五輪史に伝説を刻んだ羽生結弦 -記録- | BBIの絵顔で羽生くん応援ブログ~羽生結弦選手の美しさに打ちのめされながら出会えたキセキに感謝して~

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――おめでとうございます。涙の理由を教えてください。

 

 「ここまで来るのが本当に大変だったし、4年間ということを考えると、あれから応援してくださった方、ジュニアの頃から、ノービスの頃から応援してくださる方もいて、チームや、人間として育ててくれたコーチ、担任の先生とか、いろんなところで支えてくださった方々含めて、いろいろな思いがこみ上げてきました」

 

 

 ――今日の構成について、昨晩はどんな感じでしたか?

 

 「とにかく今日起きた感じで考えようと思っていました。幸いにも僕はいろんなオプションを持っていて、選択肢がたくさんある中で試合に臨めたっていうのは、ある意味けがをしてしまったから、こうやっていろいろ考えられるということもあったと思いますし、ある意味で、スケートができなかった期間があったからこそ、作戦ということを学び、勝つためにここに来られたこともあると思います」

 

 

 ――前半を丁寧に滑ったのは?

 

 「6分間練習でサルコーが不安だったので。とにかくサルコーさえ降りれば、前半の感覚で後半跳べると思っていましたし、何よりも、サルコーもトーループもアクセルも、トリプルジャンプすべて、何年間もやってきているんで、やっぱ覚えていてくれました」

 

 

 ――(3回転)ルッツを我慢できたのはどういうところですか?

 

 「右足で、やっぱりルッツを跳ぶのが大変なんで、右足が頑張ってくれたなという思いが強いです」

 

 

 ――演技を終えた瞬間、勝ったと思いましたか?

 

「勝ったって思いました(笑って少し歯を見せながら)。何よりもソチ五輪の時は勝てるかな、と不安でしかなかったので、今回は何より自分に勝てたって思いました」

 

 

 ――フリーの構成はいつ決めたのですか?

 

 「朝です。練習前に自分で決めました。理由はいっぱいあります」

 

 

 ――ループは跳びたかったのですか?

 

 「跳びたいとか跳びたくないの前に、何より勝ちたかったので。勝たないと意味がないと思っていたので、この試合は特に。これからの人生でつきまとう結果なので、結果を取りに行きました」

 

 

 ――ショートプログラム(SP)の後は追い込まれましたか?

 

 「んふふ(笑いながら)。そんなことはないです。ショートでよかったし、何よりもサルコーとトーループで、世界記録とはいかなかったですけど、こうやって評価していただけるのは自信が持てたので、そういう意味でも、こういう決断になったかなと思います」

 

 

 ――連覇への重圧はありましたか?

 

 「特に(笑いながら)。連覇とかそういうのじゃなくて、今回の試合で勝ちたいと思いました」

 

 

 ――震災からもうすぐ7年ですが、故郷で応援されている方には?

 

 「うーん……。どうですかね、もうちょっと考えてから話します」

 

 

 ――今日の結果は、キャリアの中でどう位置づけますか?

 

 「うーん……。単純に比較ができないですね。やっぱり。ただ、今思うのはずっと小さい頃から描いていた頃からの夢。ある意味中間点ぐらいに来たと思っているので、スケートを始めて、五輪で金メダルを取ると、(ロシアの)プルシェンコさんを見ながら思っていた頃の自分に、『いろいろあるけど頑張れよ』って言ってあげたいです」

 

 

 ――プルシェンコさんを超えましたが。

 

 「超えていないです(笑いながら)」

 

 

 ――ソチ五輪の金メダルとは違いますか?

 

 「もう本当に、あの時は無我夢中で頑張っていたし、あの時はあの時でいい演技ができたと思っているし、恥じるものもないし、悔いはないです。ミスがあったのは確かなので、払拭(ふっしょく)できるような演技が今回できたことはうれしかったところです」

 

 

 ――4回転を増やして挑戦していったことは今回、影響ありましたか?

 

 「それがあったからこそ選択肢があったという風に言えるかなと。ルッツ、ループを挑戦していなかったら、この構成を『落としてやった』という自信にはならない。一つとして無駄はなかったと思います」

 

 

 ――(練習先の)トロントではどれぐらい跳べていましたか?

