今回は常陸太田市(旧久慈郡水府村)東連地字面影山に鎮座する嵯峨神社です。
旧水府村は一寒村にもかかわらず、水戸の別称「水府」を村名にできた、なにか秘密が隠されていると思わされる地域です。江戸時代には、鬼平犯科帳にも出てくるように鹿児島国分と人気を二分する「タバコ」の地だったから「水府」と名付けたということが、その由来とされているようですが、東西金砂神社や武生神社、中世の佐竹氏のお家騒動(山入の乱)などを考えれば、なにかある!と考えておいた方が良いと思います。周りの地区からの見る目が違うのです。よく言えば格式が高いような・・・。
東海村須和間の住吉神社の記事を書いているうちに、嵯峨神社の祭神八千戈を思い出していました。
それは長髄彦(≒天津甕星=天香々背男)が大己貴という別名を持っていたかもしれないからでした。
八千戈は大国主、大己貴の別名とされており、軍神のイメージがありますが、もしかしたら常陸国においては天津甕星を表している可能性もあるということになります。
若い宮司さんの話では、この神社の祭神八千戈とは大己貴ではなく、地元の軍勢の意味ではないかということでした。これは中央(大和)勢力と対峙していたことを暗に示しています。
つまり、「まつろわぬもの」ということになります。可能性として天津甕星伝説が思い起こされるのでした。
八千戈の名を主祭神として祀っている神社は全国的に見ても少ないのではないかと思います。
また山幸彦(ニギハヤヒ)もまた大己貴の名を騙ったらしい雰囲気があります。
番外23.物部氏とはなにか?参照ください。
面影山というなんとも素敵な名前の所に鎮座しています。われわれの年代は面影と言えば、Gメン’75の主題歌「面影」を思い出してしまいますね(笑)
♪ムムムム-、ムムムムム- いつか来た道 あの街角に 一人求める思いでいずこ~ ああ一度だけ恋してもえた ああ、あの時はもう帰らない~♪
さて由緒を茨城県神社誌から引用します。
天喜四年源頼義、安倍頼時征討の途次、当社を石沢山に建立し、大任遂行の祈願をしたと伝ふ。治承四年源頼朝、金砂城の佐竹秀義を攻めたとき、佐竹の武将、千葉忠常防戦のため、沿道の民家に放火した。当社はこの時類焼し、礎石のみとなった。元禄九年光圀公によって面影山へ造営遷宮。上下東連地、芦間三カ村の鎮守となった。
いやはや込み入ってますね。清和天皇の子孫頼義が大彦(孝元天皇の子)の子孫安部氏を征討するときに建立し祈願をした神社を、頼義の子孫である頼朝が頼義の子孫である佐竹氏を攻める際に、(つまり同族の争い)佐竹の武将、千葉忠常(おそらく北辰信仰)が燃やしてしまったのです。
頼義は988年生まれ。天喜4年(1056年)時は68才。
ありえません。
子の義家、義綱、義光はそれぞれ、1039年生(頼義51才)、1042年生(同54才)、1045年生(同57才)。
ありえません。
20年ぐらい時代が違っているのではないでしょうか。
1075年没 87才。
まずありえません。
古文書に残っているからと言って平安末期の混とんとした時代に常識的に考えれば平均年齢30歳の時代にこの年齢はあり得ないでしょう。現在でさえ男は80才がやっとです。
50代で子供を儲けるのは現代人でさえほんの一握りです。
研究者たちはこれを信用しているのでしょうか。
中世史研究者の方たちはどうとらえているのでしょうか?この年で本当に子供を儲けたと思っているのでしょうか?常識は少なからず誤解の場合が多いけれども、寿命に関しての「常識」は多くの人が共有していると思います。
後三年の役は1083年。義家は44歳。ん~ほんとかな。微妙ですね。体力ないでしょう。よしんば戦場に行ったとしても足手まといになるだけではないでしょうか。
私なんぞは50代ですが足腰の衰えを感じ、気力の衰えもありとっても戦場に赴く気にもなれません。カメのようにコタツから首だけだし、キーボードを打つのが関の山です(笑)
それとも武士や御公家様は百姓から年貢で取り立てた食糧を独り占めしていたから、栄養状態が良く長生きできたのでしょうか。平安時代の都では、食べて吐くことが流行していたようですし・・。
地元の軍勢の総称を八千戈と呼んだのかもしれないという若い宮司さんの言葉は、「まつろはぬもの」ではなく、頼義や義家が奥州征伐時にこの地で軍勢を調達したことを記念したのかもしれません。
また嵯峨神社という名称も気になるところです。
嵯峨と言えば第52代天皇や京都の地名嵯峨野を思い出します。
常陸国などの神社創建ラッシュは嵯峨天皇の前の平城天皇の御世でした。また空海、橘逸勢とともに三筆の一人で、二人は遣唐使の同期でもあります。最澄も同期ですね。よからぬにおいがぷんぷんとしてきます。ゾロアスター教(拝火教)が本番を迎える時代です。
WIKIより嵯峨天皇の時代背景を引用します。
以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期を過ごした。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで338年間続く。だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。
皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。
このときから皇別氏族としての武家が始まったようです。
単純化すれば、宮家の増加--食糧の供給不足--財政難--皇別氏族の発生--武力による領地の取り合い--男は戦争、田畑の荒廃--さらなる食糧難--餓死者続出。平安中期から戦国時代まではこんなことの繰り返しだったことでしょう。
原因の一つは空海最澄のゾロアスター仏教の隆盛にあるのかもしれません。
境内社
熊野神社(事解男、イザナミ、速玉男)--(それぞれ金山彦、イザナミ、大幡主です)
八幡宮(誉田別)-----応仁天皇
伊雑宮(玉柱屋姫)----不明
伊勢神社(天照皇大神)
鷺森神社(大山祇)-----京都の鷺森神社の祭神はスサノヲ。
稲荷社(倉稲魂)
阿須波大杉神社(大物主)----阿須波とはタケミナカタの別名です。坐摩神社などの祭神の一柱になっています。アシバなどと読ませ、足場の神に成り下がっています。大杉神社は茨城県稲敷市にある倭大物主櫛甕玉命を祀る神社です。天理市の大神神社と同じように、大己貴、少彦名を配祀しています。
建御名方と大国主は神話でも親子になっていますが、倭大物主櫛甕玉は大国主の荒御魂というより大物が牛を表したり(牛頭天王=スサノヲ)櫛が櫛稲田姫を想起させたり、甕は息栖神社の甕、ずばり長髄彦を表していることが考えられます。(長髄彦はスサノヲと櫛稲田姫=アカル姫の子)
やっぱり常陸国の大己貴(八千戈)は長髄彦の可能性は否定できません。
百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。
メール k_kplanning @yahoo.co.jp
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