足尾山、加波山と続いてきた筑波山塊の神社探検は、最高峰の筑波山でとりあえずの完結となります。
新解釈系図で推測した、スサノヲ系統の流れを確認するために、常陸国で吉備〇彦の痕跡を探したことからこの探検は始まりました。
探検隊会議でのブレーンストーミングの結果、「親父ギャグ解読法」で吉備津(きびつ)を踵(きびす)と連想し(笑)、かかと(踵)は足の後ろだから、足尾山だと狙いをつけての出発でした。
足尾神社探検記では書きそびれましたが、吉備武彦を境内社に祀る神社は「茨城県神社誌」で発見していました。
それは笠間市(旧岩間町押辺)の八龍神社です。主祭神が乗っ取り高オカミ(神沼河耳)なのがなんとも新解釈系図の完成度の高さを物語っています(笑)
そしてこの記事を書いている最中、営業の仕事で茨城町を徘徊していた時に吉備津彦神社を発見したのです。(茨城町南栗崎)
Yahooブログ「隊長の備忘録」茨城町に吉備津神社を見つけたを参照ください。
130.三峰神社探検記(埼玉県秩父市三峰)で書いたように、筑波神社にも殷鳥居(三つ鳥居)があると百嶋先生は講演会で述べていましたが、何度か行った過去の記憶でははっきりしていなかったため、確認の意味で再度参拝したのです。
しかし現在は三つ鳥居ではなく、その痕跡も見つけることはできませんでした。
さて、筑波山は古代(といっても奈良時代らしいが)からツクバネとして知られていました。
万葉集にも残されています。
万葉集は奈良時代中期(760年頃)編纂されたと考えられており、古事記や日本書紀の、富士山すら書かれていない捏造歴史書のすぐ後の時代で、われわれの追及する欠史八代からは4~500年後で、現代から戦国時代を思い出しているようなものですから、果たして万葉集が神代についてどれだけの情報を含んでいるかはわかりません。万葉の時代ですら神代史追及にとっては新しすぎるのですが、実は万葉の時代こそが歴史ねつ造の中心的な期間なのです。
また、筑波の語源の解説の一つに、波が寄せた(着いた)から着く波だというものがありますが、われわれの親父ギャグ解読法も真っ青の説明ですね。
波(ば)は加波山の波と同様に「葉」の象徴であるかも知れません。
つまり、神代の最高機密事項、コノハナサクヤヒメ≒アメノウヅメの象徴を包含しているということです。
葉(コノハナサクヤヒメ)が着いたからツクバとした、と考えた方が良さそうです。
WIKIより『筑波山』の項目を引用
歌垣と『万葉集』
『万葉集』第9巻1759番収録の高橋虫麻呂作の歌には、
- 鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
- 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひかがふかがひに
- 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 人も言問へ
- この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ
- 今日のみは めぐしもな見そ 言(こと)も咎むな
- (現代語訳)
- 鷲の棲む筑波山の裳羽服津の津のほとりに、男女が誘い合い集まって、舞い踊るこの歌垣(かがい)では、人妻に、私も性交しよう。我が妻に、人も言い寄ってこい。この山の神が昔から許していることなのだ。今日だけは目串(めぐし、不信の思いで他人を突き刺すように見ること)はよせよ、咎めるなよ。
と、歌垣への期待で興奮する気持ちが素直にのびのびと詠われる。
奈良時代でもとがめられる行為について、筑波山の神は昔から歌垣を許しているのだから、のびのびと詠われる、とこの筆者は解説されていますが、実際のところ虫麻呂は期待と後ろめたさで相当どきどきしながらこの歌を詠んだと思われます。
同じことが現代では不倫と呼ばれ、不道徳とされています。イスラム教の国では、投石の刑で死亡した例まであります。
ばっかみたいですね。
女性の気持ちを推し量ろうともしない、こういった解説はまさに明治維新の賜物でしょう。明治の元勲などのお大尽様が「めかけ」を作ることの正統性を担保しているかのようです。
あたかも「しおりさん事件」の安倍友、山口某の官邸によるとされる、もみ消しを思い出します。
裳羽服津(もはきつ)は現在では裳萩津と表記されていますが、裳とは簡単に言えば腰巻で、歌垣の状況に合わせて解釈すれば、裳剥津、つまり腰巻を剥ぎ取った港と考えるのが良さそうです。