 

 「何とか通し練習はやっていました。足の状況も気になっていましたし、足の状況については話すつもりはないですけども、本当に思っていたよりも大変だったので。最初に診断してもらった靱帯(じんたい)損傷だけじゃなくて、本当にいろいろなところを痛めてしまっていて、氷上にのぼれない日々が長かったので、ある意味体力とかよりも、スケートに乗ることの不安の方が大きかったかもしれないです」

 

 

 ――自分を追い込むことでフィギュアスケートを引き上げてきたと思いますが。

 

 「別に僕が引き上げたとは思っていないです。一番最初に4回転ルッツの戸を開いたのはボーヤン(ジン選手)だし、なんとか『僕も限界を』と思って彼を追いかけていただけだし、それからネーサン(チェン)という選手が出てきて、日本でも宇野(昌磨)選手という素晴らしい選手が出てきて、僕は時代に恵まれたスケーターだなと思います」(構成・藤田太郎

朝日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2006年トリノ五輪男子シングル金メダリストの「皇帝」ことエフゲニー・プルシェンコ氏(35=ロシア)は17日、メダリスト3人の写真とともに祝福コメントを掲載。「私は結弦をとても誇りに思う!!!! 何という王者だ!! ハビエル(フェルナンデス)もよくやった!!! おめでとう昌磨、何という戦いなんだ、すべての素晴らしいスケーターたちに感謝」とつづった。

 米NBCスポーツの報道によると、プルシェンコ氏は昨年10月の平昌五輪の優勝者予想で、羽生の名を挙げていた。羽生以外のメダル候補には宇野、ハビエル・フェルナンデス(26=スペイン)ネーサン・チェン(18=米国)と予想していた。


日刊スポーツ

 

 

 

平昌五輪は17日、フィギュアスケート男子フリーが行われ、ショートプログラム(SP)1位の羽生結弦(ANA)は206.17点をマークし、合計317.85点。海外メディアも1952年のディック・バトン氏(米国)以来、66年ぶりの連覇という偉業を速報。「五輪フィギュアの歴史を作った」「今や史上最高の立場を固めた」などと称賛している。

 

陰陽師「SEIMEI」を演じ切った王者・羽生が、手にした五輪連覇という偉業に、海外メディアも次々に速報した。

 英高級紙「ガーディアン」電子版も「ユヅル・ハニュウは今やGOATの立場を確固たるものにした。これで2大会連続の金メダルだ」と報じた。GOATとは「Greatest of all time(史上最高)」の頭文字にちなんだスラング。昨年11月の右足首故障を乗り越え、フィギュア史に残る存在と称賛されている。

 地元紙「USAトゥデー」電子版は「ネイサン・チェンが(フリーを)興味深いものにしたが、ユヅル・ハニュウが五輪フィギュアで歴史を作る」と見出しでレポートした。

 

「ネイサン・チェンは金メダルへの希望が潰えた後、華麗なる復活劇を見せた。しかし、若いアメリカ人は興味深いものにしたが、彼はこの世界のトップ、あるいはユヅル・ハニュウの作り上げた歴史を乗り換えることができなかった」

 SPでよもやの17位に終わった18歳の米国の若武者、チェンの4回転ジャンプを6本中5本成功させる圧巻の演技で、自己ベストを更新し、フリー1位の215.08点を叩き出した。12人ごぼう抜きの5位入賞を果たしたが、羽生が主役になったと評価している。

 フランス地元紙「レキップ」電子版も「ユヅル・ハニュウが五輪王者!」と速報。世界が「YUZURU HANYU」の金字塔を称賛している。

THE ANSWER編集部

 

 

右足故障による3か月ものブランクを乗り越えて平昌五輪で金メダルを獲得した羽生結弦(23、ANA)の快挙を海外のメディアも一斉に報じた。66年ぶりとなる五輪連覇には、冬季五輪通算1000個目という勲章まで加わり海外メディアも羽生を称えた。

 英国のガーディアン紙は「フィギュアスケート界の最大のスターである日本の羽生は五輪の金メダルを防衛するという想像できる限り最も満足いく結果で故障からの劇的な復活を果たした。五輪連覇は、1948年、1952年の米国のディック・バトン以来となる」と報道した。

