陶芸体験・フィールドワーク報告

 

  知多半島で始まったやきものの歴史は平安時代末期の約900年前から始まり、約3000基の窯が築かれ、多くの場所で黒煙が昇っていました。今回の陶芸体験とフィールドワークでは、常滑焼をとおして、大野谷の歴史と日常の生活に深く関わるやきもの文化を五感で知ってもらう企画です。

  4月には、「日本遺産審査委員会」の審議を経て日本六古窯の常滑焼が、平成29年度の「日本遺産(Japan Heritage)」に認定され関心も高まりました。

 

 

1  大野谷の歴史

  中世(平安時代末期~室町時代)の頃、大野谷の名称は八条院判官代朝日(大野)頼清が「尾張国知多郡大野荘」と称したことからはじまります。

  荘とは皇族や貴族に免税のために寄進した土地のことで、鳥羽天皇の第3皇女暲子内親王(後に八条院)の荘園です。大野谷に残る平安時代末期の古窯は篭池古窯、上白田古窯、六反田古窯などが見られ、知多半島の中でもいち早く、大きな甕や瓦を焼いていたエリアです。

   

   南北朝時代になると三河の一色詮範(いっしきあきのり)が大野荘を拠点とし、室町時代には一色氏が知多半島全域を支配することになります。

  鎌倉時代の中頃まで大野谷にも窯跡が存在しますが、室町時代には旧常滑町の周辺に窯が集中するようになります。

 

2 県指定史跡「篭池古窯」(常滑市久米)

  

   篭池古窯は標高50m前後の南西向きの斜面に構築されています。現在は2基の窯跡が残されていますが、9基以上の窯体があったと考えられます。

  窯跡の発掘は1959年、愛知用水建設工事に伴って、県教育委員会と名古屋大学考古学研究室によって実施されました。

  

  状態の良い形で残されている篭池3号窯は残存長11.5m、最大幅2.9m 燃焼室(薪が燃える部屋)が2.2m、分焔柱の両隣にある通焔孔の幅は、左が80cm、右が90cm、左右ともに高さ30cmの間仕切り障壁が構築される。焼成室(やきものが窯に詰められて焼成される部屋)は始めは平坦ですが、後半は31度と急傾斜で上昇して煙道部(煙の通る穴)へとつながります。

  つまり、焼成室の平坦な場所で大きな甕が、焼成室の後半の傾斜の急な場所で茶碗類を焼いていたと考えられます。ちなみに、篭池3号窯は甕を中心に焼いた窯跡で1135~1150年頃に操業していたと考えられます。隣の篭池9号窯は1225~1250年頃に操業していた窯です。

 

◎ 窯の変遷(窖窯→大窯→登窯へ)

  900年という常滑焼の古い歴史を考古学的に紐解くと、やきものを焼く窯も変化していることがわかります。

① 窖窯(あながま)

  丘陵の斜面をトンネル状に掘り抜いて構築した地下式と、斜面を掘りくぼめ、スサ入り粘土などを用いて天井を架ける半地下式があります。

 常滑の古窯は地下式で、燃焼室と焼成室の境界には分焔柱があります。

② 大窯(おおがま)

  地上式構造で、15世紀末に瀬戸・美濃窯で独自に開発され、17世紀初頭に連房式登窯が導入されるまで存続しました。燃焼室の奥に昇焔壁が構築されます。常滑窯では「鉄砲窯」とも呼ばれていますが、発掘事例がなく、実態は解明されていません。

③ 連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)

   17世紀初頭に美濃窯の元屋敷窯で導入されました。焼成室は階段状に連続しており、低い部屋の燃焼ガスが隣の高い部屋へとつながる孔があります。この孔は地域によって違いますが、常滑は縦狭間構造です。常滑は19世紀前半に鯉江方救・方寿が瀬戸から導入したといわれています。

 

3 常滑やきもの散歩道(景観に溶け込む常滑焼)

    やきもの散歩道は主に明治時代から昭和時代末期頃までのやきものと窯道具で町の景色が作り出されています。

   ケサワは土管を焼くときに用いられた焼台で、使用すると割れてしまう窯道具です。そのため、不要となった大量のケサワが道に埋められ、滑り止めの役目を担いました。

  

  土管は焼成で大きな傷が生じた際に出荷できなかったものが土留や家の土台として使用されました。

  