ところでこの作者の高橋虫麻呂は藤原宇合の部下で、常陸国風土記の編者といわれている人物です。
常陸国風土記は四六駢儷体で華麗に書かれたということですが、その内容は決して精神性の高さを感じるものではありません。
滋賀県の筑摩神社でも、「あのおしとやかな女は、私がどんなに口説いても寝てはくれない、しかし神社のお祭りではいくつの鍋をかぶるのだろうか」という意味の歌が詠まれています。
頭にかぶる鍋の数だけ男と寝たことを自己申告する祭りのようです。ようするに、もてない男のうっぷんを晴らすかのようにさらし者にしていると思われるのです。
筑摩や筑波はどうも男と女の関わり合いが付いて回るよう思われてきます。
これらが読まれた時代はすでに人間性が低下していたに違いありません。何せ腰巻を剥ぎ取ってしまうのですからね。
筑摩と筑波は、バ(BA)がマ(MA)の濁音である可能性を考慮すれば、同じ意味ととることができます。
歌垣とかロマンチックな印象を匂わせますが、実態は如何なものか。
さらに琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)も筑波と同義とすることも可能です。さらにさらに、竹生が武生や武部になり建部になり高部に相互転訛した可能性を記憶しておきましょう。
相互という意味は、どちらが後先かわからないからです。関東から見て西がすべて古いわけではないという意味を含んでいます。
これらの感じでは、オキツヨソも考えておかなければなりませんね。
さて、筑波山神社は常陸国に何社かある「○○山神社」の一つです。
全国的にも○○山神社は数多くというほどではありません。
一般的な理解では、○○山神社という名称は、修験道をほうふつとさせます。
有名どころでは、月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山があります。そのほかに談山神社、伊豆山神社があり、神社の総数からいったら非常に珍しい部類でしょう。
常陸国ではレポート済みの鷲子山上神社、阿波山上神社、加波山神社、これからアップする予定の羽梨山神社などがあります。特に鷲子山上神社、阿波山上神社はただの「山」ではなく「山上」であり、別格性を感じます。
筑波山神社の祭神は、一般的にはイザナギ、イザナミとされていますが、WIKIより引用します。
祭神について
筑波山は男体山・女体山からなる双耳峰で、その両峰にそれぞれ神があてられている。2峰が相並ぶ山容から、自然と男女2柱の祖神が祀られるようになったともいわれる。
『常陸国風土記』では筑波山について、西峰(男体山)は険しく、神の峰として登山が禁じられていたと記す。一方、東峰(女体山)は険しいながら夏冬絶えず泉が流れ、春秋には男女が集い歌垣が行われたという。このように男体山は禁足地、女体山は開放地とされており、風土記編纂当時にはすでに性格が大きく異なっていた。祭祀遺物も、女体山付近において7世紀末から12世紀に渡って多数発見されている。
神名は、六国史では「筑波男神」「筑波女神」と記されている。江戸時代に入ると人格神をあてる説も散見され、文献には次の記載が見える。
- 一社者日本武尊、一社者弟橘比売也、俗に陰陽二柱尊 (『神祇宝典』)
- 伊弉諾尊在陽峯、伊弉冉尊在陰峯 (『常陸国二十八社考』)
- 陽峯埴山彦神、陰峯埴山姫神 (『神名帳考証』)
- 祭神不詳とし、伝に「伊弉諾尊在陽峯、伊弉冊尊在陰峯、通謂筑波大明神」 (明治12年(1879年)の『筑波山神社明細調書』)
その後、六国史の記載に基づき、明治42年(1909年)1月に祭神名は「筑波男神」「筑波女神」と定められた。そして大正11年(1922年)に交替した社司により、「筑波男神・筑波女神」に「伊弉諾尊・伊弉冊尊」を併記することが定められている。なお、伊弉諾尊・伊弉冊尊とする伝承の起源・経緯に関しては詳らかでない。
ご覧のようにはっきりと確定はしていないようです。
基本的に二神であるから、イザナギ、イザナミに比定するのは、捏造歴史書『記紀』に準じた安直な考え方でしょう。
明治、大正期に定められたという記載が国家神道(儒教をもとにした、天皇を現人神とする新興宗教)の影響下にあったことを示唆しています。
WIKIでは、ヤマトタケルとオトタチバナ姫、ハニヤマヒコとハニヤマヒメ(ハニヤスヒコとハニヤスヒメ)であるかもしれないと引用しています。
ハニヤマヒコ、ハニヤマヒメを大幡主、草野姫(カヤノヒメ:ハニヤスヒメ)の兄妹と捕らえる向きもありますが、二神で祀る場合は夫婦神であるべきです。
兄妹を祀ってなんとする?
