59.夷針神社探検記(茨城町大戸) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

今回の探検は茨城県東茨城郡大戸に鎮座する常陸国茨城郡式内社の夷針(いはり、いしみ)神社です。

この神社には3か月前に参拝していたのですが、その当時はあまりピンとくるものがなく、記事にすることが出来ずにいたのですが、探検隊電話連絡会議で重要なことが導き出されたので、報告させていただきます。

御祭神は奥津彦命(興津日子命=おきつひこのかみ)と奥津姫命(興津比売命=おきつひめのかみ)奥津姫命は別名大戸比売神(オオベヒメノカミ)とも呼ばれていたようです。

配祀として武三熊之大人(たけみくまのうし)と興玉命(おきたまのかみ)。

ただし武三熊之大人は、応永33年(1426年)に水戸城落城時に合祀された為江戸時代は武隈明神とか両者大明神と呼ばれていたようです。

「水戸城落城時」とは常陸大掾(だいじょう)氏の水戸馬場城が落城した時で、家臣であった鯉渕城の城主で根小屋(根古矢、根古屋)にいた武隈氏がこの大戸(おおど)に逃げてきて移り住み、この神社に合祀したらしいので、常陸国と言えども佐竹氏とは関係がなさそうです。しかし鯉渕城と大戸は数kmしか離れておらず、逃げてきたという感じではないのではないかと思います。

日本書紀では武三熊之大人は天穂日の御子神になっています。古事記では、建比良鳥命とされており同神ではないかと言われています。武隈氏はこの「神」の子孫なのでしょうか。また阿武隈との関連がありそうです。

興津日子命(オキツヒコノカミ)・興津比売命(オキツヒメノカミ)は竈(カマド)を司る神だといわれており、複数の神社参拝のHPでは民間信仰の神様だと解説されているようですが、このような分析をしていては古代のなぞは解けるはずもありません。書いてあることをそのまんま鵜呑みにしているだけでは、「藤原氏」と呼ばれている勢力が700年ごろから、平成の現在までに至り改ざんし続けている歴史の真実にはたどり着けることはないでしょう。

小学校から高校まで歴史の時間で為政者の都合に合わせ改ざんされた歴史を、欧米の指示により東アジアの国々は学ばされているのですから、現代の日中韓の関係は進展することは難しいのです。少なくともこの三国が真実の歴史を共有することで真の東アジアの協力体制ができ、発展につながっていくのだろうと思います。特に古代史においては中国の歴史が客観性を持っていますから、大変参考になるはずです。

ちなみに竈(カマド)を司る神とは製鉄たたらの技術者ということです。代表的な神は愛宕の神ですね。


 
二の鳥居                  扁額


 拝殿


夷針武熊大明神 縁起
延喜式、大日本3132座の宮社、当国二八社なる夷針神社は大戸(村)に鎮座し小社なり。
当時那珂の里なりしも時代の変革に伴い、茨城の里に彊を更う。
奉安せる祭神は興津日子命・興津比売命の二柱にして、人皇第45代、聖武帝神亀2年乙丑9月29日(西725)の創建なり。
夷針の神は所謂竈の神にして霊験あらたかに業厚招福、守護安体を司どる神なり。
由りて古くより、庶民の信仰を集む。
抑々平氏の曩祖、高望王常陸太守に任じ国府を常陸国の平邑に建つ則ち後の府中なり。
爾来常陸大掾をして国政を俾監せ俾む。
后来大掾の子孫連綿、而して馬場城より水城にうつり、住みて数代。
時恰も応永33年(1426)奥鎮守将軍藤原秀郷12代の後裔江戸但馬守通房満幹、の出城を窺ひて而して虚に乗じ之攻、終に水戸城を獲、満幹落城の日。

大掾氏家臣、鯉渕城主、根小屋伊勢守武熊明神を兵災より大戸に避け夷針の宮に神霊安置、事己ん

で併せ祀り今に至ると、云爾。
由緒縁起次第、伴の如きなり。
昭和60年乙丑11月吉日
撰文 打越敬道



本殿


千木は男千木 神紋は消されているように見える


近くには樹齢500年といわれる天然記念物の「大戸の桜」があります。

これらの情報をもとに百嶋系図で分析をしてみましょう。

まず興津彦命、興津姫命です。百嶋系図では複数の興津彦命、興津姫命がいますが、興津姫命の別名が大戸比売命ですから、日本書紀で言う神代七代の神、大戸之道命、大苫辺尊であろうと思われます。

大戸之道命は以前報告した武生神社の祭神であり常陸太田市天神林町の稲村神社の祭神の一柱でした。長髄彦(ナガスネヒコ)と瀛津世襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)であると推察できます。

少なくともそれらの神社との関係性はあると考えてよさそうです。

当然ながら、奥や興は瀛(イン)が語源であることは言うまでもありません。

次に配祀されている武三熊之大人(たけみくまのうし)と興玉命(おきたまのかみ)について考えてみます。

武三熊之大人は天穂日の御子神ということでした。天穂日とは百嶋系図では豊玉彦=ヤタガラスですから、古事記に言う建比良鳥命でよさそうにも思えますが、ここは常陸国です。武隈氏が奉斎したようですが武隈氏の素性についてはっきりしたことはわかりません。しかし九州にかかわりのある氏族であることは、常陸国北部から福島にかけての阿武隈という地名から推察することができます。

