106.駒形神社探検記(那珂市南酒出) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
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久方ぶりに常陸国内の神社で、那珂市南酒出(みなみさかいで)に鎮座する駒形神社です。


祭神は保食神(うけもちのかみ)。


駒形神社という名前の神社は近隣にたくさんあるわけではなく、以前紹介した常陸大宮市高部の尺丈山神社、同市山方の駒形素鵞神社くらいのものです。


境内風景 拝殿と神馬社


 境内案内板


当社は南酒出字宮久保にあり祭神は保食神(うけもちのかみ)で南北酒出の鎮守である。創立年月は不詳。第七十四代堀川帝の時、源義家が後三年の役に向かう時に戦勝を祈願し、寛治三年(1088)四月大任を遂行し帰路に当社の社殿を造営して祭日を給せられたという。永禄七年(1564)南酒出城の酒出義忠は十貫文の地を寄進さる。中世には神宮寺である常勝院があり社僧がいたが、水戸に代藩主徳川光圀公の命によって寺を廃し唯一神道になった。

古来牛馬の神として尊敬され、殊に春祭(四月十七日)は盛大で「駒形馬」といって、衣装を美しく飾った馬に乗った若者が、近郷近在より押し寄せいろいろな催し物もあって賑わった。後略


この由緒によれば常陸大宮市高部の尺丈山駒形神社と同系統であることことが感じられます。


お祭りに馬に乗って押し寄せる若者は、現代に置き換えればさしずめ竹槍マフラーをつけたロードバイクで暴走するヤンキーのようなものですね。(笑)たいして違ったことをしているわけでもないのに、昔と今では若者に対する扱いが正反対です。



 

拝殿の扁額


また岩手県奥州市水沢区には陸中一宮を称する駒形神社があります。


いろいろな説があるようですが由緒を神社のHPより引用します。


上古の代、関東に毛野一族が台頭し、赤城山を崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配したが、後に上毛野国と下毛野国に分れ、下毛野氏は日光火山に二荒山神社を創建。休火山を背景として奉祀されたもので、赤城火山の外輪山にも駒形山があり、二荒山神社の古縁起に『馬王』という言葉が散見する。

上毛野・下毛野氏は、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ケ岳又は駒形山と名付け、駒形大神を奉祀した。奥州にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ケ岳と命名した。これは、上毛野胆沢公によるものであり、時は雄略天皇の御代(456年ころ)であった。このように全国の秀峰に祀られた駒形神社の中で、延喜式神名帳にあるのは宮城県栗原郡駒形根神社と当社の二社のみである。


駒形という名称は、古く赤城神社をカラ社と呼んだ歌があり、コマをカラと歌った。当時の朝鮮は高麗朝時代であり、文化伝来の憧れの国でもあったのでコマということばを用い世間に誇示した。箱根山縁起の箱根神社が駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請したと記載しているのと同様である。このように赤城の神は駒形の神とも言える。坂上田村麻呂や源頼義・義家父子も駒形大神を篤く崇敬し、武運祈願成就した事実を知るにつけ、奥州に栄華を築いた藤原四代の崇敬も篤かった。平泉より北上川を隔てて、東に望む束稲山は駒形山とも言う。このことは峻険な駒ケ岳を度々登拝することは困難を来たす事もあり、この山に駒形大神を奉祀したと考えられる。箱根縁起に藤原秀衡が銅をもって神像を鋳。駒形の神に祀ったことは藤原氏がいかに崇敬の誠を捧げたか想像することが出来る。かくして駒形神社の崇敬は華々しく、分社は東北各県より関東に亘り、その数、百余社に及んでいる。


祭神は駒形大神として

天照大御神  アマテラスオオミカミ (もっとも尊い神さまです。)

天常立尊   アメノトコタチノミコト (宇宙を司る神さまです。)

國狭立尊   クニノサダチノミコト (地球を守る神さまです。國狭槌尊とも言います。)

吾勝尊     アカツノミコト    (天照さまのお子様です。)

置瀬尊     オキセノミコト    (天照さまのお孫様です。天孫ニニギノミコトさまとも言います。)

彦火火出見尊 ヒコホホデミノミコト (天照さまの曽孫様です。山幸彦やまさちひことも言います。)


