Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

バラの月曜日の想い

2018-02-16 | 
承前)アンドレアス・クリーゲンブルクの演出にも触れておこう。批評などを読むと、そのコンセプトとなる構造を読み取るのは、風刺などと考える多くの人には一寸難しいようだ。もしかすると音楽的な構造理解度に準拠するのかもしれない。今回は座席も2015年12月に観た時とは視角も変わって、どちらにも死角があるので確証はないが、少なくとも最初のディスプレーで東北の大災害らしきが映されているのは気が付かなかった。冒頭のノルンの場は、世界中に報道された福島県の子供たちが防護服を着た男たちにガイガーカウンターを突き付けられている情景である。

予定調和の破局の向こう側にあるのがフクシマであったのだが、その後の情景にもフクシマ禍が描かれていることにもなる。勿論フクシマは、金に代表される欲望の世界の経済成長の資本主義の惨禍として捉えて、欧州同盟のユーロ批判の対象とされているとしてもしてもよいのだが、どちらも楽劇とは関係が無い。それでも、シェロー演出の資本主義批判よりも遥かに本質的な「指輪」解釈がそこになされていると思ったのは、前記したような音楽の流れが正確に実践されていたからに違いない ― 残念ながらケント・ナガノの音楽を完全に超えており、古い写真の入った当時のプログラムを態々買う気にはさせなかった主な理由である。

芝居としても音楽としても記録することには欠かないのだが、楽匠のテキストにも興味が向かった。一つは言葉遊びのようなジーク・フリートであったり、グート・ルーネであったりと所謂「おやじギャグ」を書き込んでいるのだが、そこに留意をすると、見えて、聞こえてくることがあった。これは昨今の字幕のお陰であり、何度楽譜を見ていてもシラブルが切れて読み切れていないことが殆どだ。要するにテキストが楽譜の読みの助けになるということもあるに違いない。それは、構造主義的な読みとなるだろうか、そうなるとブーレーズの演奏実践が外していたものを、もしかするとペトレンコの譜読みをこれが特徴付けるかもしれない。

劇作としての面白さに、二幕の隠れ兜を被ったジークフリートが兄弟杯を交わしたグンターに変身してブリュンヒルデの岩山に到達して、征服する場面がある。その複雑さについては既に触れたが、これに関する話しを往路の車中で聞いた。折からのカーニヴァルでの仮面についての話しでフライブルクの教授は質問に答えて、「(アレマンの仮面の行進が)異教の影響というのはあれは間違いで、それはプロテスタントが古いカトリックの影響を落とそうとした」解釈だとして、「例えばロットヴァイルの悪魔でない善のお面は、バロック以前のもので、まさしくルネッサンス時代のカトリックのそれだ」と言明していた。そして、「仮面を被ることで仮面の下の社会的なそれを超越する本性を示す」こともこの仮面の文化としていたのだ。それをこの隠れ兜に重ねて観察することは決して無駄ではないだろう。勿論私たちは、楽匠自身のテクストを通してそれを如何に音楽化していったかの経過とその読み取りに関心があり、それがどのように音楽実践されるかを批評しなければいけない。因みに、この舞台では全面舞台縁に前向きに立ったブリュンヒルデと舞台奥にその背を眺める兜の黒っぽい男がこちらを向いて立っている。この演出の幾つかの映像映えする場面の一つである。

楽匠の関心が、「タンホイザー」でも、ここでも、また「パルシファル」でもそうしたドッペルゲンガー的な人格を描くことでその方面の関心に向かっていたことはたとえそれが劇作的な手法であったとしても無視できないであろう。同時にこの四部作では、それが空間的、時限的なパラレルワールドへと通じていることは繰り返すまでもない。舞台祝祭劇と命名された所以である。その意味からクリーゲンブルクの演出が、前夜祭から第三夜まで一貫して、文字通り人海(まさにラインの波や炎などであるが)を使いながら、見えない世界を「もう一つの事実」から浮かび上がらせている。(続く



参照:
アレマン地方のカーニヴァル 2005-02-07 | 暦
非俗物たちのマスケラーデ 2005-02-08 | 文学・思想
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音

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