ(綯)行為である。「縄(なは)」とは「綯はれた物」を意味する。心を縄綯うように捩(よじ)っていくことは、方々へ散らばっている線状のものの先を一本にまとめ上げてほつれないようにし、引っぱっても切れなく力強いものにすることである。心が定められることに同じ感触を味わっている。
 これはヤマトコトバを作り使った人々の感触である。その延長線上に、いわゆる夢合わせと呼ばれるものもあったと考えられる(注14)。夢合わせについて、夢で見た真実と言葉で表した真実の、それを合わせるということに主眼が置かれている点である。それは占いの一種であると考えられているが、ウラナヒとはウラナフことそのものである。アハセとはアハスことそのものである。動詞で考えなければ正しいところは知られない。
 アハセは、「合(あ)ふ」に対する他動詞形の下二段動詞「合はす」の連用形である。辞書の用例に見る上代のアハスには、①二つのものをぴったりと寄りつかせる。合する。②めあわす。③遭遇させる。経験させる。④立ち向かわせる。闘わせる。⑤獲物に向けて鷹を放つ。の意が確認される。また、名詞形のアハセには、①袷。が確かめられ、また、宇津保物語の例であるが、②副食物。の意があげられる。それぞれの例を1つずつあげる。

 吾が身の元(はじめ)の処を以て、汝(いまし)が身の元の処に合せむと思欲(おも)ふ。(神代紀第四段本文)
 因りて女(むすめ)豊玉姫を以て妻(あは)せまつる。(神代紀第十段一書第一)
 …… 磯の崎崎 漕ぎ泊てむ 泊泊(とまりとまり)に 荒き風 波に遇はせず 平らけく 率て帰りませ ……(万4245)
 野見宿禰と曰ふ。試みに是の人を召して、蹶速(くゑはや)に当(あは)せむと欲ふ。(垂仁紀七年七月)
 遠近(をちこち)に 鳥踏み立て 白(しら)塗りの 小鈴もゆらに 合はせ遣り 振り放け見つつ(万4154)
 橡(つるはみ)の 袷(あはせ)の衣(ころも) 裏にせば 我強ひめやも 君が来まさぬ(万2965)
 白銀の金椀八つに、御粥の合はせ、魚の四種(よくさ)、精進の四種、大きなる沈の折櫃にさし入れて、……(宇津保物語・蔵開上)

 いま、新たに八田皇后を迎えて、めあわせたところである。秋の冷え込みの折に「避暑」をしているのだから、袷の着物でも羽織っていたのであろう。そして、鷹狩ではないが、獲物の牡鹿が得られている。矢が動物の体に合わさった結果である。ご飯のおかず(副食物)にされたらよいと苞苴として献上され、「鹿(か)」と「其(か)」とが合わさっていることが確かめられた。そんなアハセをまとめて語る時、いちばん都合のいいテーマは、「相夢(いめあはせ)」、夢合わせである。
 狩りをしたのは佐伯部である。佐伯という名については、「昔、国巣(くず)…山の佐伯(さへき)、野の佐伯ありき。……彌(いよよ)、風俗(ふりしわざ)を阻(へだ)てき。」(常陸風土記・茨城郡)とあり、サヘ(障)と関係する名ではないかとされ、遮ること、阻害することの意味合いを持たれて捉えられていたようである。佐伯部の職掌として古代国家においてどうであったかは不明ながら、言葉を第一に据えて考えればそのように解釈される。言葉は事柄を表すという言霊信仰のもとでは、それが本質的である。そんな佐伯部が狩りをしているのだから、障害物を置く形で狩りを行っているはずであると考えられる。語義が確かめられるからである。シカ狩りにおいて障害物と思われるものと言えば、ターゲットとするシカに察知されないように、その視線を遮蔽してカモフラージュする「射目(いめ、メは乙類)」があげられよう。射目を立ててその陰から矢を射た。するとうまいこと命中した。アハセに成功した。「夢(いめ、メは乙類)合はせ」の話に展開する準備が整った(注15)

 …… 御山(みやま)には 射目立て渡し 朝猟(あさかり)に ……(万926)
 射目立てて 跡見(とみ)の岳辺(をかべ)の なでしこが花 総手折(ふさたを)り 吾れは行きなむ 寧楽人(ならびと)の為(万1549)
 …… 高山の 峯の手折(たをり)に 射目立てて しし待つ如く ……(万3278)

 旅人は、菟餓野の鹿の会話の何を「異」と感じたのか。それは、鹿の会話内容に立ち入る前に、当たり前の話として、会話していること自体を「異」なことと感じたのであろう。今日同様、シカは鳴くことはあっても話すことはないと考えられる。なのに、夫婦の鹿が会話を交わしているように聞こえた。これは「異」なことである。鹿の鳴き声が人の言葉のように聞こえている。そのようなことがあるのか。昨今では動物の言葉を聞くことができるのではないかと研究が進められ、鳴き声の“意味”についてある程度のことはわかるようになっている。どのような声が警戒の声で、どのような声が食糧の在処を見つけたときの声か、といったことである。しかし、そのような科学的な見地から、あるいはまたスピリチュアルな観点から、“鹿語”を聞いたという意味で示されているのではない。霜は塩を表すのだ、などというシカの“言葉”は、今日でも解明されていない。そんな複雑な話ではなく、誰もがわかる話として語られている。無文字時代に次の人へ伝えられることとは、言葉だけで誰もが了解可能な事柄だけである。そうでなければ語り継がれて伝わり残ることはない。シカは何と話したのか。「牡鹿(をしか)、牝鹿(めしか)に謂(かた)りて曰く、」、「牝鹿、答へて曰く、」とある。シカのカップルが互いに言っているのだから、それは、「云々(しかしか)いへり」に決まっていよう。
 「云々(しかしか)」という語は、省略のために使われた語であるとされている。前の文などですでに述べられている事柄や、常套句だからわざわざ記さなくてもわかるとされる際、面倒を省くために用いられるとされている。日本書紀の例については、前文によって明らかであるから省略されて「云々」と書かれているのか、どれほど綿密に検討されたうえで用いられているものか、神代紀の本文と一書との関係についてどうなのか、といった観点から検討が加えられている。ここでは「云々」の用例を1つだけ挙げておく。