那珂市や群馬県前橋市の駒形神社の祭神は保食神(=倉稲魂命)ですが、岩手駒形神社には保食神


は祀られていません。 同名ですが全く系統の違う神社だということができるでしょう。


上毛野一族(群馬)が赤城山を奉斎しており、関東から東北進出の過程で、赤城山の駒形山にちなみ駒形明神を祀りその名を駒ヶ岳と命名し、駒を高麗(こま)の転化として、李氏朝鮮が創建される前の混とんとした半島を「文化伝来の憧れの国」ともしています。この時代より下がること1000年もすれば、日本は秀吉が朝鮮出兵をし、江戸時代には朝鮮通信使が毎年朝貢してくるようになり、立場が逆転します。そして明治時代になり日韓併合で半島は日本国の一部となってしまいます。

文化は国家が国家としての体をなしていたならば進歩するものですから、6,7世紀ごろに朝鮮が日本が憧れを抱くほどの国だったことはありえません。


群馬だから駒形にしたのではないですか?


かたや下毛野(栃木)には二荒山神社がありますが、95.嶽山箒根神社探検記で述べたように、上記由緒に出てくる日光の二荒山神社より宇都宮二荒山神社の方が、二荒山としては古いらしいのと、祭神が異なること、さらに二つの二荒山と駒形神社の祭神も異なっていることなどから、史実に沿った由緒とは言い難いものがあります。


上記ピンク色のところを百嶋系図では、鎌倉三代源実朝に「こうずけの せたのあかぎのからやしろ いかでやまとに あとをたれなむ」と謳われた赤城神社の本当の祭神、ウマシアシカビヒコチ(=金越智:妻は天常立=天御中主=白山姫=菊理姫でその子は大山祇、孫は大国主)は、韓流ドラマ「鉄の王 キムスロ」で有名な金朱露の後裔だとしています。駒形神社の祭神には金越智も豊城入彦(宇都宮二荒山の祭神)も大己貴=大国主(日光二荒山の祭神)も入っていません。


これは大いに疑問です。


それでもこの岩手の駒形神社の祭神は非常に興味深いです。特に置瀬尊をニニギとしているところです。これは天之杵火火置瀬尊(あまのきほほおきせのみこと)のことです。


古事記神話では天照-天忍穂耳-ニニギ-彦火火出見と連なって行きます。

ニニギはコノハナサクヤ姫とセットであればこそ、少しだけ名を上げることができるのですが、ここには姫はいませんでした。

したがって、この由緒は古事記をもとに創られた由緒であるということができますが、百嶋神社考古学的にこれらの駒形神社を分析すれば、以下のように考えることができます。

駒は音声データにでてくる「牛馬」のことでしょう。南部馬追いまでその形跡をたどることができると言っています。これはスサノヲと豊玉彦の移動を示しています。

崇神が列島に最初に馬を持ち込んだような話もしていましたが、いまのところそれは良くわかりません。

毛野地名は豊前のスサノヲ(ケツミコ)の本拠地である、豊前の下毛上毛からの移動を示しているのでしょう。那珂市や前橋の駒形神社の祭神はスサノヲの子である保食神=倉稲魂命ですから整合性は取れます。


記紀をもとにした神社という意味は、藤原氏といっていいのか不比等といったらいいのかまだ判然とはしませんが、一般的に呼ぶ藤原氏の意向で作られたという意味になります。

崇神の子孫であろう藤原氏(不比等が鎌足の子なのかははいまのところはっきりしていませんが)は自分の出自を正当化するために様々な系譜のねつ造を図っていると考えています。藤原氏というよりも高木(高皇産霊=許氏)系と言った方がより真実に近いのかもしれません。


高木系ニニギはニギハヤヒだったのです。


越智氏を乗っ取り、大山祇神社創建に係わってきます。


隅切角に三本家紋の河野氏の氏神様が表層雪崩のように猛スピードで崩れ去って行きそうです。


詳しくは別稿で。




     拝殿の神紋 宝珠

  
神馬                               拝殿に奉納された額

     
ご神木                             立派な石碑 駒形大神 

  
本殿の彫刻                          本殿の千木 男千木


境内社 左から愛宕神社(金山彦) 稲荷神社(本人;倉稲魂) 素鵞神社(父:素戔嗚)

  

 
 本殿の彫刻 上部に女神の象徴 フルール・ド・リス紋が見られます。


本殿の千木が男千木だったり、境内社が、愛宕、稲荷、素鵞、だったりすることを考えれば、長髄彦が


隠されている感じもします。

 


百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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