徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ジャレド・ダイアモンド著、小川敏子・川上純子訳、『危機と人類 上・下』(日本経済新聞出版社)

2024年01月28日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教
『危機と人類 上・下』は上下巻合わせて1270ページを超える大作であるため、典型的な〈積読本〉となっていましたが、年末に手を付けて、1か月近く中断している期間の方が多かったですが、何とか読破しました。
本書は一言で言えば、「危機の乗り越え方」についてのケーススタディです。
まず、個人的危機とその克服のために必要となる要因と、国家的危機とその克服のために必要となる要因を明らかにし、両者の共通点・相違点を明確にします。その後に、著者がよく知る7か国の事例を詳細に見て、先に明らかにした要因にそれぞれ当てはめて分析・比較します。この類型化するのに必要な要素があれば、他の事例の分析にも応用でき、そこから学びを得ることも可能であろうと希望が持てる一方で、現在人類が直面している気候変動やそれによる資源枯渇・食糧不足やそれにまつわる紛争・難民問題など、国家を超えた問題には先例もなければ外からの支援もないという意味で、かなり困難な状況であることが浮き彫りにもなってきます。

その危機克服のための要因とはどんなものか。それが以下です。

個人的危機の帰結に関わる要因
1. 危機に陥っていると認めること
2. 自分の責任の受容
3. 囲いをつくること
4. 周囲からの支援
5. 手本になる人々
6. 自我の強さ
7. 公正な自己評価
8. 過去の危機体験
9. 忍耐力
10. 性格の柔軟性
11. 個人の基本的価値観
12. 個人的な制約がないこと

国家的危機の帰結に関わる要因
1. 自国が危機にあるという世論の合意
2. 行動を起こすことへの国家としての責任の受容
3. 囲いをつくり、解決が必要な国家的問題を明確にすること
4. 他の国々からの物質的支援と経済的支援
5. 他の国々を問題解決の手本にすること
6. ナショナル•アイデンティティ
7. 公正な自国評価
8. 国家的危機を経験した歴史
9. 国家的失敗への対処
10. 状況に応じた国としての柔軟性
11. 国家の基本的価値観
12. 地政学的制約がないこと

分析・考察の対象となっているのは、冬戦争に直面したフィンランド、ペリー来航以後西欧列強に直面した近代日本と現代の日本、クーデター・ピノチェト独裁に直面したチリ、バラバラの植民地から新国家として独立したインドネシア、第二次世界大戦後のドイツ、英国との繫がりから徐々に脱したオーストラリア、最後に現代アメリカです。

目次
(上巻)
プロローグ ココナッツグローブ大火がもたらしたもの
第1部 個人
第1章 個人的危機
第2部 国家—明らかになった危機
第2章 フィンランドの対ソ戦争
第3章 近代日本の起源
第4章 すべてのチリ人のためのチリ
第5章 インドネシア、新しい国の誕生
(下巻)
第6章 ドイツの再建
第7章 オーストラリア—われわれは何者か?
第3部 国家と世界—進行中の危機
第8章 日本を待ち受けるもの
第9章 アメリカを待ち受けるものーー強みと最大の問題
第10章 アメリカを待ち受けるものーーその他の三つの問題
第11章 世界を待ち受けるもの
エピローグ 教訓、疑問、そして展望

私はフィンランドやインドネシア、チリなどのことはほとんど知らなかったので、大変勉強になりました。
全部を読むのは大変ですが、例えば日本に関する章だけを読んでも、いわゆる歴史ものの本とは違った社会学的アプローチで目から鱗が落ちる感覚を味わえるかもしれません。
世の中には私たちが「知っているつもり」になっているに過ぎないことが多々ありますので、改めて学ぶことの大切さを失わないでいたいものですね。



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五来重著、『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)2016/09/24