 [皇極天皇の]策(おほみことのり)して曰く、「咨(あ)、爾(なむぢ)軽皇子(かるのみこ)」と云云(しかしか)いへり。(孝徳前紀皇極四年六月)

 譲位して次はおまえ、軽皇子が天皇になりなさい、という個所である。これほどの重大事に「云云」としか書いてない。どれほど深い意味の言葉が述べられているのか見当がつかない。一説に、祝詞のような常套句が口にされたのではないかという説があるが違うであろう。なにしろ、それを聞いた後でも、軽皇子(孝徳天皇)は「再三固辞」している。どのような言葉であったかは、いくら推測しても推測の域を出ない。それでもわかることは、何か人間にわかる“言葉”が話されたという点である。言葉は、シカシカいうものとされている。なぜなら、人間どうしでわかり合うためには、対話が欠かせないからである。人間は言葉を持つが、いわゆる犬畜生には言葉がない。対話によって、わかること、なるほどと思うことがあるということである。なるほどと思うこと、それを「然(しか)り」という。言っていることが理に適っていて、相手の言うことが納得できることである。だからかどうかはわからないが、言葉を話した時の内容省略形は、「云云(しかしか)いへり」である。
 deer は動物である。動物は人間と違って言葉は喋らない。なるほどと得心が行くコミュニケーションは起こらないはずである。ところが、逸話のなかで「二つの鹿(か)」が鶏鳴時に、「牝鹿(をしか)、牝鹿(めしか)に謂(かた)りて曰く、」と変わっている。ニワトリは鳴いているが、シカは話している。2つのシカと明記されており、2つのシカが問答を交わしている。無文字文化の時代、理解して伝えていくことができる事柄とは、音声言語だけでほとんどの人がなるほどなぁと思える了解事項だけである。そのなるほどなぁ、がシカシカ(鹿鹿)の間に交わされたシカシカ(云云)である(注16)
 結果、「時人の諺に曰く、「鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあはせ)の随(まにま)に」といふ」と終っている。諺譚で話題になっているシカは、シカシカ(云云)いう鹿であった。鳴いていたのではない。言葉を喋っていたのである。だから、鳴くシカではないのに、射殺されてしまったと言えるのである。この最後の部分、「随」字について、伝本のうち、前田本には、ママニのほかマニマニとする傍訓が付けられている。マニマニと訓んだほうがわかりやすいよ、と指摘した人がいた。筆者も同意見である。
 万葉集のマニマ、マニマニの用字としては、訓字と思われるものに、「随」、「随意」、「随尓」、「進尓」、「任意」、「任尓」、「諸伏」がある。仮名書きとの狭間の書き方に、「万々」、「萬々」というものがある。ヤマトコトバには、ママ、ママニ、マニマ、マニマニといろいろな形があり、語彙として差は見られない。みな、成り行きのままに任せる意である(注17)。その理解で正しいのであるが、上代の人は、なぜか微細な違いを言葉に設定している。何らかの思惑が働いたのであろう。任せるというのは行為的には単純であるが、評価的には複雑である。任せた結果起こった事態に対して、どう判断するのか、そこが詳らかでない。例えば、カップルがデートの際、食事や買物をしたとしよう。女性の方は、あなたが決めてと男性に言う。そこで男性はどれにするか選ぶと、多くの場合、女性は、えーっ、それはないわ、と答えてくる。従うと言っておきながら、結局は自分の主張を通す。すなわち、任せるということは任せないということである。一見不毛に見えるこういった問答は、相手の感性や判断力について値踏みするためのコミュニケーション・テクニックである(注18)
 従うと言っておきながら内心は反目する、そんな意味合いを包みながらママ、ママニ、マニマ、マニマニという語は成り立っている。言葉が矛盾を孕みつつ存在している。実態としてそういうことなのだから、矛盾していようがしていまいが、言葉は言葉として出来上がる。無矛盾性を求める科学の記述式ではない。出来上がってみて、従うと言ったらとことん従うよ、というある意味真正直な、時として捻くれた言葉遣いをする者が現れる。捻くれた使い方とは、明日は晴れです、と言っておいて、実際に天気が快晴であるばかりか、至るところに「晴れ」という落書きを書き散らすような輩である。論理階梯を無視して異次元に及ぼさせている。言辞のフレームが外れているから、もはやその人にはつける薬はないと思われよう。ところが、上代の無文字時代、言霊信仰のもとで、すなわち、言葉と事柄とは同じことであると考えを推し進めた場合、ママ、ママニ、マニマ、マニマニにおいては不思議な現象が起こる。ママ、ママニ、マニマ、マニマニとは、そのとおりのことにするという言説である。そのとおりにすることを言葉自体のなかへそのとおりに及ぼすのが、最もそのとおりにすることになる。そんな自己言及的な使い方をやってのけようとするとき、自己言及していることを最も適切に表現する言葉としては、繰り返し言葉になるマニマニという言い方が望まれたと考えられる。マ(真)+ニ(助詞)という語形を反復復唱することとなっている。
 このような次第で、「鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあはせ)の随(まにま)に」という言い方において、夢合わせのとおりに事が運ぶということばかりでなく、その発している言葉が夢合わせのとおりの言葉となること、という自己循環的な言い分が妥当であることがわかる。自ら発されている言葉がその言葉自体へ戻ってきて言及する。すなわち、言葉を喋っていて鳴くというには当たらない牡鹿ではないのに夢合わせのとおりに事が運び、かつ、鳴く牡鹿ではないのにとは夢合わせのとおりの言葉のシカシカ(云々)言うシカ(牡鹿)であるということである。これは、ヤマトコトバにいうコトワザ(諺)=コト(言・事)+ワザ(技・業・態)そのものである。何かについての教訓や、知恵を伝授するための方便として編まれた言葉の数珠つなぎではない。言葉自らが自らへ戻ってくる数珠つなぎである。数珠の玉を繰って行って元の玉に戻ることに同じである。そして、諺がヤマトコトバのコトワザである限りにおいて、仁徳紀三十八年七月条の一連の話(咄・噺・譚)において、カ(鹿)とカ(其)との交わりに始まり、シカシカ(鹿々)とシカシカ(云々)とが交わっており、それをマニマニ(随)によってまとめあげていると言えるのである。
 以上、仁徳紀三十八年七月条の一連の逸話の真相について論じた。

