こんこんキツネ塾 第1章

こんこんキツネ塾 第1章

視点を変えると、世界が変わる。

「こんこんキツネ塾」は、一枚の図案で、気づきや思考整理のおはなしをお届けします。
わたしたちはついつい先入観や既成概念で物事を見てしまいがちです。
でも、なにか新しい視点を見つけることで、その瞬間から世界が変わって見えてきたりもします。
なにげない日常の中にも、楽しい発見は溢れているのかもしれませんね。
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カーナビに目的地をいれると、

いろんな道順を示してくれます。

早く着くルート
燃費のいいルート
混んでいないルート
そこから、いま最適なものを

選ぶことができます

私たちの人生についても
その目的地を設定することで
どのように進んでいくのかがわかります。

それが途方もなく遠くても
本当にたどりつけるのかわからなくても
目的地を設定すれば、
なにをすればいいか、というのは
少しづつみえてきます。

これを「ゴール」といいます。
ゴールをできるだけ明確にイメージできれば

何から始めればいいのか
どれくらいの時期に、
どのあたりまで進んでいればいいか
そんなことが見えてきます。

そして、人それぞれのペースで
どのようなルートでいくのかを
選ぶことができます。
まるで、カーナビのようですね。

ただ、ひとつ、私たちの人生も
カーナビと同じように
「目的地」と同じくらい大切なものがあります。

それが「現在地」です。

どれだけ「目的地=ゴール」を
正確に、明確に設定できても、
今いる「現在地」がわかっていなければ
正しいルートは検出されません。

現在地とは
「ありのままの自分の現状」です。

背伸びした自分でもなく、
理想の自分でもなく、
卑下した自分でもない、
「自然体の自分」の現在です。
それを正しく知る。

ゴールばかりに気をとられることなく
今の自分をありのまま
正しく知ることも同じように
とても大切なのだ、ということなんですね。
 
 
 
 
はい、ばけた。

前回に続いてヨガでいわれる「チャクラ」のおはなし。


チャクラを不思議なものだと思っていたら、
意外と身近でよく知っていることでした。

 

チャクラは簡単に言うと

「体の大切な場所を意識する」
ってことなんです。
 

今回は「おでこのチャクラ」

これは7つあるうちの6番目のチャクラです。

おでこはよく、アニメや漫画など創作では
「第三の目」として描かれていますね。
おでこには真実をみる「目」があるのだと

チャクラの話よりも、さらに
不思議な存在になってしまうわけですが、

それはきっと、私たちが
実際にそう感じているから、創作物に描かれるんですね。

はっきりと何かが見えるわけではないけれど
わたしたちが、想像力を振り絞るとき、
眉間にしわをよせたり、
手をおでこにあてたりして考えませんか。

これは、おでこに意識がいっている
おでこに集中しているということです。

また、目を瞑って考えるときには、
このとき目はまぶたの裏側から
おでこをみています。

おでこには脳の「前頭葉」があります。
ここは「思考力」や「イメージ力」
そして「IQ」と関係があります。

ある物事に集中して、
イメージを膨らませたり、
思考力をふりしぼるような、
深い思考状態というのは
実は「瞑想」と同じです。

考え事は、決して
しんどいことではありません。

夢中で考える、想像するということは
気づきや発見を得て自分を高める、
とてもきもちいいいエクササイズなのです。

 

 

 

 

はい、ばけた。

 

ヨガでいわれる「チャクラ」

興味はあるけど、不思議なものだと感じていませんか。

 

チャクラは簡単に言うと

人の体の大切な部分ってことです。

 

「チャクラに意識を集中する」と言われると、

どうしていいかわからなくなりそうですが、

 

「体の大切な場所を意識する」くらいなら、

たぶん、わかりやすいですね。

 

そこで、とくに簡単に意識できて

みんながもう知っているチャクラを解説します。

 

「おなかのチャクラ」

これは7つあるうちの2番目のチャクラです。
へそのしたの「丹田」というところです。

 

忍耐強い人を「丹田力」がある、といいます。
また歌や演劇などでは、この「丹田」を意識して発声をします。

 

つまり、私たちのからだの土台のようなものです。
ここを意識すると、身体がしっかり支えられてブレない。
身体がブレないということは、気持ちも揺るがない。

だから忍耐強く、しっかりした声がでる、ということなんです。

 

また、この丹田の場所には「腸」があります。
お腹を冷やさないようにとよく言われますが、
お腹が活動的であったまっているとき、
私たちは、リラックスすることができます。

 