2023年11月27日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

『石の宗教』に続き、今度は『山の宗教』です。重なる部分もありますが、こちらは特に修験道に焦点を当て、世界遺産に登録された熊野や日光をはじめ、古来崇められてきた全国九箇所の代表的な霊地を巡って、それぞれの縁起や信仰・祭の他、各地に共通する信仰の根底にあるものについて考察します。

平易な言葉で書き下ろされたものらしいですが、固有名詞だから仕方がないとはいえ、やはり漢字が多いですね。特殊な読みにはフリガナがふってありますが、それ以外にもちょっと私には読めないものがありました。

目次
第一講 熊野信仰と熊野詣
第二講 羽黒修験の十界修行
第三講 日光修験の入峰修行
第四講 富士・箱根の修験道
第五講 越中立山の時刻と布橋
第六講 白山の泰澄と延年芸能
第七講 伯耆大山と地獄信仰と妙法経
第八講 四国の石鎚山と室戸岬
第九講 九州の彦山修験道と洞窟信仰

まず、熊野修験道が一番有名なのではないかと思います。少なくとも私が前から知っていたのはこれだけで、他の修験道修行場は全く未知で、修験道の全国的な広がりに驚きました。

また、狭い洞窟を通って一度死に、出てきて生まれ変わったことになる「胎内めぐり」も何かの怪談ミステリーで読んだことがありましたが、それが修験道の洞窟信仰に繋がるとは想像もしていませんでした。

それはともかく、修験道の根底には日本古来の死生観、すなわち、「死後に霊は山に帰る」というもの、異界・黄泉の世界としての山があると著者は考察します。
しかし、罪を犯した者の霊はきちんと山に帰れず、彷徨いながら苦しむので、それを子孫が供養して山へ送ろうとする。これに伴うしきたりがさまざまある。洞窟籠であったり、供花であったり、仏教化して以降は納経であったり。
山で修行して、他人の分の罪まで一緒に滅罪する行者のように、修験道というと山伏・行者のイメージが強いですが、それだけではないということをこの本から学びました。


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書評:五来重著、『石の宗教』(講談社学術文庫)2017/03/03

2023年11月08日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

『石の宗教』は3年ちょっと積読本になっていましたが、ようやく手を付けて完読しました。
賽の河原の積石やお地蔵さん、墓石に卒塔婆など仏教とは何の関係もないはずのものが日本では仏教の顔をして広く親しまれていますが、それがどこから来たのか、本書を読むことでその謎が解けます。


目次
謎の石—序にかえて
第一章 医師の崇拝
第二章 行道岩
第三章 積石信仰
第四章 列石信仰
第五章 道祖神信仰
第六章 庚申塔と青面金剛
第七章 馬頭観音石塔と庶民信仰
第八章 石造如意輪観音と女人講
第九章 地蔵石仏の諸信仰
第十章 磨崖仏と修験道

全て、元は石に神霊が宿ると考えた古来からの庶民信仰に由来するのですね。
辻に立つお地蔵さんは、実は元は道祖神で、その道祖神は元は祖霊が宿る石棒で、子孫を守ると信じられていたので、村の入り口などに立てて、悪いものが入って来ないように魔除けにしたことに由来するとか。

石を積むのも、死んでまだ浄化されていない荒魂を鎮めると同時に、現世に戻って来ないように閉じ込める意味合いもあったそうです。だから「賽の河原」の「賽」は本来は「塞」の意味があったのだそうです。この意味では、やはり道祖神に通じるものがありますね。

馬道観音と蚕の関係も実に興味深いです。

ヨーロッパでも、キリスト教の祭日に行われる様々な習俗はほとんどキリスト教徒は関係がなく、ケルトやゲルマン民族の土着信仰に文化宗教であるキリスト教の皮を被せたものだったりします。
日本でも仏教はもちろん、記紀を掲げる神道もキリスト教のように「文化宗教」の側面が強く、民間信仰はもっと泥臭いアニミズムと先祖崇拝であり、それが神道や仏教の文化的枠にはめられたようですね。その際に重要な役割を果たしたのが修験道の行者たちだったようです。

