127.足尾神社探検記(石岡市小屋)-足尾の正体とは? | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

番外28.比多珂は天日鷲だった?の最後に吉備津彦あるいは吉備武彦の痕跡を探さなければならないと書いた手前、探検隊ではブレーンストーミングで、吉備(キビ)について思い当たることを、これ以上は一滴も出ないところまで浅知恵を搾り出しました。(笑)


なおかつ、リブログ”420 栃木、茨城県境に跨る鷲子山上神社 北関東への神社調査 ⑤”


でも、もうすでに常陸国において吉備津彦は発見していますと書いてしまいましたので、速やかにアップしようと、大急ぎでまとめました(笑)

 

岡山県で吉備を結びつけるのは容易ですが、茨城県(常陸国)で吉備を見つけ出すのは簡単ではありません。古代史最高の機密事項、「八溝共和国」の痕跡はそう簡単には見つかりません。(笑)

 

吉備津彦や吉備武彦は桃太郎の原型だといわれています。

 

岡山県井原市の縣主神社の祭神は鴨別命で吉備津彦のいとこ若日子建吉備津日子命子孫、吉備武彦の御子。(足守は現岡山市北区)近くには建部(たけべ)地名があります。吉備中央町には竹部地名があります。


百嶋系図からは吉備津彦のいとこの子孫が鴨別命と名乗れる理由を見いだすことはできません。


百嶋系図


おそらく若日子建吉備津日子命は”子孫”となっていますが、吉備武彦その人と考えてよいでしょう。(上記系図で母方だけに注目した場合)


われわれの新解釈系図ではまさに”いとこ”となるし、鴨玉依姫の孫になるので、鴨別命と名乗れる理由も理解することができます。「鴨」については正統派と乗っ取りグループが渾然としており複雑怪奇なので詳細は別稿で論じます。越智氏=河野氏のなぞがまた一つ真実に近づきます。なぜ越智氏とされる伊藤博文が明治維新の大元勲なのかも理解できます。




新解釈系図


新解釈系図の流れ(タケミカヅチ--比多珂(天日鷲)--ヤマトタケル--吉備津彦、吉備武彦の流れからさらに拡大解釈すれば、通説で言う四道将軍のひとりと比定される吉備津彦は東国(とくに八溝共和国)から派遣された可能性が浮上します。


また井原市には足次山神社があり、祭神は安須波神(足次)、あ・すわ、つまり建御名方です。


井原(いばら)は茨(いばら)かと思うところもあり、現地に問い合わせしてみましたが、市の職員(おそらく学芸員)の方からは、注目に値するような回答はありませんでした。毎回感じるところですが、地元の教育委員会や郷土博物館の学芸員に聞けば、何か面白い話が聞けそうだと思い、連絡を取ってみるのですが今だかつてかのような回答にめぐり合ったことはありません。(笑)


どこでも町おこしに躍起になっているようではありますが、実はその根拠は古事記や日本書紀の記述を基にしている場合が多く、現実とはまったく相容れないことなのです。かくしてでたらめが拡散されていくことになります。知らず知らずのうちにイカスリ藤原(=日本会議= 偽ヤタガラス)の洗脳にはまっていくのです。


そんな体制に嫌気が差し、地方の神社が神社本庁から脱退しようとする動きが拡大しています。(富岡八幡宮を筆頭にする全国の八幡神社など)


天皇制集金システムとでも呼んだらいい、神社やお寺の制度が次第に崩壊しています。


すべてはピラミッド型の集金システムです。税金(所得税、健康保険税、消費税、相続税etc)、NHK受信料、電気料金、ガス料金、水道料金、電話料金、日本赤十字会費、とおんなじです。



井原(いばら)市でしたね(笑)


足次山神社の祭神安須波=タケミナカタは上記新解釈系図からわかるように、ハエイロネ、ハエイロチの父親になります。したがって彼女たちの子である吉備津彦、吉備武彦が奉斎する必然性があります。(孫が祖父を祀る)


さて今回の本題の足尾神社です。まずは石岡市(旧八郷町)小屋の里宮から。



社殿 鳥居はありませんでした。


手作り感満載の扁額?と天狗の象徴ヤツデ紋


境内社(神社誌では大杉神社か)と奉納された足形石


里宮近くから見た足尾山(右側の峯)


 山道途中にあったハンググライダーの離陸場





ハイキングコースにある社号標

 
 鳥居                          扁額


 
ゾウリ奉納所                      新築された拝殿


 
 扁額                          拝殿側の天狗の彫刻




拝殿裏側の奥宮入口(登山口)

足尾山頂上の奥宮


足尾山頂上から見た筑波山

 
奥宮の向き                       奥宮を参拝すると加波山を遥拝していた


由緒沿革を茨城県神社誌より引用。


祭神は国常立、面足(おもたる)尊、惶根(かしこね)尊。往昔の足穂山(おばつせ山)にして海

抜627米の高山に鎮座。醍醐天皇御足痛の折この神を霊夢に知り、御祈願すると忽ち全快したので白紙に御足形を印し「日本最初足尾神社」と勅額を賜る。これにより足尾山と改称したといふ。「足形の御影」と判木に形容し崇敬者に授与する。中略文治の初め源義経の臣、常陸坊海尊この山にこもり、杉室で仙術修法、山中八百余神を祀り、衆人神窟盗拝の途をひらき、源平の戦いに勇名を轟かしたと伝ふ。足尾権現と尊称し修験道場として著名。又当社を式内社