お風呂に入って暖かくなっているとき。

湯たんぽや腹巻でお腹をあっためたとき。
体全体が和んで、眠くなりますね。

 

お腹があったまることで、
セロトニンという物質が脳から分泌されて
わたしたちは、安心感や満足感を感じます。

 

安心感があれば、
人はしっかりと落ち着いていられます。

 

 

 
おなかのチャクラを意識して
しっかりと、体を支えましょう

おなかのチャクラをあっためて、
ゆったりと、リラックスしましょう。

 

 

 

 

はい、ばけた。

自分探しの旅、というのは、
とても大切で意味のあることです。

でも「自分探しの旅」というのは、
海外旅行にいかなくてもできます。
離島にいかなくたってできます。


しらないところへ温泉旅行ぐらいが
ちょうど「旅」って感じがします。

遊園地にいくのだって旅です。
買い物にいくのだって旅です。

 

家から自販機まで歩くのだって旅です。
近くの公園で缶コーヒーを飲むのも旅です。


雑誌を眺めるのだって旅です。
漫画や本を読むのだって旅です。

アニメの中にしかない、
未来や違う星にだって旅にいけます。


でも、なぜ遠くに旅に行くことが
自分探しになるのでしょうか。

それは、遠くに行けば行くほど、
違う文化であればあるほど、
僕たちの価値観が揺さぶられるからです。

見たことないもの、聞いたことないもので
溢れている場所にいくことで、
自分のこれまでの価値観と
今見ているものとのギャップにおどろき、
感動がうまれます。

自分の知っていることとは違う世界、
それを強く実感することは
「自分のしっていること」つまり「自分」を
強く見つめ直し、実感することになります。

だから、日常生活では見失っている
「自分」が見えてくるんです。
 

それはつまり、日常にも「感動」があれば
「自分がわかる」ということもあらわしています。

家の近くの自販機にいくまでの道を
一歩一歩、丁寧にあるき
いつも見逃している景色をたくさん発見して
缶コーヒーを買って、公園で草木を愛で、
空の青さ、季節の息吹を感じながら
コーヒー美味しい!って感動できれば、

そこに生かされている自分のことに
たくさん気づけるのではないでしょうか。

目の前のたくさんのことに感動すること
そんな自分をたくさん感じること、

それが自分探しの、本当のところなんです。

 

 

 

 

はい、ばけた。

会話の中で「普通は~だ」となにげなくつかいます。
でもその「普通」というのは
いったい、だれにとっての普通なのでしょうか。

「普通」にはふたつの意味があります。

ひとつは「私の中の普通」
自分のこれまでの経験や体験に基づいて
できあがった自分の基準としての「普通」です。

 

もうひとつは「社会の中の普通」
友達同士の中で、学校の中で、会社の中で
日本の中で、など社会の基準としての「普通」です。

でも私たちが会話で「普通は~だ」というときには
あまり、このふたつを意識して
つかいわけていないのではないでしょうか。

でもこれは、意外とおおきな齟齬を生みます。

ある人が「社会」を基準に「普通は~だよ。」
と言ったことに対して、相手は
「自分」を基準に「いや、普通は~だよ」と
返したとします。

お互いに「社会の普通」で議論したり、

「自分の普通」で議論するのは意味があるでしょう。

でも、お互いが確認せずに
「社会の普通」と「自分の普通」とてで
議論を続けてしまうと、それが
共感できたとしても、ずれていたとしても
そもそもが、まるで違う土俵にいるのと同じなのです。

「普通」ということばの中には
個人的な視点と普遍的な視点がありますが
たいていそれを確認せずに話は進みます。

どちらかというと、そんなこといちいち確認してたら
うっとうしい人だなあと思われるかもしれません。

でも、どちらの「普通」か確認しないままに
「普通は~だよ」断定して話をすすめるのは
もう、思い込みの押し付けとかわらないのです。


完全に主観の入らない「普通」なんてありませんけど、
「私の中の普通」と「社会の中の普通」を
対峙して考えてみることは大切です。

それがあるだけも、少しでも齟齬をなくせますし、
必要のないすれ違いをへらせるのですから。
 
 
 
 

はい、ばけた。

 

学びとはなんでしょう?