修験道も私にとっては謎な宗教でしたが、こちらは山岳信仰をベースとしており、巨岩や奇岩を磐座(いわくら)または磐境(いわさか)として崇拝する土着信仰から発展し、時と共に仏教的要素を採り入れて、絶妙な混合宗教を作り出し、悩める庶民たちの助けとなったみたいです。

明治政府が〈廃仏毀釈〉とか〈淫祠邪教の禁〉とか言ってそのような土着信仰の産物を破壊しなかったら、日本人は正しく「日本の伝統」を認識できたのではないでしょうか?


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書評:横山和輝著、『日本史で学ぶ経済学』(東洋経済新報社)2018/09/21

2023年10月29日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

『日本史で学ぶ経済学』はタイトルから想像できるように日本の歴史上の経済現象を振り返り、今日のプラットフォーム経済や仮想通貨経済などの現象との本質的な共通点を探り、注意点や今後の展望のヒントを与えようとするものです。

目次
はじめに ―経済学のレンズで歴史を学ぶとビジネスのヒントが見えてくる
基礎編
第1章 貨幣の経済学(なぜ鎌倉・室町時代に中国千が流通したのか?他)
第2章 インセンティブの経済学(日光電気製銅所の「働き方改革」ー金銭的インセンティブ他)
第3章 株式会社の経済学(株主と経営者のインセンティブ関係ー所有と経営の分離他)
応用編
第4章 銀行危機の経済学(なぜ銀行危機が起こるのか?ーゲーム理論による分析他)
第5章 取引コストの経済学(三井高利と荻生徂徠の共通点ー取引コストの正体他)
第6章 プラットフォームの経済学(商人と座の誕生ー日本の「商売」の原点」他)
第7章 教育の経済学(明治・大正時代の小学校教育ー教育と経済成長の関係他)

学校の授業で、または受験勉強の一環で学ぶ日本史はデータの詰め込みに偏りがちで、社会情勢・経済の変遷の流れがほとんど分かりませんが、本書を読むことで、例えば戦前の財閥と戦後の系列の違いや、徳川吉宗の享保の改革が取引コストを削減する構造改革だったことや、織田信長の楽市楽座が商人の誘致のための法整備と治安の提供であったこと、これが基本的にはアマゾンやメルカリなどのプラットフォーム・ビジネスと同じであることなどが見えてきて、ただの歴史用語だったものが立体的に捉えられるようになります。



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武田晴人著、『日本人の経済観念 日本の50年 日本の200年』(岩波書店)1999/06/25

2023年10月09日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

この本は、十数年前、古本屋で買ったと記憶しています。ずいぶんと長いこと積読本のままでしたが、ついに手を付けて完読しました。
本書の興味深いところは「日本人は勤勉」とか「日本型経済の特異性」だとか、そういったイメージを歴史的な資料を基に検証するところです。
イメージはイメージに過ぎないことがよく分かります。江戸時代や明治時代初期の産業構造と明治時代後期ではすでに様相が違っているし、歴史的資料から明治初期の熟練職工たちは、たとえ工場で働いていても自立性を維持し、自分にとって十分な収入を得た後は出勤しないこともざらにあり、欠勤率が常時15パーセント前後だったというから驚きです。
「おしん」などのドラマや文学作品で語られる女工たちの長時間労働は、勤勉だからというよりは、貧困ゆえにそうせざるを得なかったという外的要因によるものだったと見るべきだというのが著者の見解です。

また、三井家の内部選抜制度が時代を経て、現代の大企業や官庁における内部選抜制度(出世競争)と敗者の受け皿としての子会社出向や天下りに継承されている、少なくとも類似性が高いという指摘も興味深いです。
それ以外では「終身雇用」というのは昭和の一時期に限られており、明治・大正時代は工場労働者も鉱山労働者・鉱夫たちも2・3年程度で勤め先を変えるのが普通だったというのも面白いですね。