(注1)摂津国風土記逸文に、「夢野の鹿」の話が載っている。佐佐木2012.はじめ、その話と仁徳紀の話とを絡めて論じる向きがあるが、筆者は参考資料程度にしか考えられない。話の内容がスノッブになっており、「夢野」という地名も生じている。言葉の知恵においてはレベルが低下している。なぞなぞ、頓智の才が感じられない。釈日本紀に所載の摂津国風土記逸文は次のとおりである。

 摂津国(つのくに)の風土記に曰く、雄伴郡(をとものこほり)に夢野(いめの)有り。父老(おきな)相伝へて曰く、昔者(むかし)、刀我野(とがの)に牡鹿(をじか)有りき。其の嫡(むかひめ)の牝鹿(めじか)は此の野に居(を)りき。其の妾(をむなめ)の牝鹿は淡路国(あはぢのくに)の野島に居りき。彼の牡鹿、屢(しばしば)野島に往きて、妾と相(あひ)愛(うるは)しみすること比(たぐひ)无し。既にして、牡鹿、嫡の所(もと)に来(き)宿(やど)る。明(あ)くる旦(あした)、牡鹿、其の嫡に語りて曰く、「今(こ)の夜(よ)、夢(いめ)みらく、吾が背に雪零(ふ)りおけりと見き。又、すすきと曰ふ草生ひたりと見き。此の夢は何の祥(さが)ぞ」といふ。其の嫡、夫(つま)の復(また)妾の所に向(おもむ)かむことを悪(にく)みて、乃ち詐(いつは)り相(あは)せて曰く、「背の上に草生ふるは、矢、背の上を射む祥なり。又雪零るは、白塩(あはしほ)を宍(しし)に塗る祥なり。汝(いまし)、淡路の野島に渡らば、必ず船人に遇ひて海中(わたなか)に射死(いころ)されなむ。謹(ゆめ)、な復(また)往(ゆ)きそ」といふ。其の牡鹿、感恋(こひのおもひ)に勝(た)へずして、復野島に渡る。海中に行船(ふね)に遇逢(あ)ひて、終(つひ)に射死されき。故、此の野を名づけて夢野(いめの)と曰ふ。俗(くにひと)の説きて云はく、「刀我野に立てる真牡鹿(まをしか)も、夢相(いめあはせ)のまにまに」といふ。

