古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀の諺、「海人なれや、己が物から泣く」について

2018年01月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 是に、大雀命おほさざきのみこと宇遅能和紀郎子うぢのわきいらつこの二柱、各天下あめのしたを譲れる間に、海人あま大贄おほにへたてまつりき。爾くして、いなびておとに貢らしめ、弟は辞びて兄に貢らしめて、相譲れる間に、既にあまたの日を経ぬ。如此かく相譲ること、一二時ひとたびふたたびに非ず。かれ、海人、既に往還ゆきかへりに疲れて泣きき。故、諺に曰はく、「海人なれや、おのが物からに泣く」といふ。(応神記)
 既にして宮室おほみや菟道うぢててします。猶みくらゐ大鷦鷯尊おほさざきのみことに譲りますに由りて、久しく即皇位あまつひつぎしろしめさず。爰に皇位きみのくらゐ空しくして、既に三載みとせを経ぬ。時に海人あま有りて、鮮魚あざらけきいを苞苴おほにへちて、菟道宮に献る。太子ひつぎのみこ、海人にのりごとして曰はく、「我、天皇に非ず」とのたまひて、乃ち返して難波にたてまつらしめたまふ。大鷦鷯尊、亦返して、菟道に献らしめたまふ。是に、海人の苞苴、往還かよふあひだあざれぬ。更に返りて、あたし鮮魚を取りて献る。譲りたまふことさきの日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。海人、しばしば還るにたしなみて、乃ち鮮魚を棄てて哭く。故、諺に曰はく、「海人なれや、おのが物からねなく」といふは、其れ是のことのもとなり。(仁徳前紀)

 今日まで、この「諺」について、納得のいく見解は示されていない。上代語に、コトワザ(諺)は、コト(言・事)+ワザ(技・業・態)という義である(注1)。そう解されていない点がそもそものネックになっている。漢語の「諺」(注2)や後代の日本の「諺」、「急がば回れ」や「七転び八起き」などと同様であろうと捉えていて、突破口が開かれていない。
 「海人なれや、己がものから泣く」について、おもしろい指摘がある。古典集成本古事記に、「「ものから」は、「物ゆえに」と「から」という海人の生活の嘆きを懸詞かけことばにしたもの。」(197頁頭注)とある。「藻の殻」とは何のことをいうものと捉えられているのか、とても興味をひかれるが説明はない。
 「~なれや、~」という形には、「海人なれや、己が物から泣く」(応神記)、「海人なれや、己が物から泣く」(仁徳前紀)のほか、「鳴く牡鹿しかなれや、相夢いめあはせまにまに」(仁徳紀三十八年七月)の例が見られる。いずれも「諺」である。言葉のワザがかけられている。言い方によって理詰めに自己完結しながら矛盾を矛盾なく説得している。言述の平面としては矛盾しているように思われながらも、次元を離れて言述自体へと言述し向かうことによって納得せざるを得なくなる物言いである。
 それを解説するために、「海人なれや、己が物から泣く」について積極的にとりあげて検討した論考を見てみる。佐佐木2014.である。議論の拠りどころとするため、長くなるが引用する。