目次
はしがき
第一章 企業と出資者
第二章 市場と競争
第三章 契約と紛争解決
第四章 労働の規律と雇用の保障
第五章 国益と政府
おわりに

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書評:高橋 敏著、『江戸の訴訟 御宿村一件顚末』 (岩波新書 新赤版)2010/01/20

2023年09月28日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

積読本の消化に当たり、民俗学の次は歴史かなと思い、本書を手に取りました。
江戸時代の訴訟が実際にどう行われ、当事者たちにとって具体的にどういう意味があったのか、建前はともかく、実際にはどのようなことが行われたのか、そのようなことを「御宿村一件」を例にとって紐解くのが本書です。

嘉永2年(1849)に御宿村で不法滞在していた無宿者が、同じく無宿者の集団二十二三人に襲われて殺されたことがことの発端で、この者を自宅に匿っていた農相兼業の村人源右衛門が本来なら検死の届出を出さなければいけないところ、無宿者を違法に泊めていたことを咎められたらまずいと思って、無住の寺の敷地に勝手に埋めてしまいます。しかし、隠しきれずに村全体で問題にされるものの、5人組の連帯責任や村長の管理責任に問われることを嫌って、内々に処理し、源右衛門は村籍から除外し、追放することに決めて、終わりにしようとします。
ところが、別件で殺人犯らが捕まったため、この件も露見し、当事者の父も含め名主らが勘定奉行に呼び出されることになってしまいます。
ここで名主が几帳面に日記や公費・私費の用立て記録をつけていたため、裁判のための江戸滞在が何日に及び、費用がどのくらいかさみ、長引く訴訟を何とか早く決着させるためにどの用人に会い、どんな接待や贈答をしたかが克明になります。
その他多くの周辺資料を駆使して、当時の社会の仕組みや官官接待の実際などが描き出されています。

今日の法の理解からすると、当事者が出奔して行方不明のまま、その父親・親類と村の名主らが裁判に出頭するなんて考えられないことですが、当時は連帯責任が当たり前で、「個人」の問題では済まなかったことがよく分かります。

また、裁判のためとはいえ、滞在日数の割には実際に勘定奉行に呼び出されるのは数回しかないため、しっかり江戸観光しているところが面白いですね。ちゃんとガイドブックのようなものがあり、どこの料亭が美味しいなどの情報を入手して食べに行ったり、神社にお参りに行ったり、お土産を買ったり、やることは今とあまり変わらないようで、興味深いです。



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読書メモ:岩下 宣子著、『図解 日本人なら知っておきたい しきたり大全』(講談社の実用BOOK)

2023年09月15日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

民俗学つながりで積読本を消化してきたので、内容的に近い本書『図解 日本人なら知っておきたい しきたり大全』もついでに消化しようと手に取りました。ざっと全体に目を通し、興味を覚えた記事だけを読み込んだだけに留めました。
というのは、本書はカラー図鑑百科事典のようなもので、通しで読めるような代物ではないからです。けれども一家に一冊置いておくべき本だと思います。
挿絵もきれいで、レイアウトも見やすく、説明も分かりやすいです。

まあ、昨今では誰でもスマートフォンを持ち、何か分からないことがあればググることで、冠婚葬祭等のやり方や作法、あらゆるものの金額の相場が調べられるので、一冊の本として本当に必要かというと、そこはちょっと自信を持って断言できないのですが、世の中にはネット検索が苦手な人もいるので、一定の需要はあるのかなと考えます。

本書にも一部のしきたりに関してはその起源や歴史的な意味に軽く触れられていますが、大部分は作法やマナーとして「かくあるべし」的な説明に始終しているため、歴史的背景や民俗学的考察に興味がある人間には全く不向きですが。