武隈氏は富山県魚津市と宮城県岩沼町にも痕跡を残しているようです。宮城県岩沼町は阿武隈川の河口に位置しています。

われわれは武三熊之大人を岩瀬町の鴨大神御子神主玉神社の祭神であり、秘密に隠された神主玉ではないかと疑っています。

百嶋系図では神主玉は豊玉彦と前玉姫(木花開耶姫)の御子とされていますが、我々はこれまでの分析により、スサノヲとクシナダヒメの双子の御子、長髄彦≒カガセオとコノハナサクヤ姫の御子であろうと推察しています。ノアの洪水の記憶であるすべてを飲み込む「渦」の恐怖のトラウマを持ち、怪獣リヴァイアサンとビヘモスを作り上げ、その恐怖を克服するものとして祭祀族のレヴィを神を奉斎するものとしている一族、古イスラエルやヒッタイト(レバノン)の民族が、アレクサンダーの東征によって、追われ追われ列島まで辿りついたと考えているのですが、彼らからすれば、神主玉は最高の指導者であった思われるのです。もちろん正統九州王朝である「姫氏」は周王朝以来の高貴な血筋ですから、それはまた別な意味で最高格式なのです。

しかし実際の求心力を持った指導者は、白川伯王と瀛氏(いんし)スサノヲの血筋あるいは名跡をついでいる必要があるのです。

神主玉は主と玉を持っています。主は大幡主から続いている「主」でユダヤ教でいう「主」と同等のものでありましょう。

主は、大幡主-豊国主-大国主-神主玉-事代主と続いていきます。

玉は豊玉彦の「玉」です。豊玉姫、前玉姫-神主玉と続いていきます。

神主玉は橘一族の祖ということですが、この意味は長髄彦と木花開耶姫がを中心とした、戸畔といわれる集団が縄文人や古々ヘブライ人が築いていた日の本の勢力と融合することによって、列島を統一したのではないかということです。もちろん旧態依然の九州王朝の取り巻きは面従腹背であったことでしょう。

日の本にも反対者はいたことでしょう。しかし、九州地区だけでは大陸半島からの移民を受け入れる余裕がなくなっていたのです。黄巾の乱などにより後漢が滅亡し膨大な人数が列島になだれ込んだことでしょう。

列島の政権を維持するためには九州に首都を置くよりも、人数が多かった日の本に置いたほうが統治しやすかったのだろうと考えます。

稲作にしても、砂鉄にしても、黒曜石にしても、金にしても日の本の資源は豊富だったと思われます。彼らは現在中央構造線と呼ばれている地区に鉱物が多く取れる事を知っていたと考えます。簡単に言えば、温泉が湧くところには鉱物が採れることを経験則から知っていたのです。

そのため、移動は火山伝いに実施されます。これが金山彦や大山祇の後継者としての木花開耶姫の本質でしょう。

もう一柱配祀されている興玉命(おきたまのかみ)は、WIKIによれば、


興玉神は、内宮の所管社30社のうち、滝祭神に次ぐ第2位である。御垣内の西北隅にある石畳の上に西向きに鎮座する。6月と12月の月次祭および10月の神嘗祭の際には、奉仕する者全員が、まず興玉神に誠心誠意奉仕することを祈念する。

祭神は社名と同じ興玉神(おきたまのかみ)。正宮の守護神である。『神名秘書』によれば、猿田大神またはその子孫である大田命の別名であるという。鎌倉時代には宮域の地主神・猿田彦大神として興玉神を祀り、神嘗祭と月次祭の御贄供進の際に祭祀が行われ、重視されてきた。


なんと猿田彦にされています。『神名秘書』は外宮の神官だった度会氏の家伝を鎌倉時代にまとめたもののようです。

われわれはこの興玉命こそ神主玉ではないかと推測しています。

しかし確たる証拠はありません。

神主玉は、長髄彦と蝦夷地に向かいました。一緒だったのか、後を追ったのかは不明です。

地名には東京都奥多摩があります。奥多摩の小河内ダム建設で重要な神社が水没させられているのだろうと考えています。

また山形県置賜郡があります。ここは飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)につながるところです。これより少し北には出羽三山が控えています。最終地は五所川原、十三湊です。

ヤマトタケルは祖父である長髄彦や神主玉の護衛として、蝦夷地に向かったのかもしれません。

そう考えれば、長髄彦=神主玉=ヤマトタケルを同一視することができ、かつ東征といわれている遠征の意味も明確化されるのでrす。ヤマトタケルの父である天足彦(彦座王)が四道将軍の丹波道主と比定されることも何となくわかってくるのです。

そして、社名の夷針(いはり)は蝦山彦から伝わった字剣の融合を意味しているのかもしれませんし、「茨」(いばら、うばら)の語源となるのかもしれません。

となりの地区に新治郡があります。にいはりは、にゅういはりでしょう。

にゅうとは百嶋系図では天皇を助ける人と言うほどの意味として使われています。語源はフェニキア人(レバノン人)が伝えた言葉です。

新盆をにいぼんとかにゅうぼんとか読むところに名残が見られます。列島では2000年も前から英語の元となる言葉が伝わっていたようです。


 

鳥居は東日本大震災で倒壊          スジダイの木


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境内社の素鵞神社(祭神はスサノヲ)           素鵞神社内部 


祖父であるスサノヲが見守っています。


百嶋神社考古学にご興味の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで090-3479‐3438




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