105.孝謙天皇神社と下野薬師寺探検記 | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

前回の栃木県(下野国)の神社探検で弓削道鏡が何度か登場していたので、道鏡が左遷された下野

市の薬師寺跡と孝謙天皇神社を探検してきました。

神社の場所は栃木県下野市(旧石橋町)上大領。

道鏡と孝謙天皇の伝承は、栃木県那珂川町(旧馬頭町),、那須烏山市、茂木町、茨城県常陸大宮市(旧御前山村)、城里町(旧桂村)などに残っています。

とんでも話と簡単に片付けてしまうのは、この地区が八溝山塊の県境を挟んだ那珂川沿岸の、しかもそれほど遠くはないところに位置していることを知らない人達でしょう。

これは伝承を史実と断定するものではなく、慎重な検討が必要だと言う意味です。

それに「地元LOVE」ですね(笑)


   
 鳥居と社標


孝謙天皇のおさらいをします。WIKIより引用。

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。

在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。

父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。


母親の光明皇后も重要なのでWIKIより引用します。


光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。


光明皇后は父不比等(659-720年)42才、橘三千代(665-737年)36才の時の子だそうです。


犬養(犬飼)や橘から推察すれば、海幸彦=建御雷や神主玉(橘の祖)との関係が浮かび上がってきます。

百嶋系図では神主玉は豊玉彦とコノハナサクヤ姫の子ですが、われわれは「豊玉彦」としてのスサノヲにとっては孫になると考えています。

「豊玉彦」という名称はスサノヲ(須佐王、シャカ王)だったり、海幸彦だったり、ナガスネ彦だったりすると解釈しています。

「豊玉彦」を一人の人間として思い込んでしまうと、系図の呪縛から解き放たれることは難しく、真実に到達することは相当困難になります。

記紀は不比等(現在において八咫烏の名を騙る勢力の祖)による創作であることを片時たりとも忘れてはなりません。


 
 氏子さんが建立した看板 さすがに下野市としては立てられないのか。


  

扁額                    社殿裏側にある石碑 笹姫、篠姫か?



 社殿左奥にも石塔が三個。


次に下野薬師寺跡です。

WIKIより概要を引用します。

栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設

けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「三戒壇」と総称された。そのほか、道鏡が宇佐八幡宮神託事件ののち当寺に左遷されたことでも知られる寺院である。

下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている


弓削道鏡の概略をWIKIより引用します。

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある 。 孝謙天皇に仕え、寵愛を受けたとされる。 俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。天智天皇の皇子である志貴皇子の子とする異説もある


 
 薬師寺発掘の説明板


 
 六角堂



われわれの研究は奈良時代までにはまだたどり着いていませんから、たいしたことは書くことはできないのですが、この時代は壬申の乱で一旦は天武天皇系に移った政権が天智天皇系へ戻って行く時で、複雑な権力争いが見られます。

百嶋CDでは天武の時を藤原の勢力が押さえつけられた時代というような表現をしていました。

 天智系の復権は不比等によって画策されたといってよいでしょう。

そしてそれは「正史」が創作されていく時代でもあります。

 

この時代の天皇は

天智   即位年 661年 

弘文       671年   壬申の乱

天武       673年

持統(女)      686年

文武         697年

元明(女)    707年   平城京遷都 古事記 風土記

元正(女)    715年   三世一身の法

聖武        724年   奈良の大仏

孝謙(女)    749年

淳仁        758年

称徳(女)     764年   

孝謙重祚                764年藤原仲麻呂の乱            769年 宇佐八幡神託事件

光仁         770年

桓武         781年  平安京遷都

平城         806年  810年薬子の変


太政大臣は 

大友皇子    在位期間 671年

高市皇子         690-696年

恵美押勝(藤原仲麻呂)  760-764年

道鏡           765-766年

藤原良房         857-872年

 

左大臣は

蘇我赤兄         672年

多治比嶋         690-701年

石上麻呂         708-717年

長屋王          724-729年 

藤原武智麻呂       737年

橘諸兄          743-756年  美奴王の子、光明子異父兄(母:橘三千代)、葛城王    

藤原豊成         757年

藤原仲麻呂        758-760年

藤原豊成         765年

藤原永手         766-771年

藤原魚名         781-782年 

(北家 房前五男)


右大臣は

中臣金          671-672年

阿倍御主人        701-703年

石上麻呂         704-708年

藤原不比等        708-720年

長屋王          721-724年

藤原武智麻呂        735-737年 南家

橘諸兄           738-743年          

藤原豊成          749-757年 武智麻呂の長男

藤原豊成         764-765年

藤原永手                            766年  北家 房前の次男

吉備真備          766-771年

大中臣清麻呂         771-781年 


この後に坂上田村麻呂による東征、空海、最澄による開宗、斎部広成による古語拾遺上奏、各地の

 神社創建ラッシュに連なってきます。

孝謙天皇と道鏡は18歳も年が違い、宇佐八幡神託事件時には道鏡は69才と高齢だったらしいことを考えれば、男女の関係にあったとする説はお伽話で、橘の血を引く孝謙天皇を貶めるための創作話だと考えます。


百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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