 新編全集本日本書紀に、「夢合せをする時には悪い方の合せ方をするな、という戒めに使われたものであろう。」(②54頁)とあり、飯田1930.にも、「相夢と云事は、夢の相セ方によりて、善く合はすれは其身の幸となり、また凶く合すれは不幸となる。古よりありし事と見えたり。中古にはもとも多し。……こゝの諺は、人はもとよりにて、牡鹿の上にも、夢相と云事あれは、夢相せむわさは、凡ソにすへからすとの語なり。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920815(375/419)、句点は適宜改めた。)とある。悪く合わせると悪くなり、良く合わせると良くなるという御都合主義を述べている。
(注2)佐佐木2012.に、「「相夢(いめあはせ)の随(まにま)に」は途中で文を言いさしたかたちのものであ」((35)頁)るとし、上代の64に及ぶ用例から3つ類別されるうち、「[已然形+や/やも、…]という結合は、「…するはずはないのに、…/…であるはずはないのに、…」という意味の反語となり、それ以下の部分には、[已然形+や/やも]までの部分で提示した事態とは相容れない、信じがたい事態が事実として驚きをもって描写される」((34)頁)タイプに属する使い方であるとする。「射殺されなむ」といった表現を補うとするならば、末尾に「射らえて死ぬる」、「射殺さるる」といった語がつづくはずであり、「「相夢の随に(射らえて死ぬる/射殺さるる)」というのは、まったく信じがたいことではあるが、動かしがたい既定の事態である。」((35)頁)という意味になると見定めている。
(注3)向山1959.に、「フエシカ(笛鹿) 旧暦八月、鹿の発情期に、鹿笛を吹いて雄鹿の啼き声をし、その声に誘われて雄鹿の寄ってきたところを撃つ。これを八月狙(ねら)いというところもある。鹿笛は、鹿の角のまたになったところから枝のほうへかけてとり、枝角に孔をあけ、その末に、鹿のサンゴ(産仔・胎児)の皮を張ったものがいちばんよく、鹿の内耳の皮、あるいはヒキガエルの皮を張って作る。これを枝のさきにあたるほうの吹き口から吹きながら、この皮を両手の指で調節して響きをかえつつ、鹿のこえを出す。これらは今は禁止されている。」(198頁)とある。現況については、鳥獣保護管理法等、環境省ならびに各都道府県に確認されたい。
(注4)上に述べたように、万2142番歌では筆者の解釈は異なる。
(注5)訓み方によっては、他にも例をみることができる。
(注6)小島1964.723~727頁、小島1953.44~55頁。
(注7)石井2011.に、「集中の「鹿」の歌の分布をみると、巻十の「秋雑歌」に「詠鹿鳴」という題のもとで歌が集中している。したがって、「鹿」を題材にした歌は、いわゆる万葉集第二期以降に、間断なく作られていたと理解してよいようである。」(42頁)とある。オス鹿の鳴き声をメス鹿を呼ぶ求愛の声ととった万葉歌の表現が、時期的にいつに始まり、誰の歌を嚆矢とするものか検証されたい。
(注8)粟田1903.は、風土記の話を先にして仁徳の逸話が記されたかのように考えている。少し長くなるが、仁徳紀三十八年七月条の全体を論じたものが少ないので引用する。「……然るに佐伯部のそを殺せる、朕愛しむ事を知らすてとりたるなれと、有恨(ウラメシキコト)と詔給ひて、佐伯部を安芸淳田に移すとある事の異様に聞ゆるは、故こそ有つらめ、また件の事の次に、俗曰云云とて、夢相の故事あるを思ふに、天皇も甞(カネ)て世俗に云伝ふる兎餓野の鹿の夢相の故事を聞たもち給ひて、在シけるが、八田皇女を皇后とし給へる、其秋高台に暑を避給ふ時、さきに薨(ミウ)せ給へる皇后磐之媛命の御事を思し出て、恋慕給ふをりから、兎餓野の真壮鹿の妻よぶ声を聆しく、可憐(アハレ)と慰み思ほし給へる、其鹿を獲て、苞苴に献りたるを、恨給へるなり、其は言にこそ出し給はね、かの牡鹿の妻よぶ声を大御みづから磐之媛皇后を思慕給ふに御比喩(ミタトヘ)まして、深く御心に喜ばせ給へる事を察(オモヒヤリ)奉るべし、……[仁徳天皇が磐之媛命を]終に逢見給はずて崩給ひしかば、いかに憐れと思し給ひけむ、然すれば朕比ニ有懐抱(モノオモヒツヽ)、聞鹿声而慰之とあるべし由なし、……若し適高台に登りて、何となく鹿声を聞したらむは、一時の御遊なれば、佐伯部の其を殺したりとて、……安芸国に移すべき理あるべくもあらず、天皇の鹿声に託て、皇后を思慕給へる事は、仲哀巻に、……[天皇の父王に当たる日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鳥になったという言い伝えを愚弄した、蒲見別王(かまみわけのみこ)の、「白鳥(しらとり)なりと雖(いふと)も、焼かば黒鳥に為るべし」という無礼な言葉に怒って誅伐した]とみえたる、因以覩其鳥顧情と詔給ひしに同しく、佐伯部を皇居に近け給はぬ事は、白鳥を奪へるを悪しく、刑(ツミ)なひませる情に、異なる事なきを以ても、思ひ明らむべし、かゝれば、天皇の鹿声を可憐(アハレ)と思し給へるは、磐之媛皇后を思慕(シヌビ)給へるに起り、其を慕ひ給へる御情は、世俗の諺に、兎餓野の牝鹿(メシカ)の、其男鹿の野島の妾の許に往く事を嫉みて、留めたるを聞ずして、終に不慮(ユクリナキ)禍ありし説どもを、甞て聞たもちましけるに、感興し給へるものなるべし、故レ書紀に鹿鳴を聞給ふ事のさし次に、俗曰云云の故事を載せたるは、故ある事なるべく思はるゝを、書紀通証に、今按以下、疑後人所附録、と云るは、却ていかゞあらん、また漢学の徒、この事を漢籍に、所謂恩禽獣、また聞其声而不其肉など云ふ語に思ひよせて、天皇の仁徳と云漢諡にもてつけたるなどは、みな誤なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993515(52~53/180)、漢字の旧字体は改めた。)
 文中最後に、「漢学の徒」の説をあげている。比較的近年に至っても、和田1995.に、「鹿にも可怜の情をかけたまい、知らずとはいえ、それを射殺した佐伯部を咎めたまうという心は、まさに国中(くぬち)に煙立たずとて三年の間、課役を免除したまうた恩沢の心に通うものである。……[「煙立たず」の話も]今の話も「高台にましまして」とあり、これが偶然の一致とは思えないふしもある。……仁徳天皇はその儒教的な聖帝中の聖帝として称揚され[ていたから]……、そういう天皇像を高めていくためにも、菟餓野の鹿の「夢相」の説話は、まことに適当な素材だったのではあるまいか。……聖帝、鹿鳴を愛でたまうの逸話は、こうして次第に普遍化していったのではあるまいか。それが形を変えたのが、万葉集[1664・1511番]……の歌ではなかったか」(588~589頁)とある。雄略天皇や崗本天皇(舒明天皇か)の御製とされるものを仁徳紀三十八年七月条の鹿の話に安易に結びつけている。仁徳天皇を「故、其の御世を称へて聖帝(ひじりのみかど)の世と謂(まを)す。」(仁徳記)とした由縁については、「日知り」、すなわち、屋根が破れ壊れても足が悪かったから補修することができず、お日様を仰いで暮らしていたことを揶揄するものであった。拙稿「女鳥王物語(「機(はた)」の誕生)」(http://www17.plala.or.jp/joudaigonews/medori.html)参照。
