Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

マーラー作プフェルツァー流

2017-10-15 | 
承前)日曜日にNHKFMで10月1日の演奏会の録音が中継される。その前に忘れないうちに四度目の本番公演であったミュンヘンでの「子供の不思議な角笛」演奏について書き留めておこう。その演奏についての細部についてはラディオを聞いてから更に思い出すかもしれないので、大まかなことだけを纏める。

公演前のガイダンスで思いがけないことに気が付かされた。それは「子供の魔法の角笛」原文は方言色が強く、それも「無駄な骨折り」のシュヴェビッシュだけではなくて、プファルツの方言だというのだ。私に向かって言った訳ではないと思うが、全くそこに頭が回っていなかった。プファルツと言っても所謂マンハイム、ハイデルベルクのラインネッカー周辺のクアープファルツなのだろう。バイエルンからすればまさしくカールテオドール候のお里であり、植民地のような地域の感じになる。因みに、ドイツェホッホロマンティックとはハイデルベルク、ライン、イエーナ、ベルリンからなるらしい。

勿論少なくともグスタフ・マーラーが作曲したものに関しては、そうしたアクセントは強調されていないので、音楽的にはそれほどの意味をなさない。それでも一般的に言われるユダヤ的なリズムや例えばクラリネットでのクレズマーの冠婚の音楽やトリラ―の多用など、そのままのコラージュされる要素がより普遍的な意味を持つ。それをプファルツァーのアクセントに引っ掛けても決して違和感がないような感じがして、ローカルと日常、そのまるで万華鏡を覗き込むかのような世界観へとその意味合いが拡大する。今回の演奏でも「少年鼓手」での木管の上向き吹きなどに、どうしてもそこまでを聞いてしまうのだ。

あのおどけたような感じは、なるほど作曲家が書いているような市井のそれが取り囲む環境の自然に繋がりるという謂わば非芸術的な世界を描いているとなる ― 狭義のコラージュとなる。これを突き進めていけばもうそこにヨーゼフ・ボイスの世界が繋がっている。但しここではダダイズムやクリムトなどへと容易に考えを広げる前に、再び重要な点を思い出しておきたい。

一つは、ガイダンスでも挙がっていたタイトルの「子供」であり、先週末ラディオでマティアス・ゲーネが「子どもは関係ない」と電話口で語るのとは正反対の世界に留意しておくことだ。これは、復活祭の第六交響曲演奏前に語られていた所謂幼児世界のことを指す。マーラー研究の一つとしてまた恐らく精神分析的な見解として、この作曲家にとって表現されるべきとても「大きな世界」であったようで、それが根源的な前記の自然、環境認知へと結びついていて、そこでは最も日常茶飯なものが第一次資料となるということのようである。

その第一次資料として、作曲家は1906年に傾倒者であった作曲家アントン・ヴァ―ベルンに「子供の角笛の後は、リュッケルト詩しか作曲しない、それは第一次資料で、それ以外は第二次資料でしかないからだ。」と書いていることに相当する。

例えば今回最も素晴らしかったのは「無駄な骨折り」の殆んどオペラかリートか語りか分からないような歌唱であったが、会場がくすっと声が漏れるほどの効果があった。これなども本当に直截な表現であり、まさしく第一次資料による自然なのだろう。

それにしても東京からも指摘があったが、ゲーネの歌唱は嘗てギドン・クレメルが「ヴァイオリンソリストとしての最晩年」にやっていたような無音の音楽表現で全く声が聞こえないような呟きの歌唱になっていた ― 本人はヴォルフラム歌唱に際して管弦楽に合わせて声量を下げたなどと言い訳している。

それにしても「浮世の生活」での ― これは原題は「手遅れ」であるが ―、ヴァイオリンの八分音符のせわしない動きも見事に、それをまた声に合わせる精妙さは昨年の「四つの最後の歌」での絶賛に勝るとも劣らない名技だと思った。この管弦楽団ほど声に合わせられる管弦楽団は世界に存在しないと思う。同じように絶賛されたパガニーニでの演奏が恐らく「タンホイザー」を除くと今回の日本公演でのハイライトであったという指摘にも肯ける。ヴィーナーフィルハーモニカ―にあの精妙な合わせが出来るかと想像してみる必要もない。

繰り返すが日本からの放送が上手く聞ければ、また二つの異なる批評に目を通してから、全ての曲でたっぷりと音価を取ったその細部について触れたいが、今回は交響曲ではなかったが、明らかにグスタフ・マーラーの創造に新たに強い光が照らされるのを感じる。マーラー解釈に関してはレナード・バーンスタイン指揮のそれが途轍もない影響を与えてルネッサンスとされた訳だが、それ以前に今回の曲の一部もブルーノ・ヴァルター指揮国立管弦楽団によって1915年に演奏されているという。そこまで遡っての新たなルネッサンスということになりそうだ。既に学究的な立場からは様々な研究結果が出されているようだが、それらが全く演奏実践として反映されずに、バーンスタインの影響から逃れられなかったのが今日までの歴史だった。(続く



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦

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