それにしても疑問に思うのは、「二十四節季と七十二候」という季節の区分は一体どこの地域が基準になっているのでしょうか? 南北に細長い日本列島は気候の地域差がかなり激しく、旧暦・新暦のずれだけではなく、そもそも全国旧暦だった時代もこれにぴったり合った季節を味わえる地域は実はごく狭い範囲に限られていたのではないでしょうか。
というか、そもそもしきたりというのは歴史を遡るほど地域差が大きくなるので、共通項を探せばかなり大雑把なものしかないはずです。それなのに「日本のしきたり」とあたかも全国一律有効のような表現を使うことに少々違和感が否めません。明治期の国民国家形成期に新たに導入されたものや画一化されたものが相当あるので、どれもこれも何百年も受け継がれてきた文化というわけではないことも意識すべきではないかと思います。

目次
はじめに
本書について
季節のしきたり
旧暦について 二十四節季と七十二候
暮らしと暦 年中行事
人生儀礼 人生の節目のお祝い
赤ちゃんのお祝い
子どものお祝い
おとなのお祝い
長寿のお祝い
慶事のしきたり
婚礼のしきたり
挙式の形式
挙式後のお礼と贈り物
結婚を祝う
日常 お祝い・お礼・お返しの基本
弔事 大切な人を送るとき
臨終から葬儀まで
葬儀の流れ 仏式・神式・キリスト教式
弔事の表書き一覧
お付き合いのしきたり
挨拶挨拶とお辞儀の作法
和室の作法
訪問とおもてなし
食にまつわるしきたり
日常の心遣い
贈答・手紙のしきたり
季節の贈り物
贈り物とお返しのしきたり
手紙のしきたり
巻末付録


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書評:常光 徹著、『魔除けの民俗学 家・道具・災害の俗信』(角川選書)

2023年09月11日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

積読本を消化しようと先月から民俗学関係の本を読み出しましたが、『魔除けの民俗学』はその4冊目となります。
前回読んだ『しぐさの民俗学』と一部重複するところはありますが、〈魔除け〉や〈厄除け〉に焦点を当てているところが違います。
個々のエピソードは非常に興味をそそられますが、やや事典的な羅列で、類似する各地の俗信の根底にある心意に関する考察が弱いような印象をぬぐえません。

目次
はじめに―俗信と魔除け
I 家屋敷と俗信
第一章 生死と境界の空間ー屋根と床下
第二章 植物と家の盛衰ー庭木の吉凶
第三章 他界への出入り口ー井戸
II 生活道具と俗信
第一章 人生の節目を象徴ー箒
第二章 祓う・拒む・鎮めるー蓑
第三章 禁忌と魔除けの呪具ー鍋
第四章 欺く・招く・乞うー柄杓
III 災害と俗信
第一章 地震と唱え言
第二章 幕末土佐の人と動物ー『真覚寺日記』より

第III部で引用されている宇佐村の真覚寺住職・井上静照(1816~69)による『真覚寺日記』は安政地震の惨状を克明に伝える一方、蚊や蚤、鼠などに悩まされる日常もユーモラスに語られているようでかなり面白そうです。
鼠を狩るために猫を飼っているのに、猫が仕事をしないと叱ってその役割を諭そうとしたり、家中蚊だらけになり、払っても無駄なので家を一時蚊に明け渡し、自分はよそへ避難したり、当時の生活がよく描かれているようです。
地震の時は井戸の水位を見て、津波が来るかどうかを判断するのが宇佐浦では普通だったことを批判して、地震が起きたら財産に執着せずにさっさと逃げないと助からないと繰り返し説いているのも興味深い。


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書評:常光 徹著、『しぐさの民俗学』(角川ソフィア文庫)

2023年08月19日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

積読本の消化にあたり、各分野バラバラではなくなるべく同じ分野の本を続けて読もうと思い、『おじぎの日本文化』に続いて本書『しぐさの民俗学』を手に取りました。ちょっとずつしか読み進められませんでしたが、なんとか完読しました。