 筆者は、いわゆる「儒教的」という考え方が、古代において(例えば、古墳時代後期、飛鳥時代前期・後期、奈良時代といった区分ごとに)どのように理解されていたのか、史学や文学の研究者にお尋ねしたい。例えば論語には、「子貢、告朔(こくさく)の饋羊(きやう)を去らんと欲す。子曰く、賜(し)や、女(なんぢ)は其の羊を愛(をし)む、我は其の礼を愛む。(子貢、欲告朔之饋羊。子曰、賜也、女愛其羊、我愛其礼。)」(論語・八佾)とある。天武紀などから見られる狩猟の禁制は、仏教思想に基づいた動物愛護、あるいは命の大切さへの訴えかけから起こっていると考える。5世紀の仁徳帝に遡り、すり替えて当てはめようとしていて不明である。小島1964.に、「[仁徳紀三十八年七月条]の記事は、一方では、仁徳天皇と云ふ「聖帝」を強調するために、三年に至る迄も百姓の課役を免除し、また恩愛禽獣に及ぶと云つたやうな「仁寛慈恵」の天皇を、この鹿の話を通じて描いたものと云へる。佐伯部に関するこの史実の確実性はともかくとして、述作者の表現がこの鹿の記事に心から哀感を注いだことは、冒頭より前半の筆の流れによつて察せられる。更に仁徳紀の述作者はこの記事に続いて菟餓野の鹿をめぐる「俗説」を附加し、本文の記事を強める。」(725頁、漢字の旧字体は改めた。)、佐佐木2013.も、「仁徳天皇は稀代の聖帝を称(たた)えられた。民が貧しい状況にあることを知り、三年間にわたって課役……を免除したことが、『古事記』『日本書紀』に記されている。……そのような天皇であるだけに、動物を愛護する気持ちもやはりほかの天皇よりまさっていたのだということを、この鹿の話を通じて示そうとしたのだろう。」(153頁)と踏襲されている。今日の動物愛護法に、食用の牛・豚・鶏がスーパーの陳列棚に並んでいることを規制する動きがあるのだろうか。古墳時代に、タンパク源として食してもらうために鹿を狩ってプレゼントしたことに対して、動物愛護を理由にして処罰していたなどという話が罷り通るのであろうか。
 寺川2001.も、狩りには2種類あるとして憚らない。「鹿を重要な生活の糧とし、生活のための狩猟にウエイトをかけて狙う人々[佐伯部]と、鹿を食料にするにしても、狩の遊戯性にウエイトをかけて儀礼として薬狩や遊猟を楽しむ人々[仁徳天皇]の、鹿や鹿鳴に対する感覚のずれを浮かびあがらせるように、ここは描かれている。」(90頁)とある。シカを狩りして得られるものの多岐にわたることは、万3885番歌に詳しい。生活必需品のために狩りをしている。ロジェ・カイヨワのいうアゴン(Agôn)性をいくら強調しても、当時の状況とどれほど適合しうるかわからず、この話の了解には至らない。
 日本書紀の編者は、常識ある後人が読むことを前提にして記したと考えられる。ふつうに考えて、「異様」なことは異常であると捉えるべきである。天皇の精神状態が変なのであって、曲解しても始まらない。仲哀紀の日本武尊を思慕する気持ちを引き合いに出して磐之媛命との死別の情を解こうとしても合致することはない。仲哀紀に載る話は、蒲見別王が、自分にとっては異父に当たる日本武尊や、実子に当たって思慕する仲哀天皇を侮った発言へと続いている。白鳥も焼いたら黒鳥となるとして、白鳥愛護をこれ見よがしに蔑ろにしている。焼き鳥の話をして何の得になるのかわからない異様さである。結局、蒲見別王が掃討されることに収束している。時人の言葉として、「父(かぞ)は是天(あめ)なり。兄(このかみ)亦君なり。其れ天を慢(あなづ)り君に違ひなば、何ぞ誅(つみ)を免るること得む」と終っている。語られるべきことはきちんと語られており、ここに語られていない磐之媛命への思慕の念など、粟田1903.の勝手な思い込みであろう。
 また、摂津国風土記逸文の、鹿の三角関係話と紀の諺では、言語活動として雲泥の差がある。鹿鳴を「可怜」と思った仁徳天皇の気持ちが何に由来するのか、よくわからない。天皇は、このところ物思いに沈んでいて、鹿の鳴き声を聞いて心が安らいでいたと言っていることだけ書いてある。ことさらに前皇后を持ち出してくるのは、テキストを“読む”姿勢としていただけない。物思いの理由は不明とすべきである。不明だから、疑問の助詞カによって表されている。カ(鹿)であり、カ(其)である。天皇が抱いているそこはかとない憂欝感のようなものについて、知ったことカ! というのが仁徳天皇時代の記録者、ならびに日本書紀の編纂者に共通する感慨ではなかろうか。日本書紀は、司馬遷の史記に同じく、言葉を大切にして一語一語を表している。
(注9)寺川2001.には、「佐伯部の鹿を狩りして苞苴として天皇に献った誠意が、褒賞ではなく処罰として報いられた事態を語り、一つのものに異なる二つのコードがあるにもかかわらず、自らの知識にもとづく一つのコードのみで理解するとき、行き違いや不幸を蒙る事態が発生しかねないという政治的世俗的な智慧・教訓をも語っているようにみえる。」(91~92頁)とある。筆者のコードでこの論述を読む時、その「智慧・教訓」なるものは、つづく「諺」に語られていると述べられようとしているものと誘導させられる。しかし、肝心の「諺」についての議論へとは展開されていない。そして、話の落としどころとしてある諺、「鳴く牡鹿なれや、相夢の随に」が、鳴くシカではないのに夢合わせのとおりになるよ、という言辞へとつながるものなのか大いに疑問である。佐伯部が夢合わせといかなる関連を持つのか問うことなく、話の焦点を見ずにストーリーの断片を“意味づけ”られただけのようである。
(注10)言葉が、自己循環的に事柄を表している。そしてこれが話の根幹、「あわせ」を予感させている。
(注11)「あはれ(可怜)」という表現に、天皇と皇后は感触の違いがあったと考えられる。小島1964.には、両者が同様の受け取り方をしていたかのように捉え、「仁徳紀に於ける天皇皇后両者のやさしい私語」(725頁)と言っているが、アハレの語義を見極めていない。阪倉2011.に、日本語の感情表現の未分化の表現として、アハレという語をとりあげている。