「羽生は耳が聞こえなくなるほどの大声援に囲まれたホームアイスの雰囲気を背景に滑りを披露した」と、会場の様子をレポート。「右足首の怪我が懸念され、(ベストで競技できるのかという)疑念も抱かれていたが、4か月ぶりとなる公式戦で合計317.85得点で終えた。疲れの出る後半に2本の4回転(1本は連続ジャンプにできず減点)とコンビネーションジャンプのすべてを成功させたことで、これらの疑念は、根拠のなかったものであることを証明した」と絶賛した。

 ワシントンポスト紙は、「ネーサン・チェンが”4回転キング”として君臨も羽生が王座を獲得」との見出しを取り、昨年11月のNHK杯の公式練習で負った右足首靭帯損傷の故障を乗り越えたドラマに焦点を当てた。

「五輪前王者で世界王者の羽生は、素晴らしいショートプログラムで五輪記録となる111.68点を記録し、彼に向けられていた(競技への)準備に関する数々の疑問に答えてみせた。残る疑問はフリーでのスタミナだった。昨年秋に深刻な足首の故障に見舞われ、3か月間競技を行っていなかった羽生は、予定される4本の4回転ジャンプを含め、4分40秒のフリーを滑り終えるだけのスタミナを持っているだろうか?という疑念があった」とした上で、「しかし、彼は忍耐の限界に達しながらも、表現力豊かな演技を披露するのに十分なスタミナを持っていた」と称えた。

THE PAGE

 

 

右手の指で「1」をつくった。羽生結弦(23)=ANA=は、それを天に向かって高く掲げた。

 「勝ったって思いました。自分に勝てたって」

 

 痛めていた右足首への不安や、スタミナ不足を否定するかのような滑りだった。フィギュアスケート男子で66年ぶりとなる五輪連覇を誇った。

 

 右足首を痛めたのは、昨年11月のNHK杯の公式練習中。4回転ジャンプを着氷した際だった。「スケートに乗る不安が大きかった」と明かす。その右足で八つのジャンプ要素を着氷した。冒頭に4回転を二つ決めた。演技後半の4回転や最後の3回転は右足首がぐらついた。しかし、転ばずに耐えた。

 

 誰よりも高みを目指してきた。だからこそ、孤独でもあった。

 

 四大陸選手権に出場経験があり、羽生が所属するカナダのクラブで練習していた中村健人さん(26)は、何度か外食に誘っても「また今度に」と断られた。「いつになったら行けるんだい」と聞くと、羽生は「引退してからです」と答えたという。

 

 好きな野球の観戦にも、コンサートにも行ったことがない。羽生は「他のことに体力を使うよりは、こういう生活の方がいい。ただ、練習をするためにカナダにいるだけなので。僕は漫画やアニメの熱血系のアスリート」と話した。

 

 仙台市出身。高校1年の時に東日本大震災があった。練習のために地元を離れた。まともに高校に通えたのは1年間。同級生と一緒に卒業式に出席できなかった。フィギュアスケート部の後輩2人が参加してくれた1人だけの卒業式で、記念写真に納まった。

 

 同年代の仲間と連れだって遊びに行くことがない。「友達がいない」「お気に入りの場所はリンク」と言ったこともある。

 

 全精力を金メダル獲得に費やしてきた。「何より勝ちたかったので。勝たないと意味がない」。その意気込みで韓国入りした。

 

 試合後の会見で、羽生はこう話した。「五輪で金メダルを取ると思っていた(少年の)頃の自分に、『いろいろあるけど頑張れよ』って言ってあげたい」。夢を現実にした。それでも、「もうちょっと滑る」。スケート以外のことをするのは、まだ先になりそうだ。(後藤太輔

 

 

1920、24、28年 ギリス・グラフストローム(スウェーデン

1932、36年 カール・シェーファー(オーストリア)

1948、52年 ディック・バトン(米)

2014、18年 羽生結弦(日)

 


朝日

 

 

 

 

 

もう、涙が乾く暇がない

感動で胸がいっぱいです…

 


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