祭神の特定をする前に境内を探検しましょう。
江戸時代に竹生島神社から勧請された厳島神社
乗っ取り勢力の痕跡 大山咋の日枝神社と武甕槌=天忍穂耳などを祀る春日神社
太田を山幸彦=猿田彦と解釈するのは、囲カスリ勢力が乗っ取った後の形態です。
神門には、ヤマトタケルとトヨキイリヒコがしっかりと社殿の露払いをしています。
したがって、祭神はヤマトタケルではないと思われます。ハニヤマヒコとハニヤマヒメを祭神と考えるのが順当です。
この夫婦神をまずは金山彦と埴安姫とするのがよさそうです。
足尾神社も加波山神社も天狗がいました。天狗の大元は金山彦です。愛宕神です。おわたごさんですからWATERの子の神です。
海神(ワタツミ)の大元になります。水の神だから火伏の神になるのですね。
水の神ですから、極端な話、金山彦はハニヤスヒメの夫であり、親衛隊と考えるくらいがよさそうです。
ハニヤスヒコを大幡主などと捕らえていると神代の解明は不可能ですよ。海神が製塩の神になるのはまだしも、どうして海神が陶器の神様になるのでしょう。
大幡を黄ばん神と推測してごらんなさい。八王子の秘密にまで到達することが可能になりますから。
Flood map 海面高 現在より+30mで作成(九州北部)
福岡の櫛田神社の所在地は、鎌倉時代まで海のなかでしょう。
百嶋先生が言った、出戻り新参の意味をわれわれは深く、深く考えなければなりません。
天狗は金精神としての男根の象徴です。これは雰囲気的に金山彦を貶めています。イカスリ劉一族の策略を感じるところです。
常陸国に元祖九州王朝(実態は共和制で無ければおかしい)が移ってきたのは2世紀末から3世紀初頭だろうと考えています。
常陸国周辺の神社探検の結果から推測すれば、まず鹿島に上陸し、筑波山を仰ぎながら霞ヶ浦を進み、桜川市(旧岩瀬町)から笠間市、内原町あたりを本拠地としたのではないかと考えていますが、その時は既に金山彦、スサノヲは亡くなっていたと考えられ、中心となるのは、コノハナサクヤヒメとタケミカヅチ、オキツヨソタラシヒメとナガスネヒコ、そして彼らの子供達、イヨ(武夷鳥=八坂刀売=神主玉)と御歳(事代主=建御名方)、彦太忍と鴨玉依姫だったことでしょう。
さらにその子たち、遠津鮎目眼細姫と屋主忍武男心、ヤマトタケル弟橘(ハエイロチ)、カニメイカヅチ(ハエイロネ)あたりと考えられそうです。
Flood map 海面高 現在より+30mで作成(常陸国から武蔵国)
そしてその後は下野国から岩背国に本拠を移していくこと集団と、関東平野を西に進む集団に分かれそうです。(内原町の古墳と埼玉古墳の年代から推測:内原町のほうが古い)
こういった流れから、筑波山神社の祭神は、希望的観測を多大に含みながらも(笑)、イヨ(武夷鳥=八坂刀売=神主玉)と御歳(事代主=建御名方)になるでしょう。
スカイツリーや富士山、浅間山や赤城榛名山の見える筑波山は西方を見据えた見張り台でもあったのでしょう。
《歌垣に残るミトラの痕跡》
筑波町史よりまとめる。
歌垣は広く東南アジア一帯で行われた習俗で、村松一弥編約の『苗(ミャオ)族民話集のなかに解説があるようです。日本書記には大和の海石榴市や肥前国風土記逸文の杵島岳の歌垣、常陸国風土記では波崎の手子后神社の童子女の松原の話や、久慈郡小田の里、蜜筑の里などの逸話もカガイの一つだと考えられそうです。
重要なことはカガイはもともと最重要な神事であり、金関丈夫『発掘から推理する』にはつぎのような記述があると筑波町史第1編P186に載っています。
古い姿を想像すると、これら男女の山神は、年一、二度の両集団の合同の祭りに、それぞれの男女の姿をとって出現し、和合の神事をいとなんだものらしい。今も日本の多くの地方で、男女神の婚交の神事をやって、年の豊穣を祈るのは、そのなごりと見られる。(中略)この行事では、男女神の和合の結果として一身に両性をそなえたミコ神が誕生する。これが絶大な霊力をふるい、あらゆる予想的の害物を退治して、その年間の安泰と豊穣とをもたらす。これが祭りのクライマックスである。
これこそがミトラの名残ですね。だからわれわれは生年の同じ、長髄彦とコノハナサクヤヒメを双子とし、正統皇統(ミトラにこんな権威主義的なものはないはずですが)の継承者だと推測しているのです。
琵琶湖の竹生島も筑波山と同じようにツインピークスでした。その近くの近江富士三上山も御神神社から見れば二つ峯があるように見えました。
ミトラの象徴という意味合いから、唯一兄妹神として祭れる、ナガスネヒコとコノハナサクヤヒメが筑波男神、筑波女神という考えは捨て切れません。