 「あはれ(なり)」という語などは、感嘆(感動)・驚き・悲しみ・嬉しさ・いとしさ・物足りなさ・口惜しさなど、さまざまな感情を、それぞれの文脈において表現した。どうして、それを「見事なり」とか「うれし」とか「いとほし」とかと表現し分けないかというと、実は、そのようにはっきりと分析しきれない、いわば未分化的な内容を持つのが、その際にいだく情緒の本当のところであることを、話し手が、感じとっているからである。どのような語を工夫してみても、とうてい、その情緒をその情緒の通りに表現し、それによって、そのいつわりのない心情の理解を相手に求めることが、困難であると悟ったとき、話し手は、もはや無理に特定のことばを求める努力をやめて、むしろこれを、一般的な語で、未分化のままに表現しておこうとする。これが、情緒を表現する和語の種類が比較的乏しいことの原因になっているのである。この事情は、まさに、日本人が表現に乏しいと言われるような事実の生じてくる事情と、並行的に考えられるように思われる。(87頁)

 完璧な解説である。未分化の表現の代表格であるアハレという語を用いて記す理由があったから、仁徳紀三十八年七月条には、アハレと訓むべき「可怜」という字で書き起こされている。天皇と皇后のそれぞれの情緒には、アハレ違いが起こっている。そして、「聞鹿鳴」とだけ書くのではなく、「有鹿鳴」と冠らせている。皇后は、鹿笛の音をそれと知りつつ聞いていたのであろう。
(注12)新編全集本日本書紀に、「「移郷」は、律の用語としては、赦免された殺人犯を本郷に帰すと被害者の関係者に復讐される恐れがあるので他郷に移すことをいうが、ここは単に、移住させる意。」(②54頁)とある。賊盗律に、「凡そ人を殺して死すべきが、赦に会ひて免されば、移郷せよ。」とある。単に移住させる意で用いているのではなく、仁徳天皇が恩赦だ主張する言い分を重ねた表現であろう。「凡そ鹿を殺して死すべきが、……」の意である。それを成り立たせる言語遊戯については、本文に論じている。
(注13)松岡1929.に、「鹿の夢占の話はトガ(不祥)といふ語に因んだ民譚であるから、所在はどこでも問題ではないが、……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870643(440~441/1044)とあるが、「咎(とが)」のトは乙類である。神功前紀にも見える「菟餓野」は仲哀記の「斗賀野」に同じで、トは甲類で音が異なる。上代のヤマトコトバの感覚からすれば、トグ(磨・研、トは甲類)+ノ(野)の意、研ぎ澄まされた野のこと、すなわち、野のなかでももっとも野の性格を先鋭化させた狩りにふさわしい野、というイメージが浮かんでいたのではないかと考える。
(注14)しかるに、昨今の夢合わせについての議論では、それとは相容れない抽象的な視座から解釈されている。西郷1993.によると、夢は人間が神々と交わる回路であったとし、夢のなかの言葉は神の言葉であって、それを人間の側がいかに解釈するかが夢合わせであったとする。この菟餓野の鹿の夢合わせの説話の諺に関しても、「鳴く牡鹿(シカ)も相夢(イメアハセ)のままに」と誤った訓を与えている。そして、「……人はもとより鹿でさえ夢あわせのまにまにだという意の諺である。夢は善くあわせるとその身の幸となり、悪くあわせると凶になると昔の人は信じていた。つまりこの諺は、夢解きがいかに重大であるかをさとしたものである。いや、たんにそう信じていただけではない。夢は、古代にあっては解かれたとおりに実現されたらしいのだ。」(215頁)と捉えている。
西郷、1993.は、「古代の夢にかんして誤解が生じるのは、古代にあっては夢はたんに自然的に見られるだけでなく祭式的に乞われたのであり、しかも古代人はこの後者の方をいっそう大事としていたことに気づかずに、近代風に夢をみな自然的レベルにもどして考えるためである。」(41頁)とある。しかし、議論に矛盾がある。夢のなかの言葉が神の言葉であるならば、神の言葉は神の言葉として重んじられなければならないはずである。夢解きの解き方によって、人間の解釈の仕方によって話が変わって来るのでは、摂理を曲げることまで夢合わせが力を持つことになってしまう。神のお告げは、人間が勝手に解釈し直してかまわないものではなく、神は形骸化されていたことなどない。
祭式的に夢を乞うのは、どうしたらよいか判断ができない事態が生じたとき、夢を以て決めようと考えたからであろう。ふだん、夢を見ることがなかったかと言えばそんなことはあり得ず、困った時の夢頼みをしていたに過ぎない。それは夢占である。いかに夢を重視しようとも、それは古代に限られない。現代においても夢告を信じて行動する人は多い。たまたま見た夢の記憶と同様のことが現実に起こって夢を信じる人がいる。星座占いのとおりにその日に行動したら、たまたまそのとおりのことが起こり、出会った相手と結婚する人もいる。勝負事に関わる人なら、験担ぎをしない人の方が少ない。
