習俗

・道を行くと昼夜関係無く、好きな歌を歌い、音声は絶えない。

(三国志には、老人と子供が歌っているとある)

・兄が死ぬと嫂を妻とする

(三国志には匈奴と同じ習俗であることが触れられている)


刑罰

・被誅者(殺人者)は、皆その家人は没収され、奴婢となる。

・盜みはその十二倍の責めを負う。

・男女の淫行は、皆両者を殺す

・嫉妬した婦人を一番憎んでおり、殺して、遺体を山上に放置する。

(三国志では、女の実家が遺体を回収したい場合は、牛馬を提供すれば引き取れるとある)


葬儀

・死ぬと遺体を納める物に椁有るが、棺は無い。

・人を殺して、殉葬が多く、百を数える者もいる。

・夫餘王は葬儀に用いる玉匣を漢朝に常に豫かってもらっている。玉匣は玄菟郡にあり、王が死ぬとすぐに取りに迎い、そして葬儀をする。

(三国志の記載と同じである。魏略からの引用については記載が無い。)


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地理

・東夷の中で、最も平坦で広い。

(三国志には追加で山陵が多くて、湿地が広いとある)


農作物、名産

・土地は五穀を育てるによい

(三国志には五果は生育しないと追記有り)

・名馬、赤玉、貂、豽、酸棗のような大珠を出す。

(三国志では豽ではなく狖)

豽は豹に似た動物、狖は猿の一種なので、全然違う。漢時代と魏時代で変わった可能性もあるが何とも言えない。


民族性、武器

・円形に城柵を作り、宮室、倉庫、牢獄がある。

・その人々は大柄で、強く勇敢で、つつしみ深く、まじめで温厚で、寇鈔はしなかった。

・弓、矢、刀、矛を兵の武器にしている。


後漢書、三国志とも記載は同じである。


官名

・六畜で官を名付けていて、馬加、牛加、狗加がある。

(三国志には他に豬加、犬使、大使者、使者の記載がある。)

・その邑落は皆、諸加に属していて治められている。

(三国志には大きな者は数千家の主、小さい者は数百家であると記載)


風習

・飲食には俎と豆を用いている。

・集会では献杯や返杯をし、両手を胸の前で組み合わせて礼をして段を上ったり降りたりする。

・十二月に、天を祭り大きな集会を開き、連日飲食し歌舞する。名を迎鼓と言う。この時は刑を止め、獄の囚人を解放する。

(三国志は十二月を殷の正月とあるが、同じである)

・軍事行動する時もまた天を祭り、牛を殺し、蹄を見てその吉凶を占う。「魏志からの引用。牛の蹄が開いていると凶とし、合っていると吉とした」


ここまではほぼ三国志に記載があるものと同様である。



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・夫餘国は玄菟郡の北千里に在る

・南は高句驪と東は挹婁と西は鮮卑と接してる。

・北に弱水がある。広さは方二千里。元は濊地であった。


ここは三国志に書かれているのと同じである。「元は濊地」について、三国志は古老の話や、古い城で濊城があること等を記載していた。昔は濊族の地で、彼らは朝鮮半島に南下していき、夫餘国ができたのだと思われる。


夫餘国の初代王、東明についての記載がある。三国志では、魏略からの引用で記載があった。

・北夷の索離国の王が外出中に侍女が妊娠。

(魏略では稾高離国。外出中という記載無し)

・王が帰ってきて、侍女を殺そうとする。

・侍女は、天から鶏卵のような大きな気が自分に降りてきて妊娠したという。

・男の子が生まれ、王は豚小屋に放置するよう命令する。

・豚は口で息を吹きかけ、赤ん坊を死なせなかった。

・赤ん坊を馬小屋の仕切りに移したが、馬が息を吹きかけて、死なせなかった。

・王は神の仕業だと思い、母親の侍女に育てさせた。

(魏略では、王は天の子ではないかと思った)

・東明は成長して、弓の扱いが上手くなった。王はその勇を畏れて殺そうとした。

(魏略には、東明は常に馬の面倒を見ていたという記載がある。王が殺そうとした理由は、国を奪われるかもしれないと疑ったため。)

・東明は南に逃げて、掩[氵虒]水に逃げた

(魏略では、川の名前は施掩水。)

・水上を弓矢で撃つと、魚やすっぽんは皆集まって水上に浮び、その上を渡って逃げていった。

(魏略には、追っ手の兵達が来ると、魚やスッポンは水の中に潜り、兵達は川を渡ることができなかったとある)

・夫餘の地まで逃げて、王になった。

(魏略には、夫餘の地で都を作り王となったとある)


