番外26.常陸はなぜひたちと読むのか? | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

常陸はひたちと読みます。

難読漢字に入っているようですが茨城県には常陸の付く市町村名が二つあります。

常陸太田市と常陸大宮市です。

現在この地区はNHKの朝ドラ「ひよっこ」の舞台「奥茨城村」であり全国的にも知られてきていますが、撮影場所は高萩市や大子町が多いのです。

その他にも、日立市、ひたちなか市があり、さらに那珂市を加えると、他県の人にはこんがらかって、どれがどこなのかわからなくなくなっていることでしょう。(笑)

常陸太田市は昭和の大合併のときに、ブランド総合研究所の魅力度ランキングで最下位を争っている、おなじ北関東の群馬県の太田市に先を越されていため常陸を頭につけることになったようです。

もっとも水郡線の支線である太田線の駅名は国鉄になった昭和2年から常陸太田駅でした。

百嶋神社考古学では「太田」はニギハヤヒ=猿田彦=四の大神=山幸彦=フツヌシに関係のある地名だとしています。

つまり通説で言う「物部氏」が移り住んだ地域であるということになります。

「通説で言う」と枕詞をつけるのは物部氏の正体がよく理解できていないからです。

少し古代史が解ってくると簡単に「その苗字は物部系ですね」などといってしまいますが、われわれは物部氏の解釈はいまだに付きかねています。

百嶋系図では、大水口=ウマシマジと大矢口=ウガヤフキアエズを物部氏の始まりとしています。ウマシマジは卑弥呼宗女伊予の兄になります。

後世系図を男系だけで表すようになってしまった、つまり男尊女卑のゾロアスター教の影響を多大に受けているわれわれにとって、物部氏の始まりはニギハヤヒだということにあまり疑問を感じませんが、母親は誰かと言えば、伊勢神宮の外宮様であり稲荷神社の祭神である豊受、倉稲魂ですから、非常に難しい解釈を迫られることになるのです。ひたちに因む地名と同じようなものです。

こんがらかってしまいます。(笑)

まして豊受の子、イヨは倭国の女王であり、孝元天皇の母ですから、天皇家も物部氏になってしまうのです。ウマシマジからの系統を見た時は、その子、ハエイロネ、ハエイロチが共に孝霊天皇の妃になっており、その子は吉備津彦と吉備武彦ですから、桃太郎も物部氏だということになります。吉備の国は物部氏の国になります。

かたや大矢口ウガヤフキアエズ系を見れば、河上タケルにつながりますから、熊襲は物部氏ということなります。

われわれが注目している建諸隅も物部氏になります。





常陸国の太田に物部連イカガシコオの3世の孫、久自国造舟瀬足尼の墓と言われる、梵天山古墳があります。これについては、116.雷神社探検記(常陸太田市藤田町)を参照ください。

120.神炊館神社探検記もお読みいただければ、舟瀬足尼=建美依米命=ヤマトトトヒモモソヒメであることが簡単には否定できないことをご理解いただけると思います。

その父は建許呂=ヤマトタケル(ヤマトタケコロ)=安曇磯良=但馬守(タジマモリ)になります。

物部二十五部族に狭竹物部があり、これが常陸太田市の地名佐竹と関連付け、狭竹物部は常陸国の佐竹が本貫ではないかと見る向きもあり、舟瀬足尼などを考えれば確かにその可能性はあるとも思え、頭の片隅に入れておく必要はあります。

ただ、ほかの二十五部族の本貫が関東にはないことを考えれば、九州の小竹がその地ではないかと思います。

 さてヤマトタケルが物部氏かどうかは後にして、常陸国風土記によれば常陸の地名の命名にはヤマトタケルが大きく関係しています。

口訳・常陸国風土記さんのHPより引用。


行き来するのに、(うみ)を渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いてゐるので、まっすぐ行ける道、つまり

すぐ行ける道、つまり直通(ひたみち)といふことから、「ひたち」の名がついたともいふ。


また、倭武(やまとたける) の天皇が、東の(えみし)の国をお巡りになったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひな

らすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水をお褒めになり、して手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となったともいふ。諺に「筑波嶺つくば ねに黒雲かかり、衣手ひころもでたちの国」といふ。

常陸国風土記 - WikiquoteさんのHPより引用


古人曰。常世之國、葢疑此地(昔の人がいった常世の国、すなわち天国とは茨城県のことなのだろうか と疑うほどだ。)


常陸をひたちと読む根拠はこれらからはわかりませんが、常陸国が、常世の国だとされるほど住みやすい国だったらしいことはわかります。

なので、まず常陸という文字を使った理由を考えてみました。

常は音読みではじょう、訓読みでは、つね、とこ、とわ、ときなどと読みます。

陸は音読みではりく、ろく、訓読みではおか、くぬが。

ひたちと読む気配のけの字ももありません。(笑)

さて、われわれは常陸をトコリク、あるいはトキリクと読めることに注目しました。

われわれの分析だと、常陸国の命名に深く関与したと考えられるヤマトタケルをタジマモリだと推定しています。

タジマモリといえば非時香菓(トキジクノカクノコノミ)=橘≒茨でした。

気付きましたよね?


トキリクとトキジク。(笑)


非時香菓とは、いつも芳香を漂わせる木の実の意、と大辞林は説明しています。すなわち非時は常と同義ですし、トキリクはトキジクからの転訛と考えることができます。

あるいは転訛ではなく、タジマモリがヤマトタケルであることを知っていた人物が、それを知られないように隠したのかもしれません。

タジマモリの親はヒタカ(比多可)です。

(母親である鴨玉依姫かもしれないので訂正)

常陸国には日高見国がありました。常陸国風土記で言うところの信太郡に相当します。日高見国を北上岩手県だとする解説もあります。


wikiより引用。

『釈日本紀』は、日高見国が大祓の祝詞のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている。

例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある。神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている。また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる。

その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている。戊辰戦争直後には北海道11カ国制定にともない日高国が設けられ、現在は北海道日高振興局にその名をとどめる。


ヒタカも十分に常陸国と関係があったことがわかります。

ヒタカはコノハナサクヤ姫と海幸彦=タケミカヅチの子だと、われわれは推定しています。

タケミカヅチは上記引用の鹿島神宮の祭神です。つまり子であるヒタカが親である鹿島を拝む、まさに系図通りの解釈でよいわけです。






さらに、ヒタカの子であるタジマモリ=ヤマトタケルがその本拠地の名をヒタチとした、そしてトキジクノカクノコノミを捜し求めたいわれから、トキジク→トコリク→常陸としたのであればすべてが実に納得のいく説明になるではありませんか。

"陸"に関してはまだまだ秘密が隠されていそうです。陸はロク、つまり「六」にもつながることを匂わせておきます。(笑)


2020年8月25日追記
メモ。
ヒタチは卑弥呼起つかもしれない。
ヒミコタツ
ヒタツ→ヒタチ

百嶋由一郎先生の演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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