『しぐさの民俗学』とはいっても、前編しぐさについて考察しているわけではなく、日常的な忌事やお呪いの類もテーマごとに取り上げられ、それらの根底に横たわる論理や発想が何か考察されています。
表紙になっている絵は《狐の窓》と呼ばれるしぐさで、特殊な指の組み方をして、その穴から覗くと狐狸妖怪などの異界のモノの正体を見破れるのだとか。
これは他にも《股のぞき》や《袖の下覗き》のしぐさとも共通し、いずれも隙間から覗くことに呪的な意味があり、それによって怪異を見る、正体を見破ることで脅威を無効化するなどの働きがあるのだそうです。
これは第三章「股のぞきと狐の窓」で取り上げられています。

目次
序 続伸と心意
第一章 息を「吹く」しぐさと「吸う」しぐさ
第二章 指を「隠す」しぐさと「はじく」しぐさ
第三章 股のぞきと狐の窓
第四章 「後ろ向き」の想像力
第五章 動物をめぐる呪い
第六章 エンガチョと斜十字
第七章 クシャミと呪文
第八章 「一つ」と「二つ」の民俗
第九章 「同時に同じ」現象をめぐる感覚と論理
終 しぐさと呪い

第一章では、息を「吹く」と「吸う」にまつわる様々な俗信が紹介されています。「吹く」と「吸う」というだけではピンと来ないかもしれませんが、息を三度吹きかけて病や痛みを払う類の呪いや呪術にはなじみのある方も多いのではないでしょうか。「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、飛んでけ~」とセットになってフーフーフーと傷口などに息を吹きかけるものですが。蜂を追い払うのに効くという俗信もあると知って驚きました。
逆に息を「吸う」のはチュッチュッと鼠の鳴き声を真似して何かをおびき寄せるしぐさで、場合によっては異界のものが人をおびき寄せるのに使うとも信じられているとか。

第二章では指を「隠す」と「はじく」にまつわる俗信で、今日全国的に最もよく知られているのは、「霊柩車を見たら親指を隠さないと親の死に目に会えない」というものではないでしょうか。
昔、ドイツ語における親指の意味について動画を作った際に、日本での親指の意味も比較対象として調べたことがあったので、親指を隠す行為と親の死に目が単なる後付けで、本来は親指の爪の隙間から悪しきものが侵入するのを防ぐ行為だということは知っていたのですが、実際に文献を紐解いて親指を隠すことの時代的変遷を見るのは非常に興味深いものです。
「はじく」方は、「爪弾き」という語から想像できるように、忌むべきものを積極的に祓う呪いだったようですね。

第三章では上述のように狐狸妖怪などの正体を見破ったり、富士山麓の股のぞきのように異界、神々の世界を垣間見たり、この世とあの世の境界を破ることなく覗く行為が紹介されています。「見るな」という禁忌を犯して覗き見てしまうと正体を見破られたものが消え去るというパターンは鶴の恩返しに限らないことが分かります。

第四章の「後ろ向き」も異界との関わりに関するもので、異界に背を向けつつも何かを投げて、大抵の場合、追ってこないように異界のモノに干渉する呪いが取り上げられています。伊邪那岐が読みの国に降りて、愛する妻の伊邪那美を連れて帰る際に「後ろを振り返るな」という禁忌を犯して大変なことになったのは有名ですが、この「後ろを振り返るな」という禁忌が様々な習俗に受け継がれているのが興味深いです。根底にあるのは、死者との「縁切り」で、死者を仏さまと崇めるのとは相容れない要素でしょう。

第五章では動物、特に狐や狸に化かされないようにする呪い、猫や蛇にたたられないようにする呪いなどが紹介されています。穴に入った蛇は耳たぶを掴みながら引っ張ると抜けるとかいう俗信も沖縄や高知に伝えられているらしく、面白い話でした。