後漢書も三国志も大まかな流れは同様である。唐の章懐太子李賢の注で、掩[氵虒]水は高麗の蓋斯水のことだろうとある。ただ、夫餘は満州にあったので、この注は間違っている。索離国は夫餘国の北にあるので、満州北部の河川と思われる。ひょっとしたら弱水がそれに当たるかもしれない。漢時代には索離国はなく、匈奴、鮮卑、烏丸、夫餘のいずれかに滅ぼされたのだろう。


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【原文】

夫餘國在玄菟北千里南與高句驪東與挹婁西與鮮卑接北有弱水地方二千里本濊地也初北夷索離國王出行「索或作槖音度洛反」其侍兒於後[上に「任」下に「女」]身「音人鴆反」王還欲殺之侍兒曰前見天上有氣大如雞子來降我因以有身王囚之後遂生男王令置於豕牢「牢圏也」豕以口氣嘘之不死復徙於馬蘭「蘭即欄也」馬亦如之王以爲神乃聽母收養名曰東明東明長而善射王忌其猛復欲殺之東明奔走南至掩水「今高麗中有蓋斯水疑此水是也」以弓擊水魚鼈皆聚浮水上東明乘之得度因至夫餘而王之焉於東夷之域最爲平敞土宜五穀出名馬赤玉貂豽「豽似豹無前足音奴八反」大珠如酸棗以員柵爲城有宮室倉庫牢獄其人麤大彊勇而謹厚不爲寇鈔以弓矢刀矛爲兵以六畜名官有馬加牛加狗加其邑落皆主屬諸加食飲用俎豆會同拜爵洗爵揖讓升降以臘月祭天大會連日飲食歌舞名曰迎鼓是時斷刑獄解囚徒有軍事亦祭天殺牛以蹏占其吉凶「魏志曰牛蹏解者爲凶合者爲吉」行人無晝夜好歌吟音聲不絶其俗用刑嚴急被誅者皆沒其家人爲奴婢盜一責十二男女淫皆殺之尤治惡妒婦既殺復尸於山上兄死妻嫂死則有椁無棺殺人殉葬多者以百數其王葬用玉匣漢朝常豫以玉匣付玄菟郡王死則迎取以葬焉
建武中東夷諸國皆來獻見二十五年夫餘王遣使奉貢光武厚答報之於是使命歳通至安帝永初五年夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪殺傷吏民後復歸附永寧元年乃遣嗣子尉仇台詣闕貢獻天子賜尉仇台印綬金綵順帝永和元年其王來朝京師帝作黄門鼓吹角抵戲以遣之桓帝延熹四年遣使朝賀貢獻永康元年王夫台將二萬餘人寇玄菟玄菟太守公孫域擊破之斬首千餘級至靈帝熹平三年復奉章貢獻夫餘本屬玄菟獻帝時其王求屬遼東云


【書き下し文】

夫餘國、玄菟北千里に在り、南は高句驪と東は挹婁と西は鮮卑と接す。北に弱水有り。地、方二千里。本は濊地也。初め北夷に索離國王出て行く。「索或いは槖と作る。音を度るに洛を反す」其の侍兒、後に[上に「任」下に「女」]身す。「の音、人鴆に反す」王還り之を殺さんと欲す。侍兒曰く前に天上を見る、雞子の如く氣大有り、我に降り來る。因りて以って身有り。王之を囚す。後に遂に男を生む。王、豕牢に置くに令す。「牢は圏也」豕口を以って氣を嘘き、之を死なさず。復た馬蘭に於いて徙し、「蘭は即ち欄也」馬亦之の如く。王、神と爲すを以って乃ち聽き、母に收め養わせ名を東明と曰う。東明長じて、射善く、王其の猛を忌む。復た之を殺さんと欲す。東明奔り、南に走り掩[氵虒]水に至る。「今高麗の中に蓋斯水有り。疑らく此の水、是也」弓を以て水を擊ち、魚鼈皆聚まって水上に浮ぶ。東明之に乘り得て度る。因って夫餘に至って、之の王となる。

東夷に於いて、之の域最も平敞と爲す。土は五穀に宜しく、名馬、赤玉、貂豽「豽、豹に似て前足の音無く、奴は八反」酸棗の如き大珠を出す。員を以って城の柵と爲し、宮室、倉庫、牢獄有り。其の人麤大、彊勇で謹厚、寇鈔爲さず。弓、矢、刀、矛を以って、兵を爲す。六畜を以って官を名づく、馬加、牛加、狗加有り。其の邑落、皆諸加に屬し主る。食飲に俎豆を用い、會同に拜爵し、洗爵し、揖讓して升降す。臘月を以って、天を祭り大會し、連日飲食歌舞す。名を迎鼓と曰う。是の時、刑を斷ち、獄の囚徒を解く。軍事有り、亦天を祭り、牛を殺し、蹏を以って其の吉凶を占う。「魏志曰く、牛の蹏を解く者凶と爲し、合う者吉と爲す」