 諺の本文には、
 有海人耶因己物以泣
とある。これについて、疑問・反語・感動などを表す助詞の「耶」をどのように訓じるか、また諺の前半の語構成をどのようなものだと理解するか、ということが問題となる。(28頁)
 「…なれや」つまり「…活用語已然形+や」と、その末尾の「や」が「やも」となった形式は、『古事記』『日本書紀』『萬葉集』の歌および『続日本紀』の宣命に、合計して六十四の実例がある。それらの具体的な用法は、已然形と「や/やも」との結合が文のどの位置に現れるか、という視点から次の三種に分類できる。
 Ⅰ「活用語已然形+や(/やも)」が文末に位置し、そこで終止した文が明瞭な反語となるもの。
 Ⅱ「活用語已然形+や(/やも)」が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって信じがたい事態や現象が現実・事実として描写されるもの。
 Ⅲ「活用語已然形+や(/やも)」が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって不本意な事態や意外な事態が推量のかたちで提示されるもの。
 右の三種に属する六十四例のうち、「海人なれや」と同様に末尾に「や」とだけあるものを、一例ずつ『萬葉集』から引用しておく。
 1 慰むる 心し無くは 天さかる ひなに一日も あるべくも安礼也あれや〔十八・四一一三〕
 2 雪こそは 春日消ゆらめ 心さへ 消え失せ多列夜たれや 言も通はぬ〔九・一七八二〕
 3 しましくも 一人ありうる ものに安礼也あれや 島のむろの木 離れてあるらむ〔十五・三六〇一〕
 これらを見れば明らかなように、三種のどれもが明瞭な反語を表す。已然形と「や」とが結合した部分は、そろって作者にとって意外で信じがたいことであり、だからこそその部分は結果的に強い反語となる。已然形と「や」とが結合し、反語で文が終止したあとにまだ表現が続く2と3のような例では、反語のあとにくる表現は、現実を描写したり現実を推量したりするものになる。2の「言も通はぬ」は現在の事実であり、3の「(なのに、どうして)島のむろの木離れてあるらむ」は現実に対する推量である。
 したがって、「有海人耶」を「海人なれや」と訓読する限り、その表現が反語だということは確実であり、「己(おの)が物から泣(ねな)く」が現実を描写したものであることも確実である。(30~31頁)
 「已然形+や(やも)」……六十四例のなかには、[已然形+や]が四十八例含まれている。しかし、その場合の「や」はすべて反語の助詞であり、ほかにも已然形と感動の「や」とが直接に結合した確実な例は一つもない。(33頁)(以上、字間、改行、注については適宜改めた)