何かを学ぶときというのは、
初めての体験に多いようです。

すると「発見」とか「気づく」ことと
「学び」はセットになっているようです。

おどろいたり、感動したときも
きっと何かを学んだ瞬間なんですね。

なんでも初めてのことは学びになりやすい。
初めてのことはドキドキするし、びっくりするし

刺激が強いから、集中するし、とても意識します。

でも、二度、三度と回数を重ねると
平気になってきて、普通になってしまいます。

普通から退屈になってしまうこともありますね。

それだけ、鈍感になってしまうんです。
そして、刺激がないことが退屈になり
より新しいこと、変わったことに

「依存」して不満を感じるようになってしまうのです。

 

学びというのは
刺激が新鮮で敏感なときに感じやすい。
だから慣れてしまって気にしなくなると、
新しいことを学べなくなってしまうのです。

こどものときは
同じことでも、何度も、何度も感動しました。

僕たち自身が、常に新鮮な感覚を忘れなかったからです。

 

同じことの繰り返しばかりに見える日常の中にも
たくさんの学びがあります。

新鮮な感覚を忘れずに、
何度でもおどろき、感動して過ごしたいですね。
 
 
 
 
はい、ばけた。
 

「○○は永遠に不滅である」

みんなの思い出の中や、
心の中に残り続けるものってたくさんあります。

例えばどんなすごいロックスターも、

いつかは死んでしまいます。

けれど、彼らの楽曲や

ステージパフォーマンスなど

うみだされた「作品」は

ずっと語り継がれて生きます。

そのロックスターが死んでしまった後も、

その感動がリアルに思い出せるほどに、すごい。
時代を超えても新たなファンをつくるほどに、すごい。

このとき、ロックスターは

肉体は死んでしまったけれど、

作品として、みんなの心の中に、

ずっと生きているものがある。

もしかして

「魂」ってそういうものじゃないでしょうか。

 

 

 

絵でも、音楽などの芸術や
政治や革命など

「なにかを成し遂げた」でも、

 

同じことを違う人がやっても

それほど影響がない場合だってあります。

 

そんな中ロックスターは

 

肉体を失ってもなお、

時代を超越して多くの人に

影響を与え続ける。


きっと、ロックスターというのは

魂が本体で、肉体は乗り物でしかなかったんです。

今はもっと自由になって
生き生きとしているんでしょうね。
 
 
 
 
はい、ばけた。
 

「あきらめる」ということは

「明らめる」ことであり、
「あきらかにする」がもとになっているそうです。

ふだん、あきらめる、というと、

なんだかそこで終わり、もうやらない。という感じがします。

それまでやっていたこと、こだわっていたことに関しては

もう見ない、考えない、追いかけないようにする。

 

そういう意味で使うのだと思いますが、

確かに、あきらめることで初めて見えてくる…
つまり「明らかになる」ことってあると思います。

 

「もう、あきらめた!」と思った瞬間に

それが、どうでもよくなって客観的に見えてくる。
すると、あれ、解決した…ということも。

 

自分のこだわっていたフィルターがはずれると、

ちゃんと見えなかったものが見えてきます。

でもそれは、覚悟をもって
あきらめた。と決めたときだけ。

 

「もうあきらめた、あきらめた」と
軽い口癖のように言っているのは

あきらめきれてないような気がします。

すると、いつまでも自分の追いかけているものが

なんなのか、余計にわからない。

 

「まだあきらめないぞ」とはっきり言える人は、
実は本気であきらめかけたことが
あるのかもしれません。
だから何を追いかけているのか

あきらかになっていて、

「あきらめない」で進んでいけることを

知っているのかもしれませんね。

さて、なにが本当の
あきらめなのか
あきらめないのか
よくわからなくなりましたが、



はい、ばけた…?

 

「快い」というのは人を満足させることを言います。

「楽しい」というのは快適で心地よいことを言います。
どちらもとってもいい言葉ですよね。

では、ふたつをくっつけてみると
最高にいい状態になるんじゃないでしょうか

 

「快楽」

 

あれ?
ちょっとまって。

確かに、めちゃくちゃ心地好さそうで楽しそうなんですけど

なんだか、やばい感じがするのはどうしてでしょうか。

そこから抜け出せなくなりそうな…

その心地好さに溺れてしまいそうな…

なにかをくるわせてしまいそうな…

ダメになってしまいそうな…



もしかすると、

「何事も過剰に享受してはいけない」ということを

私たちは、知っているのかもしれませんね。

 

例えば、美味しいものばっかり食べつづけるとか

毎日ごろごろ寝てばかりいるとか

いくら「心地良いもの」でも、

偏りすぎたらバランスを崩してしまうよ、と。

言葉のもつ雰囲気というのは、

それを気づかせてくれる役割なのかもしれません。

 

 

 

 

はい、ばけた。