夷針神社とする説あり(弘安三年八月長唄)


つぎに口訳・常陸国風土記さんのHPより新治郡の条を引用

◆ 一、新治郡 「白遠ふ新治の国」 

 ……油置売ほか(中西部、小貝川中流 郡家=下館の東の協和町付近)

昔、美麻貴の天皇(崇神天皇)の天の下知ろし食しし御世に、東国の荒ぶる賊たちを言向けよ

うと、新治の国造の祖先となったひならすの命を遣はした。

ひならすの命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。新しい井を治(は)ったこと

から、新治の名がついた。諺に「白遠()ふ新治の国」といふ。

この井戸は今も新治の里にあり、季節ごとに祭が行なはれる。

郡家(郡庁)より東五十里のところに、笠間の村がある。村へ通ふには葦穂山を越えねば

 

ならない。葦穂山には昔、油置売の命といふ山の主(山姥)がゐた。今は森の中の社の石

屋に眠ってゐる。こんな俗謡もある。


()言痛(こちた)けば をはつせ山の 石城にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)

((もし人に知られて辛くされたら、小初瀬山の石室にともに眠らねばならない。だから気持ちを

抑えてくれ、私の恋人よ。)


小初瀬山は足穂山の古名のようです。神社誌に出てくる「おばつせ山です。


石屋、石城は足穂山から加波山につながる山道を走っていた時にナビに「石室」と表示がされたので、何かしらの古墳があったものと思われます。また小初瀬山は武烈天皇の別称小泊瀬稚鷦鷯尊との関連が考えられます。あの継体天皇の直前の天皇になります。


WIKIでも

天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼

武尊)の一部を接合したもので、ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を

経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史

観が現れているとの説もある。

と解説されています。

 


説でも最初の女帝と目される飯豊青皇女の次世代の天皇です。飯豊青は福島県に(だけといってもよい)祀られています。


75.飯豊姫神社探検記(福島県白河市)参照ください。飯豊青は、タケミカヅチ-コノハナサクヤヒメ及びナガスネヒコ=天津甕星から脈々と続く、石背(いわせ)国造健弥依米命(われわれはヤマトトトヒモモソヒメと推定)から続く系譜だろうと推測しているところです


さて、われわれのブレーンストーミングの結果をそろそろ記さなければなりません。(笑)


足尾とは足の尾、つまり踵(かかと)を示します。踵はきびすと読みます。


お分かりですね?


足尾とは吉備津なのでした。もちろん昔氏=そく氏=足氏=タラシ系の末裔だとの意味を含んでいるのです。したがって先祖はスサノヲ、金山彦、ウマシカビ彦越智につながってくるのです。神社誌での祭神は面足命と惶根命つまり金山彦と大市(おち)姫でした。


「日本最初足尾神社」の勅額を下賜した醍醐天皇(885~930年)は単なる足痛ではなく、足(たらし)系の意味を、おそらく東国所沢出身の右大臣菅原道真(845~903年)に聞いて思うところがあったのだろうと推測するのです。


京都にいた醍醐帝が筑波山系の一角にある何の変哲もない山を遥拝するはずはないのです。

 

平将門(884あるいは903~940年)の乱は一連のイカスリ藤原(オキツヨソタラシ系=山幸系)東国足(たらし)系=正統モーゼ直系金山彦系=スサノヲ系=タケミカヅチ系=ナガスネヒコ系=天津甕星系との争いだったのかもしれません。地域的に言うならフォッサマグナを境にした東西対決です。旧唐書に記載のあるように、


(1)日本国は倭国の別種なり。
(2)其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
(3)或は曰く『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。
1.或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
2.又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。
』と。<旧唐書、日本伝>


これは東国(日本:ひのもと)が西国(倭国)を併合したことにほかならず、都は実は京都ではなく富士山の良く見えるところにあったと考えるのが素直な事だと思われます。なぜならば、富士山は東国の女王コノハナサクヤヒメの象徴だからです。富士山について記紀では全くと言って


よいほど記載がありません。列島一の山が徹底的に無視されているのです。


にもかかわらず、藤原が下した道真の処分に激怒した将門が中央政府に反乱を起こしたのだろうと考えるのです。なぜ道真が太宰府にながされたか?それは、本貫である東国からもっとも遠いところだからです。東国に流したら、水を得た魚ならぬ龍になってしまいます。それでも九州には、初期九州王朝を守り続けていた「草の者」が依然として存在していました。



平将門の生年の一説903年は菅原道真の没年であり、将門が道真の生まれ変わりだという伝説を生むことになります。


平氏は決して桓武帝の系統などではないでしょうし、源氏も清和帝の皇別氏族などではないのかもしれません。すべてはねつ造だった可能性をわれわれは追求していきます。


醍醐帝は奥茨城村の大子町(八溝共和国)にいたのかもしれません。




百嶋由一郎先生の演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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