人行くに晝夜無く、好きな歌吟じ、音聲絶えず。其の俗、刑用いるに嚴急。被誅者、皆其の家人沒し、奴婢と爲す。盜みは一を十二に責める。男女の淫、皆之を殺す。治で尤も妒婦を惡み、既に殺し、復た尸を山上に於く。兄が死すと嫂を妻とす。死すと則ち椁有り、棺無し。人殺し、殉葬多く、百數を以ってする者あり。其の王、葬に用いる玉匣を漢朝常に豫かる。玉匣を以って玄菟郡に付し、王が死すと則ち、取りに迎い以って葬をする。
建武中、東夷諸國皆獻見に來たる。二十五年、夫餘王遣使し奉貢す。光武厚く答え、之に報いる。是に於いて、使に命じ、歳通ず。安帝永初五年に至り、夫餘王始めて歩騎七八千人を將いて樂浪に寇鈔し、吏民殺傷す。後に復た附に歸す。永寧元年乃ち嗣子、尉仇台遣わし、闕に詣り、貢獻す。天子、尉仇台に印綬、金綵を賜う。順帝永和元年、其の王京師に來朝す。帝黄門で鼓吹を作り、角抵戲を以って之を遣う。桓帝延熹四年、遣使し、朝賀貢獻す。永康元年、王夫台、二萬餘人を將いて、玄菟を寇す。玄菟太守公孫域、之を擊破し、千餘級を斬首す。靈帝熹平三年に至り、復た章を奉じて貢獻す。夫餘本は玄菟に屬す。獻帝の時、其の王、遼東に屬すを求めると云う。


【日本語訳】

夫餘国は玄菟郡の北千里に在り、南は高句驪と東は挹婁と西は鮮卑と接してる。北に弱水がある。広さは方二千里。元は濊地であった。初め北夷の索離国の王が出かけた。「索は槖と作る。音を聞くと洛の反対である」その侍女、後に妊娠した。「の音は人鴆に反対である」王が還てきて侍女を殺そうとした。侍女は言った。「以前、天上を見ると、鶏の卵のような大きな気があり、私に降りてきました。それで身ごもりました。」王は侍女を罪人とした。後に男の子を生む。王は豚小屋に置くように命令した。「牢は圏である」豚は口で息を吹きかけ、赤ん坊を死なせなかった。また馬小屋の仕切りに移し、「蘭は即ち欄である」馬は同じ事をした。王は神がそのようにしているのではと聞き、母に育てさせた。名前は東明と言った。東明は成長して、弓射に長けていて、王はその勇猛を畏れた。また東明を殺そうとした。東明は逃げ、南に走って掩[氵虒]水に至った。「今高麗の中に蓋斯水が有る。おそらくこの水がそうであろう」弓で水上を撃つと、魚やすっぽんは皆集まって水上に浮んだ。東明はこれに乗ることができて川を渡った。こうして夫餘に至って、ここの王となった。

東夷の中で、最も最も平坦で広い。土地は五穀を育てるによく、名馬、赤玉、貂豽「豽は豹に似て前足の音が無く、体長は八反」酸棗のような大珠を出す。円形に城柵を作り、宮室、倉庫、牢獄がある。その人々は大柄で、強く勇敢で、つつしみ深く、まじめで温厚で、寇鈔はしなかった。弓、矢、刀、矛を兵の武器にしている。六畜で官を名付けていて、馬加、牛加、狗加がある。その邑落は皆、諸加に属していて治められている。飲食には俎と豆を用いている。集会では献杯や返杯をし、両手を胸の前で組み合わせて礼をして段を上ったり降りたりする。十二月に、天を祭り大きな集会を開き、連日飲食し歌舞する。名を迎鼓と言う。この時は刑を止め、獄の囚人を解放する。軍事行動する時もまた天を祭り、牛を殺し、蹄を見てその吉凶を占う。「魏志からの引用。牛の蹄が開いていると凶とし、合っていると吉とした」

