Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

思し召しのストリーミング

2017-10-16 | 
東京からのラディオストリーミング放送を無事聴取した。いつロケットが飛んで来て人迷惑なアラームで中断されるかとひやひやしていたが、金さまの思し召しで無事やり過ごせた。役にも立たたない警報で文化的な放送が中断されるとなると最早それは戦時態勢社会と呼ばれても仕方がないだろう。あの極右のポーランド政権でもそんな子供騙しのことはしていないと思う。いつものように日本とポーランドを比較すれば、ロケット防衛システムで合衆国と協調することはポーランドの国益に適うが、日本それは外交的国益に適わないどころか合衆国の軍事産業の育成でしかない。やればやるほど金さまの目標となり易く、国益に反するだけでしかない。如何にポーランドが現実政治の中で外交的見地から粋を尽くして、ロシアに対してもEUに対しても合衆国に対しても外交力を発揮しているかとの相違が甚だしく比較対象にすらならない。日本は未だに真面な外交すらしていない、恐らく明治維新以降ということだ。

前日から目覚ましを掛けて日曜朝7時空の放送に備えた。6時になる15分前に目覚ましを掛けていたのがスイッチを間違っていて鳴らず、タブレットのそれで目が覚めた。ルーターをリセットして万全を期す。VPNサーヴァーは前夜から見当をつけていて、中断無く完璧に作動してくれた。東京からの中継がアラーム中断の可能性が低いのか、関西の方が良いのかは分からなかったが、前夜の邦楽などを聞いた印象では東京の方が音質的に優れているように判断した。

承前)解説も前振りも全て聞いたが、キリル・ペトレンコを紹介して、ベルリンの監督に推挙される前から「オペラ界の巨匠」としたのは一歩踏み込んでおり、今回の演奏実践をマーラー演奏とヴァークナーのそれの基準になる可能性のあるものとしての言及も遠からずであるが、これも説明無くかなり踏み込んでいた。

総譜を広げながら放送を流していたのだが、10月10日のミュンヘンでの演奏会と明らかに異なっていたのは、例えば既に触れた「無駄な骨折り」での基本テムポと表現である。この指揮者の場合楽譜を読む時にテムポが完全に定まっている筈なので、たとえ伴奏であったとしてもその変化を不思議に思ったら、楽譜には「Gemächlich, heiter」 としか書いていない。八分の三拍子でこの言葉の意味「慌てずにゆっくり」で「楽しく」を含むと、ここで歌われているのはどう考えても遅過ぎて、シュヴェビッシュの言葉のアクセントも壊れてしまっている。恐らく東京での公演では、歌手のゲーネの意見を尊重すると同時に、放送での細部への配慮を考えてそれに従ったのではなかろうか?このテムポでは全く「楽しく」なく、ミュンヘンでの一茶のような俳諧も全く感じられない。その他の曲でもなるほどダイナミックスレンジは下に広がっていて驚くが ― NHKの収録技術共に ―、表現の精緻さや起伏はまだまだ狭く、プログラム一回目の本番演奏としては事故無しを第一に考えている様子である。収録の関係か、管弦楽団に対して声が可成り大きく聞こえるのは、管弦楽の音の押さえ方なのだろうか?

ミュンヘンでは、管と声の繋がりがとても良くて感心し、楽譜を確かめてみなければいけなかったのは「Und als das Korn/Brot」の一節目で、フルートとコールアングレが伴うところだが、この三節目の繰り返しの相違を確認するだけでもこの創作の意図が見えて来るのではないか。そして本番四回目の弦を合わせての精度には驚愕した。

その他、「原光」ではミュンヘンでは管と弦が物理的な距離もあってか ― オペラ劇場は舞台が深い ―、距離感があって大きなパースペクティヴを以って絶大の効果として響いたが ― これはその他においても管と弦が交わる以上に対抗・相槌の関係で響いた -、ここでは少なくとも放送ではそのようには響かない。

その他は、どうしても楽譜を見ながらとなると管楽器の演奏などが気になって、前打音が確り出ていなかったり、コールアングレが引っ込んでしまったりとその名人技には限界が見つかってしまう。それでなくてもこうしたよく出来たライヴものでも何回も繰り返させて聴かれるとなると、当然ながら修正しなければいけない傷は幾つも見つかる。余談だが、NHKの編集は、ドイツの番組時間ぎりぎりに押し込めているのと異なり、長めにフェードイン・アウトを使っていていい。

なるほど指揮の職人的な面とは別に、そこから楽譜をこうして調べることでその演奏実践から創作の本質的なところに手が届くようになるのが音楽であり、その努力を惜しむと何時まで経っても芸術を読み解くことが出来ないのである。そのような演奏がキリル・ペトレンコの芸術である。

後半の「ヴァルキューレ」第一幕も想定以上に所謂蓋の無い演奏実践として興味が尽きないが、あと三カ月もすれば2015年バイロイト以降初めての「ヴァルキューレ」演奏となるので、年末年始にこの録音も参考にして集中して触れたい。今回の舞台での演奏は、歌手の適役などの問題は明らかだが、来る一月の公演で必ず大きな意味をもってくると思うのでとても貴重な資料となった。(続く



参照:
オープンVPN機能を試す 2017-08-19 | テクニック
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マーラー作プフェルツァー流 | トップ | 針が落ちても聞こえるよう »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