大堀相馬焼コラム

【私と大堀相馬焼】〜第5回 笠井淳一さん(浪江中学校長)〜

浪江町大堀地区に受け継がれてきた伝統工芸品「大堀相馬焼」は、地域の人々にどれほど親しまれてきたのでしょうか。大堀相馬焼にまつわる思い出やエピソードをご紹介するインタビューです。
今回は、二本松市内の仮校舎で授業を続ける浪江町立浪江中学校長の笠井淳一先生にお話を伺いました。

大堀に赴任して分かった、大堀相馬焼の魅力

笠井さんのご出身は、大堀地区のおとなり室原地区です。浪江町の他のご家庭と同じように、ご自宅には当たり前のように大堀相馬焼の器がたくさんあったそうですが、最初はどの陶器店の作品も「みんな同じに見えた」のだとか。それが、二十代半ばに大堀小学校の教諭に就任し、地区にある窯元を訪れるようになると、見方が変わってきたといいます。

写真5写真=大堀地区井手にある「陶芸の杜おおぼり」では秋に登り窯まつりが開かれ、子供たちの作品も展示されていました。(2009年撮影/浪江町役場提供)

「窯元によって微妙に作風が違うんですね。今ほどバラエティに富んだ表現はなかったかもしれませんが、当時からすでに紫色を出している作り手さんもいました。こんな色の相馬焼があるのか、と驚いたものです。それまで、私の中で相馬焼というと『家で使う実用的なもの』というイメージでしたが、それにだんだん芸術性がプラスされて幅が広がっていく時期だったのかもしれませんね」

大堀小には窯があり、全学年の生徒たちが毎年窯元たちの指導を受けて作陶をしていました。作品は文化祭などで発表したり、2002年に陶芸の杜おおぼりが完成すると、その登り窯まつりでも展示したりしていたそうです。それくらい、地域の子どもたちは大堀相馬焼に親しんでいたのでした。

そして、笠井さんが4年間勤務した大堀小から転勤になったとき、贈られた記念品がこちら。↓DSC_1952

「当時は送別の品として、残った教職員が寄せ書をして焼き上げた相馬焼の皿を贈るのが習慣だったんですよ。私が転勤したのは昭和62年3月でしたから、もう30年以上も前のことですが、いまでもこうして大切にしています。大震災のとき落ちて割れてしまい、復元を試みたのですが…」

テープなどで丁寧につなぎ合わせたお皿を手に、笠井さんは「(大堀相馬焼の特徴である青ひびならぬ)ほんとの『ひび割れ』になっちゃいました」とお笑いになりますが、割れてしまったときはさぞや気を落とされたことでしょう。この大事なお皿は、現在お勤めの浪江中学校長室にあり、折に触れ生徒たちにも見せてお話をしているそうです。DSC_1950写真=思い出のお皿を手に、校長室にて。

ふるさと創造学で伝統工芸を学ぶ

2014年度より、浪江町を含む双葉郡8町村の小・中学校とふたば未来学園高校では、「ふるさと創造学」という授業が行われています。これは、生徒たちが故郷の魅力を発見し、新しいふるさとの姿を考える、探究的な学習活動です。

笠井さんが3年前に校長に就任した浪江中学校でも、子供たちの浪江の記憶をとどめ、浪江への思いをつなぐため、「ふるさと創造学」を実施してきました。

「いまの中学生は、大震災のときまだ小学1~3年生でしたから、浪江の記憶といってもほとんど残っていません。うろ覚えの情報を補うのが、『ふるさと創造学』です。地域のことを調べましょう、という授業は昔からやってきましたが、今はそこに住んでいないからこそ、ふるさとの歴史や自然、産業、文化、そして現状を学ぶことに対する気持ちは、まったく違うでしょうね。また、子どもたちの学習成果を積極的に発信することが、町民のみなさんを元気づけることになると考えています」DSC_1955写真=贈答品や記念品として使われることが多い大堀相馬焼。校長室にも、贈り物の器が並んでいました。

浪江中ではまた、ふるさと創造学の一環として、外部から講師を招いた「ふるさと浪江講演会」を年2回ほど実施しています。これまでのゲストは、町内外で活動を再開した事業者や町職員などですが、今年7月には、松永窯の4代目・松永武士が招かれ、大堀相馬焼についてお話しする機会を頂きました。

「生徒たちはこれまでも年に1回、作陶体験はしているんですよ。いろいろな窯元さんに来ていただいて、手びねりなどで器を作って、作品は文化祭のほか二本松で再開した復興なみえ十日市祭で展示したりしてきました。でも、『大堀相馬焼について』というテーマで講演していただいたのは、今回が初めてでした」

大堀相馬焼のシンボルである「左馬」(左を向いた走り駒の絵)には、「右に出るものがない」という意味があることや、二重焼にはどういう効用があるのかなど、この日初めて知った生徒たちも多かったそうです。

「生徒たちと歳も比較的近い松永武士さんが、ふるさとの伝統工芸を再興するため、販路開拓や情報発信、コラボ企画など様々な挑戦をしているお話は、すばらしい刺激になったと思います。講演後の感想では、『もう浪江は(被災地だからといって)特別ではない、本当の力をつけなければならない』と書いた生徒もいました」

浪江への思いを育む

原発事故による避難の前、約400名いた浪江中の生徒数は、現在9名。来年(2018年)4月には浪江町内に新しい小中併設校が開設される予定ですが、浪江中は生徒たちがいる限り、現在の仮校舎で授業を続けるということです。

DSC_1953写真=講演会にお招きいただいた際に差し上げた、松永窯2014年リリースの「KACHI-UMA」湯呑みと一緒に。

被災地域の教育は難しい局面が続きますが、ふるさと創造学を修めた浪江中の卒業生の中には、将来、自身の職業を通じて浪江の復興に関わりたいと明言する生徒もいるそうです。

「たとえ住む場所・働く場所は町外でも、そうした浪江への思いを育むことはできる」

そうおっしゃる笠井さんの校長室の外では、夏休みの間、生徒たちが自ら作詞した歌を練習する歌声が響いていました。

(取材・文・写真 = 中川雅美 2017年8月)

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