道を行くと昼夜関係無く、好きな歌を歌い、音声は絶えない。その俗、刑は非常に厳しい。被誅者は、皆その家人は没収され、奴婢となる。盜みはその十二倍の責めを負う。男女の淫行は、皆両者を殺す。もっとも一番は嫉妬した婦人を憎み、これを殺して、遺体を山上に放置する。兄が死ぬと嫂を妻とする。死ぬと遺体を納める物に椁有るが、棺は無い。人を殺して、殉葬が多く、百を数える者もいる。夫餘王は葬儀に用いる玉匣を漢朝に常に豫かってもらっている。玉匣は玄菟郡にあり、王が死ぬとすぐに取りに迎い、そして葬儀をする。
建武中に東夷諸国が皆献見に来た。建武二十五年に夫餘王は遣使して奉貢した。光武帝は厚く答えて、これに報いた。ここで、使者に命じ、年一通ずるようになった。安帝の永初五年になって、夫餘王は始めて歩騎七、八千人を率いて、楽浪郡に寇鈔して、官吏や民を殺傷した。後にまた漢に属すようになった。永寧元年に夫餘王は嗣子の尉仇台遣わして、宮殿に詣り貢献した。天子は尉仇台に印綬と金綵を賜えた。順帝の永和元年、夫餘王は京師に来朝した。帝は黄門で鉦鼓や笛で楽を奏で、相撲で彼らをねぎらった。桓帝の延熹四年、遣使して朝賀し貢献した。永康元年、夫台王は二万人余りを率いて、玄菟郡を寇した。玄菟太守の公孫域は夫餘軍を撃破して、千人余りを斬首した。霊帝の熹平三年になって、また文書を奉じて貢献した。夫餘、元は玄菟郡に属していた。献帝の時に、その時の王が遼東郡に属したと求めたと言われている。


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建武二十五年・・・49年

永初五年・・・111年


永和元年・・・136年


永康元年・・・167年


熹平三年・・・174年


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周~漢にかけての記載をまとめました。

・武王が紂を滅ぼすと、肅愼が来て石砮と楛矢を献上した。

・管叔鮮と蔡叔度は周に叛いて、夷狄を招いて誘う。周公は彼らを征伐し、遂に東夷を平定した。

(尚書には、武王が崩じて三監と淮夷が叛き、周公は王命を作ってこれを討った。又言う、成王が即位し、管叔鮮と蔡叔度を征伐して淮夷を滅ぼしたとあります)

・康王の時、肅愼はまたやってきた

・穆王の時、徐夷が王を称して、九夷を率い、宗周を征伐する為、西の河の畔に至った。穆王は畏れて、東方諸侯を分けて、徐の偃王に命じて東方諸侯の主とした。

・穆王は、楚の文王に命じて、徐を討たせた。徐の偃王は北に逃げた。

・厲王の時、淮夷は入寇した。虢仲に命じてこれを討たすも勝つことはできなかった。

・宣王の時、召公に命じて討伐させ、淮夷を平定した

・幽王の時、四夷は代わる代わる侵攻した。

・斉の桓公が覇者となったので、攘ってこれを後退させた

・楚の霊王が申の地で会盟すると、また来て会盟にかかわった

(左傳には、楚の霊王は蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、淮夷と申の地で会盟した、とある)

・越は琅邪に遷り、共に征戦した。遂に諸侯の国々を陵暴し、小国に侵攻し滅ぼした。

・秦が六国を滅ぼして、中国を統一する。淮夷、泗夷はちりぢりに なってなくなり民になった。

・陳勝が兵を起こし、天下は崩潰した。燕人の衛満は朝鮮に逃げてそこで朝鮮国の王になった

(前書より、燕王・盧綰が叛いて、匈奴に入った。衛満は亡命するため東に走り浿水を渡って、秦の故地であった空地に拠点を置いた。次第に朝鮮や蠻夷及び昔の燕や齊の亡命者を配下にして、王となり都を王險に定めた。)

・武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、ここで東夷が始めて中国と通じるようになった。

・王莽が簒奪した時、貊人が国境を寇した

・建武の初め、また東夷が来て朝貢した。時の遼東太守祭肜は威を北方に畏れられ、名声は海を渡った。ここで濊貊、倭、韓は一万里を越えて朝献した。

・章帝、和帝以後は、贈り物を持って訪問してくるのが定期的になった。

・永初の多難におよんで、始めて寇鈔するようになった。

・桓帝、霊帝は失政して、ようやく勢力が盛んになった。


建武(25~56年)の始めに濊貊、倭、韓は一万里を越えて朝献したとあります。ここで倭が初めて出てきました。始めというので25~30年くらいでしょうか。


徐の偃王の誕生の話は、高句麗の始祖・東明と同様に卵から産まれて、動物に守られています。原型はこの偃王の話でしょうか。偃王は仁だったので、楚との戦いを拒否して国を滅ぼしてしまったとあります。理想に走ると国を滅ぼしてしまった典型でしょう。非戦といっても相手には関係ないことです。


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