 西郷1993.に、「万葉集に「をちこちに、鳥ふみ立て、白塗りの、小鈴もゆらに、あはせやり」(白き大鷹を詠む歌、十九・四一五四)とあるように、鳥を狙い、機をはかって鷹を放つのをアハスといった。「夢あはせ」のアハスもこれと同義であることは、「夢と鷹はあわせがち」という言葉があるのによってもわかる。その本義は、適確な判読によって夢をその夢で見た現実に的中させることにあった。事実、その解釈が完全におこなわれるならば、鳥を狙って放たれた鷹のように、夢は夢で見られた未来の現実へと向かって飛翔し、それと合体するであろう。夢あわせは、少なくともそういう可能性を信じた予言行為であった。」(221頁)とある。この議論の陥穽は、鷹狩において獲物に向けて鷹を放ったからといって、百発百中アハスことができるものではない点にすでに理解されよう。その限りでしかないのにアハスという語が用いられていることから、逆に言えば、アハスという点に関して言えば、何でも合わせようと思えば合せられることが指摘できよう。辞書のアハスの項を見れば、後ろの方に鷹を獲物に向かって投げだすことの用例が載っている。比喩的な形容として面白がられているから使われ出した語義である。夢に見た内容の意味合いについて、解き明かして言葉でいかに表すか、それは夢を言葉にアハスことである。言葉は事柄であるとするのが上代の無文字文化のもとでの言霊信仰である。いったん、夢を言葉にして解いてしまえば、それは言葉なのだから事柄となる。すなわち、「夢」が上代に特別な意味を持っていたのではない。神のお告げとして夢を見ようとして見た夢を言葉に直したものが夢告であり、また、何の変哲もない夜にたまたま夢に見たことを変に解釈して言葉に表したものも夢告である。西郷のいう「夢」の特別性は、文字が行きわたって言葉が音声言語だけの重みを失った中古になってはじめて姿をあらわす。そうでなければ、西郷のいう「神牀」(崇神記)に寝て特別な夢を見ようとする「祭式」など、必要ないのではないか。「夢」を特別扱いする設定は、その設定自ら破綻を来たしている。
(注15)白川1995.に、「いめ〔夢〕 「ゆめ」の古語。上代語に「ゆめ」の形はみえない。「忌(い)む」と同源とするのは語形に無理があり、やはり「寢目(いめ)」とみるべきであろう。」(132頁)とする。狩猟に隠れて射るための「射目」は、動物側から見れば、捕食者が寝ていて夢を見ていると思うに同じである。話(咄・噺・譚)の内容は興に入っていて、「射目(いめ)」と「夢(いめ)」のイメアハセという洒落によって、循環論法が展開されている。話を聞けば聞くほど、エドガー・アラン・ポー「メールストロムの旋渦」に描かれるような渦巻に巻き込まれていく。「射目」と「夢」との同等性が、今度は「夢」のなかの話へと刳り込まれている。その話が、第2段落の鹿の夢語りの話である。外側を造形する彫刻ではなく、内側を刳り抜いて中子を転がして遊ぶような細工として話が構成されている。木工細工において、胡桃のように中子がころころと鳴るように作ることが行われている。
ほおずき一木造(「飛騨高山鈴木彫刻」様(http://suzukichoukoku.com/blog/?p=206))
Ball in Cage & Wood Chain Carvings(“Little Shavers Wood Carving Supply”(http://www.littleshavers.com/Chains.html))
(注16)「しか(然)」という語は英語の so に当たる語と考えられる。文末に動詞の連用形を承けたり、……テシカの形で使われる願望の助詞とされるものも、be so であることを調和的に考えようとする旨を受け取ることができて、納得のいく言葉遣いと言える。また、「何時しか」、「何しか」という疑問の意を強める言い方も、when や what を、まさにそのことを問わんとしていることを言っているものと考えることができ、納得のいく言葉遣いと言える。
(注17)佐佐木2012.に、「上代語には、韻文・散文ともに「まにまに」と「まにま」しか確実な例がない。「ままに」は平安時代から文献に見える語形であり、「まにまに」が撥音便化を起こしたものだろう。」((32)頁)とある。筆者は、ママニの形も上代からあったと考える。その例は、同じく諺の、「神の神庫も樹梯の随(まま)に」である。拙稿「垂仁紀の諺、「神(かみ)の神庫(ほくら)も樹梯(はしたて)の随(まま)に」について」参照。
 なお、井手1999.に、「「まにまに」には、①事の成りゆきのままに、事の成りゆきにまかせて、と口訳せられる場合、②或る物事に従って、物事のままに、と口訳せられる場合のほかに、③として、……「有意志者の意のままに」の意に用いられる場合がある。」(210頁)とする。白川1995.に、「[漢字の「隨」は]神が祀れと命ずるところで祀る。神意のままに従うので「隨(まにま)」となり、また「神隨(かむながら)」のように用いる。「まにま」も本来は神意のような絶対者の意思に、そのまま従うことを意味した語であろう。」(707頁)としている。
(注18)コミュニケーション論の入り口のことを述べている。