 「海人なれや」のヤが反語であることを文法学的に断じている。そのとおりであろう。しかし、そこから先の解釈が問題である。仁徳即位前紀の皇位の譲り合い話の最後に、「其れ是の縁なり」とある点を平面的に解釈し、説話の内容と諺の表現とが相互に対応していない点を疑問としている。説話に「己が物から泣く」ことになっているのは「海人」であるが、諺に「海人なれや」と反語で提示されていて矛盾していると指摘する。そして、単なる推測と断りつつ、紀の「其れ是の縁なり」という追記は信用できず、むしろ、大鷦鷯尊と菟道稚郎子の兄弟が互いに皇位を譲り合ったために空位の期間が長く続いた話を脚色するために、「海人なれや、~」という諺の内容に合致すべく、「鮮魚の苞苴」の話を造形したのであろうとしている。それによって皇位の譲り合いを強調することができたという(注3)
 諺が逸話の文脈としっくり来ないから混和されたものであろうと考えるのは容易い。しかし、それでは話(咄・噺・譚)というもの本質、何たるかに迫ることはできない。話とは、放たれた言葉であって一度きりの音声言語である。その面白味とは、“一回性の芸術”である(注4)。おや? 何言ってるの? と思わせる話術である。噺家の本領とは、話された瞬時におかしみを伴うことである。ここで、「己が物から泣く」ことになったのは、「海人」であるはずが、「海人なれや」と反語になっていておかしいと考えられている。落語だと思って聞けば、話は逆さまであることは理解されよう。この話は、皇位を譲り合ったことに眼目がある。泣いているはずなのは、海人ではなくて、大鷦鷯尊と菟道稚郎子の二人でなければならない。明白である。どうして気持ちを理解してくれないのかと、両者ともに困っている。「海人」は話のネタに使われている。海人の分際が話の主役に抜擢されることはない。
 皇位に就くとは、中国風に言えば、冕冠を被って玉座に座ることである。皇帝の被る冕冠は、ぎょくそうとも呼ばれる。たまと訓読みされると、確かに帽子の縁に「藻の殻」のようなものがぶら下がっている(注5)。大鷦鷯尊と菟道稚郎子は、ともに海人ではなくて皇族である。なぜ泣いているのか。中国、つまり、カラ(唐)+モノ(物)を反対だ、自分ではなくて相手の方だ、と押し付け合っている。カラモノは反対にひっくり返ればモノカラである。ふつうは自分のものだと主張したがる玉藻を、相手の物だと言い合っている。どちらも皇位継承にふさわしくて、玉藻を被るべき人物、力量を備えた人物、内在させている人物なのである。皇位にふさわしい存在を抱いてしまっている。モノ(者)+カラ(柄・殻)としてふさわしいのである。それを互いに嫌がっている。
左:衮冕(新定三礼図、日本古典籍ビューアhttp://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200020711&pos=5&lang=ja)、右:孝明天皇の冕冠(Barakishidan「Benkan emperor komei.jpg」『Wikimedia Commons』https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Benkan_emperor_komei.jpg)
 ふつう、そんなことはないだろう、という事態が生じてしまっているため、それをお話にする際に、話のなかで泣きっ面を見せられているのは、二人の皇位内在者に代わって海人が引き受ける形となっている。頓智話である。大鷦鷯尊と菟道稚郎子の二人は、海人であろうか、海人ではないのに、自分に内在している皇位的なるものに泣く羽目になっている。その皇位的なるものを、玉藻(ぎょくそう=たまも)と表した時、玉藻(たまも)を持つべき人とは海人であるというクルリンパのオチができる。文章に論理的な矛盾があるという考え方をする人は、話のわからぬ人である。話のわかる人は、クルリンパの面白さに魅了されるであろう。「故、諺に曰く、『海人なれや、己が物から泣く』といふ。」(応神記)、「故、諺に曰く、『海人なれや、己が物から泣く』といふは、其れ是の縁なり。」(仁徳前紀)という言い方の、「かれ」という接続詞は、直前の海人の泣(哭)きだけを承けているのではなく、縷々述べてきた話全体をひっくるめて以下に応じていることを表す。すべては玉藻をめぐっての話である。
 すなわち、ここに、仁徳天皇の皇位継承時期において、中国の皇帝の冕冠の真似事のようなことが行われた、ないしは、そのような想念が醸成されていた、あるいは、時代を遡ってあてがって話を作ることが行われたということが考えられる。中国南朝と倭の五王の交渉が中国の史書に残されており、「讃」を仁徳天皇であると比定する意見も多い(注6)。中国の皇帝がいつから玉藻とも呼ばれる冕冠を被っていたか、確かなことはわからない。礼記・玉藻篇に、「天子は玉藻、十有二りう、前後に邃延し、龍巻を以て祭る。玄端して東門の外に朝日し、南門の外に朔を聴く。閏月は則ち門を闔して扉を左にし、其の中に立つ。(天子玉藻、十有二旒、前後邃延、龍卷以祭。玄端而朝日於東門之外、聴朔於南門之外、閏月則闔門左扉、立於其中。)」とある。礼記は漢の時代にまとめられた書物である。そして、本邦で天皇がいつから玉藻を被ったのかもわからない。それをタマモと訓読みしたのがいつのことであったか、それもまたわからないが、それがあったと仮定するなら、奈良時代以前の早い時期であった可能性の方が高いように思われる。漢語を音読みして事物として受け入れることに慣れるのは、文字文化が根づいてからと考えられるからである。
 以上、上代の諺の「海人なれや、己が物から泣く」について解説した。持って回った反語ヤで表しているのは、玉藻なる大贄(苞苴)(おほにへ)を海人が持って回ったからである。状況を自己言及的に語り尽くしている。これをコト(言・事)+ワザ(技・業・態)と呼ばずに何と呼ぼう。言葉の使い方が論理階梯を越えて自己言及的に尽くそうとしている点が、今日、我々の平板な言語活動と異なる点である。だから理解されていない。もっぱら音声言語によっていた無文字文化の人々の智恵に、我々活字文化圏の言語利用者がついていけていない。言い換えれば、上代語を使っていた飛鳥時代やそれ以前の人々は、我々の思考とは異なる“野生の思考”(レヴィ・ストロース)をしていたと言える。