第六章では指や手のしぐさ「エンガチョ」が取り上げられ、それと斜十字の関係、「X」印の呪力との関係が考察されています。斜十字の形状自体に魔除けの力があると考えられていたらしいことが分かります。

第七章ではクシャミ(古くは「クサメ」)の語源と悪しきものに魂を抜かれないようにする呪文の関係が考察されています。制御不可能な生理現象であるクシャミは他者の働きかけによって生じると考えられ、そのものに命を取られないように「クソくらえ」系の罵倒をその瞬間に言う。クシャミの呼吸に合わせてこの系統の呪文が組み込まれているのが「はーくしょん」ということらしいです。

第八章では「一つ」の特異性と「二つ」の民俗について考察されています。一声で声をかけるのは魔性のモノのすることなので、一声呼びが禁忌になっており、「もし」ではなく「もしもし」ということに繋がっているらしいのは実に興味深いですね。
また、片道と往復の俗信についても考察されています。「行き帰り」でセットと考えられており、日常はこれに従って、出たところから入るのですが、葬式の場合は、来た道をそのまま帰ってはいけないことになっていて、これは死者が「行きっぱなし」になり、現世に戻って来ないようにする「縁切り」の一種のようです。

第九章では「同時に同じ」現象をめぐる民俗について様々な禁忌が紹介されています。箸渡しの禁忌や相孕みの禁忌、双子を忌む背景や双子を対になる命名で「二人で一つ」を作り出して相争うことを避けようとするなど、考えてみると実に興味深い発想です。



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書評:神崎 宣武著、『「おじぎ」の日本文化』(角川ソフィア文庫)

2023年08月11日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

たかが「おじぎ」、されど「おじぎ」。
正直、「おじぎ」だけでここまで深掘りできるものとは思いませんでした。
この「おじぎ」はどんな文化の脈絡ではじまり、いつどんな変容をとげてきたのか。著者・神崎宣武氏が「三三九度」をはじめ、日本人のしぐさに根付いている習俗儀礼や日本文化について、民俗学的な解明を行います。

目次
第一章 外国人が見た日本の「おじぎ」
第二章 古典・絵巻物から「おじぎ」を探る
第三章 中世の武家礼法と「おじぎ」
第四章 畳と着物による近世の「おじぎ」変革
第五章 現代へと変転する「おじぎ」のかたち

結論から言うと、現在、「道」のつく武芸や芸事の作法や学校教育などで知られる様々な礼は明治時代に完成・厳格化して普及し(始め)たものです。作法としての体系化への萌芽は室町期にあり、江戸時代の武家社会で発展していったようです。ただし、神社祭礼の系統とは別に、武家には礼法を担う高家(小笠原家、伊勢家など)が指導していたとのこと。
大名行列の際に町人は道端で土下座するイメージがテレビの時代劇番組などで広まってしまっていますが、実は土下座的なおじぎは外でやるものではなく、畳の上でやるもので、町民たちは道端で片膝をつき頭を下げる片膝礼をしていたことが当時の絵巻物からも分かっています。
片膝礼ではなく、現代のいわゆる「ウンチングスタイル」をしていたこともあるようです。

平安時代まで遡ると、おじぎに関する言及がほぼ皆無で、あるのはわずかに神仏に対する跪拝(膝つき、つま先立ち、両手を地面につけて頭を下げる)のみ。対人のおじぎはなかったらしいことも興味深いです。

神社祭礼でさえ、明治期に神仏分離の一環として全国統一の作法がトップダウンで申し渡されたものの、格式の高い神社は独自のやり方を維持したし、そうでない神社も基本的にはお達しに従っても細部では融通を利かせていたらしく、地域差がかなりあったようですね。

日本文化というなんとなく画一的な文化のイメージを正してくれる本です。

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