   電らん管は電話線を通す陶管(土管)の一種で、孔の数は様々です。家の壁や敷地境だけでなく、イスにも使われることもあります。

  他にも焼酎瓶や焼酎瓶の焼台、便器の焼台など色々なやきものや窯道具があり、見る人を楽しませてくれます。

 

◎ 常滑やきもの散歩道Aコースを歩きました。

  

「常滑やきもの散歩道Aコース地図」とB「陶磁器会館」

 

  

北山橋の「とこにゃん」とD市指定有形文化財「廻船問屋瀧田家」

 

  

E「土管坂」とF「登窯広場」の窯

 

  

 

  

G国指定重要民俗文化財「登窯」と「煙突の見える風景」

 

4 とこなめ陶の森資料館(見学・歴史講座)

  

 

  

 「とこなめ陶の森 資料館」

A 知っておきたいやきものの基礎知識

  中世の時代に生産された常滑焼の器種は山茶碗、片口碗、小碗、小皿、片口鉢、壷、長頸壷、三筋壷、広口壷、鳶口壷、すずり、羽釜、鍋、五徳、陶玉、陶錘、瓦、甕などがあります。そのうち常滑窯で中心となる碗・皿・鉢類と壷・甕類を詳しくみていきます。

① 碗・皿・鉢頬

    

  碗・皿類は粘土塊の上面を平らにし、粘土紐を2~3段積み上げ、ロクロの回転を利用して成形します。切り離しには紐状の工具を使用することから「糸切り痕」と呼ばれています。碗・皿・鉢類はいくつも重ねて焼くので、融着を防ぐために、籾殻や砂粒が高台端部に付着しています。鉢類の片口鉢は口縁部の1ヶ所に注ぎ口がつけられます。

 

  

②壷・甕類

  底部は粘土板を使用して平底にして、それ以降は粘土紐を積み上げて成形します。胴部は甕を叩いた痕跡とみられる押印が横方向に連続して施されます。甕は口縁部の形態によって、いつ頃、生産されたものか判断することができます。

 

B 常滑焼と茶の湯の世界

   

 「とこなめ陶の森 陶芸研究所とその屋上」

  常滑の茶の湯に関するやきものが桃山時代からみられます。それらはもともと茶道具としてつくられたものではなく、当時の茶人に見立てられ、茶の湯で使用されました。例えば、不識は小さな甕ですが、サイズも手頃で土味も美しいです。口も柄杓で水を指しやすいことから江戸時代後期に流行しました。

  常滑の茶の湯のやきものは江戸時代中期から本格化し、水指の他にも風炉や香合、花器、菓子器、蓋置、銘々皿など様々なものが制作されています。

  常滑のやきものは見た目の美しさではなく、土の豊かな表現、薪で焼成したことで生まれる自然釉の景色が当時の茶人を魅了しました。

   

   

    

 

C 常滑焼と煎茶の世界

 常滑で急須の生産が始まるのは江戸時代後期の1800年代の始め頃と考えられています。古い急須はほとんど残っていませんが、急須生産が盛んであったことを示す記録に、『尾張名所図絵』があり、二人の陶工が並んで座り、ロクロで横手の急須をつくっていることがわかります。

 

今日、常滑を代表する朱泥の急須は安政元年(1854)年に初代杉江寿門が完成させます。おそらく、その頃から後手や把手の無い急須「宝瓶」といった様々な急須がつくられるようになります。

 

 

5 陶芸体験

   

◎やきもののつくり方(手びねり、手づくね、ロクロ、タタラ)ここでは制作技法を紹介します。

 

 ① 紐づくり

  粘土を紐状にして輪のように積み上げていきます。縄文時代から続く技法で、壷や甕などの大型品はこの技法が用いられています。

② 手づくね

  ろくろを使わずに土の塊を指先で伸ばしながら成形していきます。茶の湯で用いる楽茶碗や香合など小さなやきものを作る場合に用いられる技法です。

 

  

③ ロクロ

  回転台に粘土塊をのせて回転させ、その遠心力を利用して挽き上げて成形する技法です。日本には5世紀頃に朝鮮半島から伝わりました。手で回すものと足で蹴りながら回すものがありますが、現在は電動が一般的です。

④ タタラ

  板状にした陶土を貼り合わせて器の形に形成する技法です。ロクロでは左右対称のやきものを作るのに適していますが、タタラは三角錐や四角の箱形などロクロでは作ることができない器を可能としました。