(注)
(注1)拙稿「記紀の諺、総論」参照。
(注2)漢籍に見える「諺」の例をいくつかあげておく。レトリックとして今日われわれが用いるのと同様である。
 故に諺に之れ有り。曰く、人は其の子のみにくきを知る莫く、其の苗のおほいなるを知る莫し、と。此れは身脩まらざれば以て其の家をととのふ可からざるを謂ふ。(故諺有之。曰、人莫其子之悪、莫其苗之碩。此謂身不脩不以齊其家。)(礼記・大学)
劉子帰りて以て王に語りて曰く、諺に所謂老いて将に知ならんとしてばう之れに及ぶとは、其れ趙孟を之れ謂ふか。(劉子帰以語王曰、諺所謂老将知而耄及之者、其趙孟之謂乎。)(春秋左氏伝。昭公元年)
 蓋し明者めいしゃは遠くばうを見、智者は危ふきを無形に避く。わざはひはもとより多く隠微にかくれて、人のゆるがせにする所に発する者也。故に鄙諺に曰く、家に千金をかさぬれば、坐するに堂に垂せず、と。此の言、小なりと雖も、以て大に喩す可し。臣、願はくは、陛下の意を留め幸ひに察せられんことを、と。(蓋明者遠見於未萌、而智者避危於無形。禍固多蔵於隠微、而発於人之所忽者也。故鄙諺曰、家累千金、坐不堂。此言雖小、可以喩大。臣願陛下之留意幸察。)(史記・司馬相如列伝)
 経方は、草石の寒温に本づき、疾病の浅深を量り、薬味の滋を仮り、気感の宜しきに因り、五苦六辛を弁じ、水火の斉を致し、以て閉を通じ結を解き、之れを平に反す。其の宜を失ふに及ばば、熱を以て熱を益し、寒を以て寒を増す。精気内に傷れて外にあらはれず、是れ独り失ふ所也。故に諺に曰く、病有りて治せざれば、常に中医を得、と。(経方者、本草石之寒温、量疾病之浅深、仮薬味之滋、因気感之宜、弁五苦六辛、致水火之齊、以通閉解結。反之於平、及其宜者、以熱益熱、以寒増寒。精気内傷不於外、是所独失也。故諺曰、有病不治、常得中医。)(漢書・芸文志)
(注3)佐佐木2014.が同調を示す先行研究に、大系本日本書紀と思想大系本古事記の注釈がある。以下にそれぞれ示しておく。

 原文は「有海人耶、因己物以泣」である。「海人なれや」とは、海人であろうか、海人ではないのにの意で、反語をなす。「己が物から泣く」とは、自分の物が原因で、泣くの意。従って、全体の意は、(海人ならばともかく)海人でもないのに、自分の物が原因で自分で泣くことよの意となる。これは、当時、自分の物が原因となって泣く人があったときに、傍の人が、それにあきれ、それをひやかす意味で使った諺だったのであろう。その諺の起源は、実際はどんな事情によるものであるかは、不明であるが、その説明説話の一つとして、ここに海人の話が記録されているのであろう。(387~388頁)
 紀には、「其是之縁也」と、この海人の物語をその諺の起源としているが、古く、自分の持ち物がもとで泣く人があったさいに、鮮魚の処理に困りはてた海人の姿を例にだして揶揄する諺があったのを、宇遅能和紀郎子と大雀命が位を譲りあう物語の中に採り入れたものであろう。(220頁)

(注4)人類が言葉を使うことにおいて、無文字時代、音声言語にもとづく話(咄・噺・譚)は一回性の芸術であった。対して、文字に伝えられる話(咄・噺・譚)の文字とは、ベンヤミンのいう“複製技術”に当たるものと言えるかもしれない。言葉は文字を獲得して文字に置き換えられた段階で、すでに“アウラ Aura”を失っていた。ベンヤミン1995.参照。ベンヤミン自身は、言語芸術と文字との関係について何ら語っていない。
(注5)拙稿「玉藻の歌について」参照。
(注6)中国の史書に倭の五王があるが、筆者の関心の外にある。ヤマトコトバとも無文字文化ともほぼ関係がなく、なぞなぞ的な知恵を伝えるものではなかろう。

(引用・参考文献)
古典集成本古事記 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
佐佐木2014. 佐佐木隆「『海人なれや、己が物から泣く』─上代語の表現─」『学習院大学文学部研究年報』第60輯、学習院大学文学部、平成26年3月。学習院学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10959/3792
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系67 日本書紀 上』岩波書店、1967年。
ベンヤミン1995. ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1995年。

※本稿は、2018年1月稿を2018年3月に改稿し、2020年8月に整理し、2023年6月にルビ化したものである。

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