(引用・参考文献)
粟田1903. 粟田寛『古風土記逸文考証 上』大日本図書、1903年。(『古風土記逸文考証』帝国教育会出版部、昭和11年所収。)国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993515
飯田1930. 飯田武郷『日本書紀通釈 第三』内外書籍、昭和5年。(初出は、『日本書紀通釈』明治32年。また、『日本書紀通釈 第三』日本書紀通釈刊行会、昭和15年。)国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920815
石井2011. 石井裕啓「古代和歌における鹿―「妻問い」の歌をめぐって―」鈴木健一編『鳥獣虫魚の文学史 日本古典の自然観1 獣の巻』三弥井書店、平成23年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学―出典論を中心とする比較文学的考察―中』塙書房、1964年。
小島1953. 小島憲之「「トガ野」の鹿と「ヲグラ山」の鹿―萬葉傳誦歌をめぐつて―」『萬葉』第九号、昭和28年10月。http://manyoug.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/manyo_009.pdf
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀②』小学館(新編日本古典文学全集3)、1996年。
西郷1993. 西郷信綱『古代人と夢』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。(初出は『古代人と夢』平凡社、1972年。『西郷信綱著作集第2巻記紀神話・古代研究Ⅱ―古代人と夢―』平凡社、2012年所収。)
阪倉2011. 阪倉篤義『増補 日本語の語源』平凡社、2011年。
佐佐木2012. 佐佐木隆「「菟餓野の鹿」の伝説―「鳴く牡鹿なれや…」という諺」『人文』第11号、学習院大学人文科学研究所、2012年。https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2719&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
佐佐木2013. 佐佐木隆『言霊とは何か―古代日本人の信仰を読み解く―』中央公論新社(中公新書)、2013年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。(初出は、『日本書紀 上』岩波書店(日本古典文学大系67)、1967年。)
寺川2001. 寺川真知夫「仁徳紀聆鹿鳴伝承の意味」『文芸論叢』第56号、大谷大学文芸学会、2001年3月。
日本書紀通証 谷川士清『日本書紀通証』臨川書店、1978年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917894
松岡1929. 松岡静雄『日本古語大辞典 語誌篇』刀江書院、昭和4年。国会図書館デジタルコレクションhttp:// dl.ndl.go.jp /info:ndljp/pid/1870643
松田2017. 松田信彦『『日本書紀』編纂の研究』おうふう、2017年。
向山1959. 向山雅重「狩猟」大間知篤三・岡正雄・桜田勝徳・関敬吾・最上孝敬編『日本民俗学大系第5巻 生業と民俗』平凡社、昭和34年。
和田1995. 和田嘉寿男「菟餓野の鹿と夢野の鹿」犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会編『万葉の風土・文学―犬養孝博士米寿記念論集―』塙書房、平成7年。

(English summary)
A study on the legend of the deer of “Togano” and the proverb “nakushikanareya imëafase nö manimani” in Nihon Shoki
This paper discusses the legend of the deer of “Togano” and the accompanying proverb that are written in the article of july in 38 years Nintoku Emperor, in Nihon Shoki. These are considered as two stories, but by treating them as a series of tales, we can solve various outstanding problems. That is in the fact that everything is reported in early old Japanese Yamato Kotoba. Yamato Kotoba is established by expressing words by the words themselves, that is, according to the usage of self-reference. So, to perceive, you have to study Yamato Kotoba and these riddles of wisdom spoken in it.
Key words: “ka”(鹿・其・処・何~焉), “sikasika”(鹿鹿・云云), “imë” (夢・射目), “afase”(合・妻・遇・当・袷)

※本稿は、2018年1月稿を2020年8月に整理したものである。

この記事についてブログを書く
« 記紀の諺、「鳴く牡鹿(しか... | トップ | 鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不... »