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安土城大手道の石段は城壁のようだ (信長の先進性と安土城の謎)

2015年11月26日 | 旅行

さて、今回の旅もクライマックスを迎えることになった。
あの織田信長が建てた安土城を訪れたのです。もちろん、天主や本丸の建築物はありません。
しかし、織田信長をはじめ豊臣(羽柴)秀吉、徳川家康、明智光秀など戦国時代のオールスターが時空間を共有した城なのです。その地に立てば、感慨深いものを感じました。

今から436年前、琵琶湖のほとりに空前絶後の建造物がそびえ立った。「天下布武」の象徴として織田信長が築城した安土城です。


当時、ポルトガルから来日したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に招かれ、安土城を観覧した。そのときの感想を「かつて見たことがないほど壮大な宮殿」と驚きを自著「日本史」の中で記しています。はるか海のかなたのヨーロッパ人宣教師をも驚愕させた安土城の天主。そこには、天下統一へと突き進む信長の大いなる野望としたたかな政治的意図が垣間見えたのでした。

安土城は地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。築城した目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、天下布武を象徴し、一目にして人びとに知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。---Wikipedia(「安土城」より)

この安土城には、信長の先進性と多くの謎が存在している。

先進性を現しているのは、
①わが国最初の本格的な天主の建築はこの安土城が始まりとされ、歴史上に名を残す名城であった。
②地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。
③総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣に天主の上がる城となった。ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。


④通常の天主は日常的な居住空間としては使用されなかったが、信長はこの天守で生活していたと推測されている。こうした高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われている。
⑤城下のどこからでも壮麗な天主が見えるようにして、人びとに自分の権威を示した。しかも従来にない新しいものを見せることによって、信長の天下になれば、これまでとは違った世の中になるということを人びとに印象づけたのです。安土城は権威を示すランドマークであり、近世城郭の先駆けといわれています。
⑥派手好きの信長は、城下で度々相撲大会を開いたり、安土城を提灯でライトアップするなど、これまでにない盛大なイベントを企画しました。天正10年(1582)の正月には、天主の隣にある本丸御殿を見物させて自ら百文ずつの見物料を受け取ったりもしているのです。

一方、安土城の謎は、
①直線的な大手道
城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城には籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備は著しく少ない。また大手門からの道は幅6mと広く、約180mも直線が続く。
こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。


②大手道の石仏
大手道の石段には多くの石仏が使われている。本来は信仰の対象となっていた石仏をなぜ使ったのか?
石仏は石段の中央や縁など目につきやすい位置に配置してある。これは何らかの意図を感じさせるものです。足の踏む場所に石仏があるということは踏めなくしていると考えられるし、それほど石材がなかったとも考えられます。しかし、天下の信長であるならば、意図して使ったとしか思えないのです。
それは築城工事の安全と完遂、つまり人柱的な役割と、完成後の城の安寧と宗教的精神的庇護を求めて使用したのではないかと考えられています。


③強い宗教色
一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、天主内部の宝塔(推定)や絵画、見寺の存在など、安土城には宗教的要素が多く見られます。
④本丸御殿と清涼殿(天皇の御殿)の酷似
安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。
信長公記に、安土城の屋敷の中で「御幸の間」「皇居の間」を拝見したと書かれている。また、菊の紋章がついた瓦が発掘されているのです。


⑤天主・本丸の焼失
安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。ただし、焼失したのは天主や本丸などであり、後に織田秀信が二の丸に入城したように、城としては十分に機能していた。
焼失の原因についてはいくつかの説がある。


・明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説。しかし、安土で出火があったとされるのは6月15日で、その日、秀満は坂本城で堀秀政の軍に包囲されていたこと、また、秀満は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器、書画を堀直政に引き渡してから坂本城に火を放っていることから濡れ衣と考えられる。


・実は犯人として名前が挙がる人物が、もう1人います。それは信長の息子の織田信雄です。ルイス・フロイスが『イエズス会日本年報』で信雄が犯人だと記しているのです。
信雄は明智勢が退去した直後に安土城に入りますが、その際、まだ城内に隠れていた明智勢の残党を炙り出すために火をつけたのではないかと考えられています。父信長が築いた城に火をつけたとは考えにくいようにも思えますが、信雄は信長によく叱られていたので軋轢もあったかもしれません。フロイスも「理由はわからない」としているように、信雄のその時の心情まではわかりかねますが、ほとんど利害関係のないフロイスがわざわざ記している点で、信憑性が高いように思われます。


⑥幻の屏風
信長がローマ法王のために狩野永徳に描かせ、宣教師ヴァリニャーノがバチカンに持ち帰った屏風絵です。天正13年(1585)にバチカン宮殿内の「地図の画廊」に展示されたことは確認されているのですが、以後、行方不明になりました。その「幻の屏風」を求めて数度にわたって滋賀県から調査団が派遣されましたが、未だ発見されていません。天主の姿を知る上で貴重な史料のため、発見が待たれるところです。

・私の感想記
まず、到着して大手門跡から大手道を見上げたときに、なんと急で直線的な石段だと大手道の迫力を感じたのでした。 
大手道は幅6mと広く、約180mも直線が続いていますが、一段の高さが一般の石段より高いため、駆け上がることは困難です。また、大手道には踊り場がないのです、休むこともできません。まして、武具を付けて武器を持って、上がったならば、動けなくなると感じました。もう大手道を攻め上がるだけで、降参、参ったと言わざる得ない設計となっています。

その上、大手道の両サイドには家臣の屋敷があり、そこから鉄砲や槍が飛んでくれば、ひとたまりもないと思いました。やはり、信長の城を作る設計は奇抜であり、群を抜く考え方であると感じました。皆さんも一度、この大手道の石段をぜひ登ってください。信長の叡智を感じると思います。私はこの大手道の石段は道ではなく、城壁のように感じました。

安土城の多くの謎と信長の先進性を十分に感じることができた今回の旅でした。
(安土城跡を訪れる前に、1km付近にある「信長の館」を見られる方がよくわかると思います)

---owari---

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