よろしい、ならばKriegだ | 団栗の備忘録

団栗の備忘録

心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつけます。なるべく横文字を使はずにつづります。無茶な造語をしますがご了承ください。「既に訳語があるよ」「こっちのはうがふさはしいのでは?」といふ方はご連絡ください。

「とりあへず領土を奪ってしまへば、どうせ武力行使はしてこないんだし、返還要求を無視し続けてゐれば、その内諦める。日本国とはさういふ国なんだ。こりゃあ尖閣諸島、対馬、北海道もいけるかも!」と支那人、朝鮮人、ロシア人は思ったことでせう。今回の合意は呑噬の誘ひ水になりました。都合によっていつも条約を破る国なので、平和条約を締結することは無意味だと思ひます。

 

≪国民中の一部の者が自分たちはもはや敵を持たぬと宣言してみても、情勢いかんによっては彼等はかくすることで敵の側に立って敵を援助することになるのであって、これでもって友敵の区別が廃止されたことにはならない。国家の市民が自ら自分は個人的に敵を持たぬと主張してみても、それはこの問題となんら関係がない。なんとなれば、私人は政治的敵を持たぬからである。こうした宣言でもって私人がいおうと欲して可能なのは、高々、彼がその現存在において所属している政治的総体から離脱して、私人としてのみ生きてゆきたいということにすぎない。さらに、個々の国民が全世界に向けての友好宣言によって、あるいは、進んで非武装化することによって、友敵の区別を除去できると信ずるのは誤りであろう。こうした仕方では世界は非政治化されないし、純粋道徳性、純粋法性あるいは純粋経済性の状態に置きかえられはしない。一国民が政治的実存の努力と危険をおそれるときは、まさに他の国民が彼に代わってその労をとり、「外敵に対する保護」とともに政治的支配をも引受けることになろう。そうした場合には、保護服従との永遠の連関によって、保護者が敵を規定することになる。≫

 

≪「吾〔汝を〕保護す、ゆえに〔汝を〕義務づけす」(protego ergo obligo)は国家の「吾思う、故に吾在り」(cogito ergo sum)であって、この命題を体系的に意識しない国家論は不完全な断片たるにとどまる。  外政関係と国家間の関係にあっては、この保護―服従公理の基本的正しさがもっと明白になる。国際法上の保護関係、盟主を有する国家連合もしくは連邦、多様な保護条約と保障条約はこの公理の中に最も明快な定式を見いだす。≫

 

≪軍備を持たぬ国民は友のみを持つと信ずるのは愚かであろうし、多分無抵抗性によって敵の心が動かされうると信ずるのは自己欺瞞的な予測であるだろう。誰しも、芸術的ないし経済的な生産性を挙げて断念しさえすれば純粋に道徳的な状態にこの世を立て直すことができるなどと考えはしないだろう。だが、もっと明白に、一国民の政治的決断の断念によって人類の純粋に道徳的な、あるいは純粋に経済的な状態をもたらすといったことは不可能なのである。一国民が政治的なものの領域に踏止まる力もしくは意思をもはや持たぬことによって、政治的なものは地上から消滅しはしない。消滅するのは弱い国民である。≫(カール・シュミット 『政治的なものの概念(第二版)』一九三二年 菅野喜八郎訳  カール・シュミット著作集Ⅰ 慈学社)